Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

2019年7月13日記事から、ディレクターズカットお届けします

2021.07.26 22:00

11月に入り、ノアンの秋も深まって来た。ショパンは、ノアンで雪が降る前にパリへ移動しなくてならなかった。

ショパンはロゼールに言ったように11月3日にはパリに予定通り到着していた。(推測)

それを知っているかのように、メンデルスゾーンからパリのアパルトマンにショパンが到着すると、ちょうどメンデルスゾーンから便りが届いていた。

メンデルゾーンのことは記憶のかなたに追いやりたいほど、ショパンにとっては嫌な思いでしかないのである…。

「親愛なるショパン様

この手紙は君に頼みがあるのだよ。

友達としてではなく、音楽のテーマをいくつか書いて、下に署名して送ってくれないかね?

私の妻のために書いて送ってくれますか?」お金持ちの御曹司のメンデルゾーンは相変わらず

である。メンデルゾーン・・・虫がよすぎるのだ。

メンデルスゾーンとショパンの関係は、ショパンとしては遺恨があるのだが、お金持ちのおぼっちゃまフェリックス・メンデルスゾーンは、ショパンの才能に嫉妬しながらも、ショパンのことは、お人好しのポーランド人と自分よりも下に見たかった。メンデルスゾーンは、自分よりも才能があった姉ファニーに代わりに子供のころから曲をかいてもらっていた。

ショパンの姉ルドヴィカがノアンに来た時、フレデリックを手伝った可能性がある話とはわけが違うのだ。

フレデリックはたくさんアイディアをいつも持っていたが、そもそも、その最初の肝心なアイディアがフェリックスは思いつかないのだ・・・。そのため、ショパンの才能がメンデルスゾーンは羨ましかった。

「フランクフルトであなたにお会いしたとき約束しました。

彼女の好きな作品はあなたが書いたものです。それ以来、妻(歌手)に大きな喜びを与えたいと思っておりました。

あなたには別の理由がある(ショパンは貧乏だが才能がある。メンデルゾーンのゴーストで死にそうになった1835年の出来事でショパンはメンデルゾーンと関わることに懲りていた)

 私には有利な理由がたくさんあるが(金持ち、音楽評論誌、「ガセット・ミュジカル」を出版しているシューマンと仲間)

私はあなたをよく知っている。だから、いつも十分な情報を得ることを望んでいます。

あなたが書いていることについて、

そして私がもっと興味を持ったのは、

あなたは、あなたの作品より、あなたはたぶん自分自身のために書いています。 それが

私が求める恩恵をあなたが私に与えることを私が望むことを許してください。

それによって、あなたが今する必要がある面倒な仕事に私の要求を追加することを許してください。

いつも献身的に、あなたを愛するメンデルゾーン」

メンデルゾーン・・・、

ショパンはオペラ歌手が好きである。それはワルシャワ時代のコンスタンツェの思い出からだったが、ショパンはパリでもポーリーヌなど歌手との共演が多いことをメンデルゾーンは知っていた。

そして、メンデルゾーンの妻の歌手は実は素人で、メンデルスゾーンはこの頃、オペラ歌手のリンドにお熱を上げていた。

妻をダシにしてショパンの気を引いたのであるが、実はメンデルゾーンは、この頃、ピアノ協奏曲が2楽章までで途中で書けなくなっていた。(これは完成されなかった。ヴァイオリン協奏曲に変更して完成させている)自分が行き詰まっていたため、曲のモチーフが幾つかメンデルゾーンはほしいのである、それをショパンに欲しいと言う自分を許してくれとメンデルゾーンは言っているのだ。

メンデルゾーンはショパンがフランショームとパリでショパンの作品を合わせて練習していることを嗅ぎつけていた。フランショームはメンデルゾーンは友達なのである。

フランショームがメンデルスゾーンに情報を流していたと考えられる。

ショパンは、このとき、メンデルゾーンの申し出に答えたかは不明である。

ショパンはメンデルゾーンからシューマンに言いつけられて、また何を悪口を書かれるかわからないのだ・・・。

メンデルゾーンに関する記事【2019.02.24 20:14 ショパン、パリで今度は誰からの招待状?】【2019.02.21 14:26 ショパン、ライプツィヒで悪夢の日】


ヨハンナ・マリア・リンド( 1820年10月6日 - 1887年11月2日)

スウェーデンのオペラ歌手。スウェーデンやヨーロッパ中でソプラノの役を演じていた。1840年からはスウェーデン王立音楽アカデミーの会員だった。アメリカツアーを1850年から行った。

リンドはストックホルム中心部のクララ地区の出身で14歳の時に養子に貰われていった。

リンドは1838年の「魔弾の射手」のスウェーデン公演後に有名になった。

声の障害に苦しむようになるが、歌唱の指導者だったマヌエル・ガルシアが彼女の声を救った。彼女は1840年代にはスウェーデンと北ヨーロッパ中で多くのオペラの役を演じ、メンデルスゾーンの愛人だった。ロンドンでの公演を最後に、29歳でオペラからの引退した。

1850年P・T・バーナムの招きに応じてリンドは渡米する。彼女はバーナムの興行で93回の大規模な演奏会に出演し、その後は自らの運営でツアーを継続した。彼女はこれらの演奏会を通じて350,000ドル以上を手にした。それを慈善事業の推進でスウェーデンのフリースクールの基金へと寄付した。彼女は1852年夫となったオットー・ゴルトシュミットと共にヨーロッパへ戻り、1855年にイングランドに住んだ。1887年モルバーン・ヒルズ・ディストリクト地区で亡くなった。

[メンデルゾーンとリンド]

メンデルゾーンは1844年にアンデルセン童話で有名なアンデルセンの紹介でリンドに出会った。それ以来、メンデルゾーンとリンドは不倫の仲であった。

メンデルゾーンは1847年姉が亡くなり、その後、リンドに「自分の家族をリンドのために捨てて、一緒にアメリカに行こう」と口説いたが、リンドはメンデルゾーンの誘いを断った。

同年1847年元々、精神を病んでいたメンデルゾーンは亡くなった。

1844年ショパンに「許してくれ」と手紙に書いてきたメンデルスゾーンだが、

1844年、ベートーヴェンの作品61、ブラームスの作品77と並んで、3大ヴァイオリン協奏曲とされている傑作、ヴァイオリン協奏曲ホ短調 を完成させている。

同年、6つのオルガンソナタ 1844-1845 ピアノ三重奏曲第2番 ハ短調なども書いている。