「いざ吉原へ」5 構造(1)仲の町②「吉原三景容」
「いざ吉原へ」5 構造(1)仲の町②「吉原三景容」
仲の町を描いた浮世絵には、桜並木が多く登場するが、いつもあったわけではない。桜のシーズンに入る旧暦三月一日に合わせて、植木屋が大量の桜の木をわざわざ運び込み、大門から水道尻までの仲の町に青竹の垣根をめぐらして植えたのである。桜の高さも、道の両側に並ぶ引手茶屋の二階から眺めやすいようにそろえ、根元には山吹も添えた。
「仲の丁金のなる木を植そろへ」
「仲の町三日みぬ間によし野山」
夜は雪洞(ぼんぼり)でライトアップ。極めつきは、そんな夜桜の咲き誇り、また舞い散る中の花魁道中。吉原遊女の最高位に君臨する花魁が、外八文字の歩調で多くの供を従えて進む凛とした姿は圧巻で、絢爛たる盛装とともに江戸市中から見物に押し寄せた老若男女を魅了した。この桜、シーズン終わりが近づくと散り始めたものから撤去して、汚らしい姿は見せなかったともいう。
「功成り名をとげて桜ひんぬかれ」
この仲の町、花見時以外は季節に応じた催しが行われるイベント広場となり、様々な趣向を凝らした演出で外から来た遊客を一気に夢の世界に引き込んだ。「三月の桜」とともに吉原三大イベント=「吉原三景容」とされたのは、「七月の玉菊燈籠」と「八月の俄(にわか)」。
「玉菊燈籠」は、七月一日から月末まで、仲の町の引手茶屋が灯籠を軒先に吊るす行事。享保期に角町(すみちょう)の中万字屋(なかまんじや)という妓楼に、玉菊という才色兼備を謳われた遊女がいたが、病に倒れて惜しまれながらこの世を去った。その年の暮れ、玉菊を贔屓にしていた引手茶屋の有志たちが、軒先に灯籠を吊るして追善供養した。これが評判となり、以後「玉菊燈籠」の名で吉原の年中行事となった。
「ともしびで三十日は客をよび」
「灯籠の灯(ひ)にとんで入る若盛り」
玉菊を弔い、また吉原で亡くなった全ての遊女たちの霊を弔うための灯籠であるが、引手茶屋は年々趣向を凝らした「つくりもの」と呼ばれる灯籠も吊るすようになり、しだいに吉原独自の華やかな盆時期の催事として定着したのである。「俄」とともに、この時期は、女郎買いとはまったく縁のない一般女性までが出入りを許され見物に来た。廓側では雑踏にまぎれて遊女が逃亡するのを恐れ、大門に四郎兵衛会所の若い者を左右4人ずつ配置し、「女は切手、女は切手」と叫んだという。
「よし原は女のねだるひがとぼり」
八月一日は「八朔(はっさく)」。江戸城では諸大名が白帷子を着て登城し、仲の町を花魁道中する遊女は白無垢を着た。まだ暑い盛りなのでこれを「八朔の雪」などと洒落ることもある。
「白むくを脱いでゆかたで床へ来る」
この八月一日から月末まで「俄」という祭りが行われた。「俄」(「仁和嘉」、「仁輪加」とも書く)とは、仮装をした幇間(ほうかん)や芸者が中心となり、妓楼や引手茶屋なども協力して、踊りや有名な芝居の真似事をしながら練り歩いたり、車の付いた舞台を引いてまわったりする祭り。歌舞伎好きの引手茶屋や妓楼の主人たちが集まり、思いつきの俄狂言を仲の町で披露したのがはじまりという。「九郎助稲荷」の祭礼がはじまりという説もある。俄は八月を通してほぼ毎日(晴天の日のみ)、さまざまな趣向を変えて行われたため、多くの見物客を呼んで、吉原の夏には欠かせない風物詩となった。
「灯籠が消へて俄にさわぐなり」
「見て返るつもり俄に気が変り」
広重 よし原仲の町桜の紋日 江戸名所
国貞画『三體志(さんたいし)』吉原仲の町の夜桜
国貞「北廓月の夜桜」
清長「仲之町の桜」
広重「東都名所 新吉原五丁町弥生花盛全図」
歌麿画『青楼年中行事』 玉菊灯籠
春信「風俗四季歌仙 立秋」
障子の向う側に吊るされているのが燈籠。その向こうには七夕の葉竹が見える
『東都歳時記』「吉原燈籠」
『青楼絵抄年中行事』 俄
清長「青楼仁和嘉尽 京町二丁目 鹿島踊りの続」
北斎「仁和嘉狂言 三月 赤坂やつこぎやうれつ」
北斎画『東都名所一覧』 「新吉原八朔」