【社長通信】追体験としての旅
5月半ばの早い梅雨入りだったが山口ではまとまっての雨も少なく7月に入った。
日課にしているウオーキングも6月は雨による中止は3日しかなくよく歩いた。日中や夜に降ってもなぜか朝方は止んでいた。このまま空梅雨気味で明けるのかなと思っていたら偏西風による梅雨前線が日本列島にやってきた。
東京の奥座敷・熱海温泉を襲った集中豪雨による土石流は多くの人命を奪った。さらに西日本でも島根から広島にかけて線状降水帯による豪雨が災厄をもたらした。いずれは山口へと、昨年の仁保川の決壊を思い出しては、気構えた。
ところが12日は30℃を超えるカンカン照り、昼のニュースでいきなり九州北部、山口地方は梅雨明けしたとみられるとの報。実は当日のウオーキング時、かすかに蝉の声が聞こえてきたので、もしかしたら明けるかも、との予感はあった。いよいよ夏本番である。
ところで、昔ラジオでよく聞いた、永六輔の「遠くへ行きたい」を思い出しつつもなかなかその時間が取れず焦れていた。そして紀行文や旅の随筆などを読んではその世界を楽しんでいた。
そんな中70代になってようやく自分の時間が持てるようになった。日常から離れて見ず知らずの土地をぶらりと訪ねる。そこに暮らす人々とのさりげない出会は新鮮で何ものにもかえがたい。国内はもちろん海外も含めてあちこちの地に思いを巡らしていた。
ところが、折角のチャンス到来なのに昨年来のコロナ禍により旅はおろか不要不急の外出も自粛を迫られている。しかし、これも「明けない夜はない」と自らに言い聞かせては本の世界に楽しみを見出している。以前のように時間もなく金もない中での旅は本の中での時空を超えての追体験でした。
文学作品などの物語世界に入り込み、作中人物のそれぞれの人格を通して思索し、感情移入しては時代の空気や風土に触れる、これこそ読書の醍醐味である。江戸時代の旅のハイライトは“伊勢参りで”庶民にとって一生の夢だったようだ。弥次さん・喜多さんの『東海道中膝栗毛』などはその代表作。松尾芭蕉の『奥の細道』などの紀行文はまさに芭蕉の旅をわがものとして追体験できる恰好の旅の本で繰りかえし読んだものだ。
3年前にロータリーの国際大会でドイツに行ったときは、ナチス・ドイツのユダヤ人大虐殺の舞台、アウシュビッツを訪ねた。というのはわが社が立ち上がったばかりのころ、海のものとも山のものともわからぬ時に真摯に読んだ本の一冊が『夜と霧』であった。
ユダヤ人の捕虜として収容されたアウシュビッツから奇跡的に生還した精神科医のヴィクトール・E・フランクルの名著である。絶望的な状況のなかで、人間とは、生きるとは、を考え続けた、その強い精神力はどこから来るのか。収容所の入り口には「働けば自由になる」との看板が掲げられていた。小雨の構内で各収容施設を見回しては収容者の悲しみを思った。そして、生きることの意味を理屈ではなく、皮膚感覚で受け止めた。人生観が変わる旅だった。
代表取締役 加藤慶昭(2021年7月15日記す)