【コラム】Vol.3 デュレンマットの作品 ①『物理学者たち』『天使バビロンにきたる』
必ずといっていいほど主人公が悲惨な結末をむかえる作品を多く遺しながら、独自の演劇論によって「悲劇」と名の付く作品は一つも書かなかったデュレンマット。このコラムでは、彼の作品をいくつか紹介してまいります。
■物理学者たち
まずは今回上演する『物理学者たち』をイラストとともに改めてご紹介!
本作もデュレンマットの代表作のひとつです。
「物理学者たち(原題:Die Physiker)」は、1962年2月にチューリッヒ劇場にて初演され、9月にはミュンヘンでも上演され、ドイツ語圏内で1962年~63年の間に計1598回上演されました。その後、ドイツ語圏外でも翻訳上演され、ロンドンやニューヨークでも大ヒットを記録し、彼の名声を不動のものにしました。
ヨーロッパでは、現在でもたびたび教科書にも掲載される誰もが知る名作です。
物語の舞台は、サナトリウム「桜の園」の精神病棟。そこに入所している3人の患者-自分をアインシュタインだと名乗る男、自分をニュートンだと名乗る男、そして「ソロモン王が自分のところに現れた」と言って15年間サナトリウムで暮らすメービウスと名乗る男-三人は「物理学者」であった。
(自称ニュートンは温水洋一さん、メービウスは入江雅人さん、アインシュタインは中山祐一朗さん!)
そのサナトリウムで、ある日看護婦が絞殺された。犯人は通称“アインシュタイン”を名乗る患者であり、院長は放射性物質が彼らの脳を変質させた結果、常軌を逸した行動を起こさせたのではないかと疑っていた。
(院長は草刈民代さん、警部は坪倉由幸さん!)
この後何が起こるのか!? 気になる結末はぜひ劇場で!
ここからは、デュレンマットのそのほかの代表作について、ご紹介してまいります。
\今回ご紹介するのはこちら!/
■『天使バビロンにきたる』(1953年)
1953年初演、早稲田大学出版部刊 スイス文叢書5「物理学者たち」の解説において“デュレンマットらしい宇宙的規模のメルヘン風喜劇”と称されている『天使バビロンにきたる』。
◇ ◇ ◇
物語の舞台は、王〈ネブカドネザル〉が、貧困のない真に社会優先の国家をつくるべく、乞食を禁止し、多くの人々を国家公務員として雇用しているバビロン王国。
ネブカドネザルは、ただ一人残された乞食の〈アッキ〉にも職を与え、より完璧な国家に近づけようと自らも乞食に扮して説得を試みる。しかしアッキは自由を求め王の提案を受け入れようとしない。ちょうどその時、ある天使が、神さまが創ったばかりの少女〈クルビ〉を「最も取るに足りない人間に引き渡す」という使命を担いバビロンに舞い降りる。
天使は唯一の乞食であるアッキがこの贈り物を受け取るのにふさわしいと思ってたが、乞食に扮するネブカドネザルを見て、どちらにクルビを渡せばよいのか悩む。
そんな中、アッキはネブカドネザルに、乞食術の勝負で自分が負ければ乞食を辞めると提案し、圧倒的に勝利。この様子を見た天使は、負けたネブカドネザルが「最も取るに足りない人間」であると判断し、ネブカドネザルにクルビを差し出すのであった。
ネブカドネザルは非常に美しいクルビに愛情を感じ、無垢なクルビもネブカドネザルを愛していると言う。しかしネブカドネザルは自分が「最も取るに足りない人間」とされたことに我慢できず、クルビを蹴り飛ばして傷つけ、結果クルビはアッキの手に渡ることになる。
クルビはアッキに愛情を与えられ、クルビもまたアッキに父のような愛情を抱きますが、バビロンに住む男達も皆クルビに夢中になり、彼女を我が物にしようと暴動が…。
そこへ天使が再び現れたことで、バビロンの男達は天に恐れを抱き、クルビを王の妃にして皆で崇めるように仕向ける。一方、ネブカドネザルもまた、一度手放したクルビを自分のものにしたいと思い続けていた。
しかしクルビが真に愛するのはネブカドネザルではなく、彼が扮した「最も取るに足りない人間」の乞食だけ。本来の姿のネブカドネザルに引き合わされたクルビは、乞食の姿に戻ってほしいとネブカドネザルにせがむが、王はそれを受け入れることができず、他の男たちもまた、乞食となることをおそれ、引き取り手のいないクルビはまたアッキのもとに戻ることに。
ネブカドネザルはクルビによって自身の国家を乱されたため、クルビを創り出した神を呪い、人間の業で対抗するべく、天まで届くバベルの塔の建設を決意。
アッキとクルビは新しい地を求め、ともにバビロンを去るのであった……。
◇◇◇
バビロンの塔とは、旧約聖書の《創世記》第11章に現れる巨塔のことで、人びとは天にも届く塔を建てようとしたので、その高慢に怒った神は言語を混乱させ、人びとを各地に散らして完成を妨げたといいます。
デュレンマットは、「私の喜劇は、なぜバビロンに塔が建てられることになったのか、つまり、伝説によれば人類の企てのうちで最も壮大なもののひとつ――最も無意味な企てであるにしても――がなぜ実行に移されるに至ったのか、という理由を示そうと試みたものである。われわれが今日同じような企てに巻き込まれていることがわかるだけにいっそう、その理由を示す試みは重要である。」と創作の意図を明らかにしているそうです。
※参考文献
・増本浩子「迷宮のドラマトゥルギー フリードリヒ・デュレンマットの喜劇」三修社 1998年
・F.デュレンマット/スイス文学研究会編「 スイス文叢書5『物理学者たち』」早稲田大学出版部 1984年
☆今後の更新もお楽しみに!