#みうらじゅん #マイ仏教 #小乗的自分探し #大乗的自分なくし 3.7.25
みうらじゅんの著書『マイ仏教』に、
『小乗的な「自分探し」と大乗的な「自分なくし」』という一節があり面白いことが書かれているので抄録した。この考え方は、武術などの他の修行でも同じことが言えるのではないかと。
如意輪観音菩薩
小乗的な自分探しと大乗的な自分なくし
その時の「俺」や「私」というものが一体何であるのか。
先にも述べましたが、いくら「自分探し」をしても、その答えが出るはずがありません。いつの「俺」かも、どのが「私」かもわからないわけですから。
それよりも「自分をなくす」方が、はるかに具体的な解決になるはずです。
つまり「機嫌を取る」=「自分なくし」なのです。
「何で俺が」をやめて、相手の機嫌を取ることを考えた方が、人間関係がスムーズに行く事は明らかです。しかしこれは大変な「修行」です。けれど、人に喜ばれることは間違いありません。
「修行」にしても、自分のためだけではなく、人に喜ばれた方が良いはずです。なぜなら、自分のためだけに修行をした場合、どうしても「ここまでしたのに・・・」という、またよくわからない「ここ」が出てきてしまいがちです。
これが、自らの悟りを求める「小乗仏教」と利他を目指す「大乗仏教」の違いのひとつではないかと思います(実際の小乗仏教と大乗仏教の2つがそう簡単な理由だけで分けられるものではないとは思いますが)。
大乗仏教における「利他」を象徴する存在として、「菩薩」がいます。「菩薩」と言うのは、大乗仏教のシンボル的な存在で、「悟りを求める」と同時に、人々を教えに導く役割を担っています。
「自分だけ悟ればいい」と言う、小乗仏教的な「修行」を目的とするならば、「自分探し」を心起きなくすれば良い。しかし「人に喜ばれたい」という大乗仏教的な「菩薩行」を目指すならば、「自分をなくし」て、人の「機嫌を取る」ことを考えるべきです。