「愛憐 馬頭観音」について
作家・星山剛一氏
ペット供養堂の御本尊「愛憐 馬頭観音」像を制作していただいた彫刻作家・星山剛一さんが寄せたメッセージと、氏のプロフィールを掲載します。
制作にあたり
馬頭観音様は馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった時代において愛馬への供養や守護仏として祀られたことがはじめとされています。現代では犬をはじめ、猫や鳥などの様々な動物が家族の一員として大切に愛されています。そのような動物の動物守護の観音様として穏やかに見守っていただけるような表情や様相となるように、仏像彫刻の伝統にこだわることなく、現代の人間主義的な技法を取り入れて制作を致しました。
また動物たちはそれぞれのかたちで観音様に戯れ、寄添い、守られ安らかに過ごしている様子を表現しています。
みなさまのこころに浸透して和ませ愛さsれる動物の供養塔となることを願っています。 星山剛一
プロフィール
1978年、大阪府生まれ、東京在住。京都教育大学大学院 教育学研究科美術教 卒。
幼少よりもの作りが好きで、美術科の高校に進学し専門的に芸術の勉強をはじめる。大学では彫刻科を専攻し彫刻を学び、具象彫刻(人物彫刻)の表現の美しさに出会い志す。大学院より本格的に具象彫刻の制作を行い、日本美術展覧会(日展)に初入選を果たす。大学院修了後も出品を続け、現在は教職を務めながら、日展の会友として人物彫刻の制作を行う。
星山さんは、私の義妹夫に当たります。
本来の専門は現代彫刻ですが、今回、ペット供養堂の本尊として「より人間味のある菩薩像」を構想した私が、無理を言って制作を依頼しました。
彼も快く引き受けてくれましたが、やはり実際の制作は大変だったようです。
制作期間中、未知なるコロナ禍の発生に加えて、勤務先の転勤もあり、身辺の生活リズムを整えるのが大変だったようです。またこの間、義妹が第一子を出産し、家庭人としての彼の内面にも、少なからず影響があったと推察します。
今年は例年出展している『日展』にも出展せずに、およそ一年かけて、専門外である仏像彫刻や観音像容について勉強をしながら、貴重な時間と労力、そして創造性を、「愛憐 馬頭観音」像の制作に当ててくれました。
この場を借りて、改めて感謝申し上げます。
「愛憐 馬頭観音」の像容と命名
星山さんに、ペット・動物供養の主仏である「馬頭観音」像の制作を依頼した時、私からは大まかに2点のお願いをしました。
1つ目は、犬や猫などの、供養の対象となる動物の姿を視認できるように具象すること。
2つ目は、馬頭観音の像容として一般的な「憤怒相」ではなく、「柔和相」にすること。
左は、福井県小浜町・中山寺の馬頭観音(憤怒相)
いずれも、愛するペットを供養する飼い主の心情を慮ったものでした。
そして、名称に「愛憐」と冠名したことについて。
「愛憐 馬頭観音」というお名前は、おそらくどの仏教辞典にも民俗図鑑にも載っていないでしょう。
なぜなら、私による造語だからです。
元々は供養堂の名前自体に「憐」という字を入れたいと考えていました。
でも語呂の良い他句との組み合わせに妙案がなく、最終的には「月虹堂」と名付けましたが、この「憐」の意味するところを、何かに反映させたいと思っていました。
飼育を通して、ペットは恵まれた暮らしを得て、飼い主はペットから「癒し」を得ます。
決して主従関係や一方的な庇護を受けるのではなく、ペットと飼い主はお互いを「相憐れむ」関係。「憐れむ」とは「哀れむ」ではなく「慈しむ」ことです。
「家畜」と言われた時代から変遷した現代のペット供養において、「憐」は最も象徴的な語句ではないか、と感じていました。
そして「愛」。
本来は自然に帰する鳥獣と、ペットを隔てるものは何か。それは飼い主の「愛」が介在するか否か、ではないでしょうか。
そして飼い主にとって、ペットとの死別による悲しみは、「愛惜」にどう区切りをつけ、ペットとの関係性をどう繋ぎ直すかに掛かっています。
この「愛惜」の区切り方は、人との死別でも、本質は変わらないのではないでしょうか。
飼い主とペットの「愛惜」の絆を広く受け止める観音菩薩として、この度は「愛憐」の語句を冠名させていただきました。
運送やら、眼入れやら
今回、何気に苦労したというか気を揉んだのが、仏像の運送でした。
星山さんに制作を依頼した当初は、まだ「コロナ禍」とまで言える状況ではなかったこともあり、いざとなったら星山さんのアトリエ兼自宅のある東京都調布市まで、私が車で自走して引き取りに行く、もしくは星山さんに運送してもらうことも考えて、運送に関わる経費を「甘く」見積もってました。
しかしコロナ禍となって、東京との往来が難しくなったことで、星山さんに美術品運送の業者に問い合わせてもらったところ、なんと運送料だけで十万円半ばの見積もりが。
島根には主要な配送拠点がないため、大阪からは原則チャーター便となり、大都市間と比べて割り高になるのだそうです。
他にも数社見積もりを取りましたが、これより安価はなく、むしろ数十万円といった見積もりまで…。
結局、星山さんとも相談の結果、一般の大型貨物として、業者に運送してもらうことになりました。
仏像が到着して、段ボールを剥いで見ると、中は木枠による厳重な梱包が。
美術品専門ではない運送業者の取り扱いを心配した星山さんが、DIYで丁寧に丁寧に木枠を組んでくれていました。梱包だけで、数日はかかったのではないでしょうか。
おかげで、無事に欠損なく、ご尊顔を拝することができました。
仏像の無事を星山さんに伝えると、彼も「ふーっ」と息を吐いて安堵していた様子。
およそ1年かかった彼の仕事が、一区切りついた瞬間でした。
後は私がバトンを受け継ぎ、開眼法要で私が観音様に魂を入れることになるのですが…
ここで一つの懸念が。
実は、星山さんが届けてくれた仏像には、この時点で黒目が入っていません。
事前の話し合いで、「黒目はそちらで入れられますか?」と尋ねられ、私も軽い気持ちで、
「その方が“魂入れ”の儀式としても、箔が付くかもね」
などと、軽い気持ちで話を受けたのですが、後でそのことを妻に話すと、
「大丈夫?」
と、不安げな表情。どうも妻は、私の「画伯」っぷりを心配したようです。
「いや、眼のまるをふたつくらい、描けるわ!」
と、大見栄を切ったものの…
開眼法要の当日、油性塗料を含ませた筆先を、観音様の眼に当てた途端、
「センスない黒目になって、ほっしー(星山さんのこと)の努力を水泡に帰すことなったら…」
と、あらぬ妄想から緊張感が体を伝い、気がついたら、筆を持った手がプルプル震え出しているではありませんか!
口では如来十号を唱えながら、頭の中は、
「やばい、やばい、」
の念想。
取り返しがつかなくなる前に、想定より少し塗量を抑えて、筆を置きました。
妻があらぬプレッシャーとかけなければ…
などと、緊張を他人のせいにしようとしている私を、奴が嘲笑っているような…
そんな虚脱感に襲われながら、「コロナ禍が収まったら、ほっしーに手直ししてもらおう」などと都合のいい前後策を練りつつ、参列者にお礼の挨拶を述べるのでした。(住職 記)