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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

2019年4月14日から、ディレクターズカットお届けします

2021.07.24 22:00

ショパンの演奏活動や出版の売り込みはフォンタナとの二人三脚だった。

フォンタナの先祖はイタリアの出身で建築家だった。フォンタナは11月蜂起後はロンドンに住んでいたこともあった。ショパンはフォンタナのこうしたイタリア的なセンスと当時最先端なロンドンで得て来たセンスを高く買っていた。

ショパンがサロンで演奏するときの衣装や部屋の内装の飾付けなどフォンタナにすべて任せたショパンだった。そのうえ、フォンタナはショパンと共にヨーゼフ・エルスナーに学んだワルシャワ時代の同級生であり、フォンタナの生真面目で決められたことを完璧にこなす性格をショパンは見込んでいたのである。そのうえ、フォンタナはショパンの作品も易々と演奏が出来、ショパンの作品の経緯いも古くから知り尽くしていた。フォンタナ自身も作曲家であった。ショパンにとって頼もしい友人であり、これ以上のビジネスパートナーは他にはいなかった。

フォンタナ自身もショパンの才能に惚れ込み、ショパンの手となり足となり仲間としてショパンを支えることに自分の存在価値をを見出すと同時に、ショパンの作品を通してショパンの才能の謎を解きたかったのかもしれない。そうしているうちに、フォンタナは自分にはショパンのような才能はないことを自身で知ったのであろう、ショパンの影でショパンを支える一方で、初めはショパンの指示を受けてからフォンタナ自身もショパンに提案を出し、ショパンの承諾を得て出版の交渉をしていたフォンタナだったが、次第に自分の采配で作品を改ざんするようになった疑惑を持たれた。ショパンも知ってか知らずか、自分の身体が間に合わないときはフォンタナに任せて来たのことに時々はストップをかけざる得なかった。

しかし、それでもショパンとフォンタナの友情は壊れなかった。

フォンタナとショパン、ふたりは支え合って生きていたのであろう。ショパンが亡くなる2年前にショパンの夢であったアメリカにフォンタナは行っている。

ショパンはそのことを自分のことのように喜んでいる。身体が元気で自由が許されるのならアメリカへ行を真剣に考えていたショパンだったからだ。

ニューヨークデビューではリストやタールベルクの作品を演奏したフォンタナだったが、その後、ショパンの代わりにショパンの作品をニューヨークで紹介したのもフォンタナだった。フォンタナは家族を持ちショパンよりも長生きしたが最後は悲し運命を辿った。

ショパンとフォンタナ、この二人の人生がひとりのものであったなら、どれだけ人生に成功したかしれない、しかし、人の人生は天才でさえひとりが全部を手に入れられるようにはできていないものだ、そこに憂いを感じずにはいられない。

ワルシャワの聖十字架教会は、一部はフォンタナの先祖によって設計され戴冠式や王室の行事によく使われてきた1600年代の建物だ。そこには今もショパンの心臓が収められていることはショパンとフォンタナの奇遇な運命の巡り合わせかもしれない。