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参議院議員 赤池まさあき 日めくり

12月13日は南京攻略戦の日 歴史の事実は

2017.02.02 15:05

 12月13日は、昭和12(1937)年に支那事変が起き、日本軍が国民党の首都である南京城を陥落させた日です。中共はユネスコの記憶事業に「南京大虐殺」を登録し、江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」前では「国家哀悼日」の式典が行われ、日本軍によって30万人が大虐殺されたとプロパガンダ(政治宣伝)が展開されています。


●防衛庁防衛研修所戦史室がまとめた「南京攻略戦」


 昭和12(1937)年の支那事変での首都南京攻略戦について、歴史の事実をどう捉えたらいいのでしょうか。数多の資料があるのですが、その中で重要な資料として、防衛庁防衛研修所戦史室が昭和50(1975)年にまとめた『戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)』があります。当時の防衛庁担当室が1次史料に当たって、戦史としてまとめたものです。大変参考になりますので、その中にある「南京攻略戦」についての該当ページを紹介したいと思います。南京攻略戦について、同書の436から438ページを以下全文引用します。


●軍紀厳守指導も、事犯ひん発。軍法で厳重処分。


 「南京は外国権益が多く、また多数の非戦闘員や住民がいる関係上、方面軍司令官は、とくに軍紀風紀を厳守するよう指導していたが、遺憾ながら同攻略戦において略奪、婦女暴行、放火等の事犯がひん発した。これに対し軍は法に照らし厳重な処分をした。


 ところが、当時同地にとどまっていた諸外国特派員が生々しい戦禍の状況を世界に報道し喧伝した。たとえば英国マンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員H・Jティンバーレンが、昭和十三年七月「中国における日本軍の残虐行為」を編集発行し、米国のジャーナリスト、エドガー・スノウはその著「アジアの戦争」(昭和十六年)のなかでこれを紹介し「軍国主義日本の狂暴」を全世界の人々に印象づけようとした。そのなかで最も強調しているのは、日本軍が何十万という捕虜や住民を虐殺したということである。

 これが事件として取り上げられたのは、終戦後の極東国際軍事裁判及び南京の特別軍事裁判であった。南京の裁判では処刑そのものを必要とする政略的理由から、約三〇万の軍民が虐殺されたとして、谷壽夫中将以下四人の軍人が処刑された。東京の裁判では、南京占領から一か月の間に男女子供を含む非戦闘員一・二万、掃討戦の犠牲者二万、捕虜三万以上、計六・二万以上が殺害され、さらに近郊に避難していた市民五・七万人以上が餓死あるいは虐殺されたという判決を下した。


 しかし、その証拠を仔細に検討すると、これらの数字は全く信じられない。

 一方、当時の日本軍は、南京付近防衛の中国軍を約一〇万と判断し、昭和十二年十二月十八日「敵の遺棄屍体は八、九万を下らず、捕虜数千に達す」と発表したが、翌年一月「敵の損害(死傷者)は約八万、うち遺棄屍体は約五万三、八七四」と算定した。しかし、日本軍の戦果発表が過大であるのは常例であったことを思えば、この数字も疑わしい。」

●若干の事実を誇大宣言


 「しかし、これが事件として取り上げられたのは、若干の事実があったからであり、これが誤解、曲解され、さらに誇大宣伝されたためであろう。以下、諸資料を総合すると次のように考えられる。


 作戦地域は、中国防衛軍の手によって「空室清野」戦術がとられたため、一般住民の被害は大であったろう。
 (※引用者注。空室清野戦術とは、焦土作戦の一種。中国では古来からの戦法とされ、チャイナの国民党軍によって行われた。城壁に囲まれた市街地内に人員を集中させ(堅壁)、城外は徹底して焦土化する(清野)ことで、進攻してきた敵軍は何も接収できないようにして疲弊させ、持久戦を有利に運ぶ狙いで行われたと言われています。)

 また、南京攻略戦は完全包囲殲滅戦であったから、戦闘行動による中国軍の損害が多かったのは当然である。」


●南京事件とされる四つの問題点
 ①軍民の混淆、②便衣兵、③捕虜の認知、④処遇


 「問題は、(一)占領直後の敗残兵掃討戦において、多数の非戦闘員や住民が巻き添えをくらって死亡したこと、とくに中国軍後退部隊と避難民が混淆した南京北方及び西方地区で大であった。ただし非武装住民であっても、軍に協力し、あるいは遊撃戦に関与して対敵行動をとったものは戦闘員とみなさざるをえない。


 (二)南京の人口は、平時約一〇〇万、南京攻略戦闘開始当初約三〇万、そのうち数万が作戦間に退避し、日本軍占領時には、そのうちの二十数万がおおむね難民区に集まっていた。しかし南京陥落直後は完全な無政府状態で混乱を極めていた。(日高信六郎参謀官談) ところが敗残兵の多くのものは、武器を捨てるか陰匿して住民に変装し、いわゆる便衣兵となって潜伏した。この便衣隊を住民のなかから摘出検挙することは非常に困難であるが、この際にも無抵抗の住民に若干の犠牲があったと考えられる。

 (三)投稿者を捕虜と認めず、従って捕虜として取り扱われぬことが少なくなかった。日本軍の攻撃部隊は、中国軍側に比べ兵力が僅少であったので、戦闘行動中に投降する者があっても捕虜として監視する兵力がなく、足手まといとなるばかりであり、偽装投降の前例も多かったことや、真に中国兵が戦意を喪失しているのかどうかの判別が困難であったこと、日本兵の恐怖心や敵愾心が強く、殺すか殺されるかという切迫した状況下では冷静な判断ができ難いこと、それに捕虜として遇するための設備や補給能力がなかったためである。これらは作戦が猛烈な追撃戦に次ぐ激烈な堅陣攻撃及び市街戦であった特性上からくるものであり、日本軍の第一線部隊のみを責めることはできない。

 (四)南京占領後の捕虜の処遇も十分とは言いがたい。これは激戦直後の将兵の敵愾心、捕虜収容設備の不備などによるものであるが、捕虜殺害の数はさほど大ではないようである。第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは十五日、山田旅団が幕府山砲台付近で一万四千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約八千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処遇い困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約一、〇〇〇名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将兵以下七名が戦死した。なお第十六師団においては、数千名の捕虜を陸軍刑務所跡に収容している。」


●結論 「戦闘行為の結果が大部」
「計画的組織的な「虐殺」とは言いがたい」


 「以上、各項目について具体的に正確な数字を挙げることは不可能であるが、南京付近の死体は戦闘行為の結果によるものが大部であり、これをもって計画的組織的な「虐殺」とは言いがたい。しかしたとえ少数であったとしても無辜の住民が殺傷され、捕虜の処遇に適切を欠いたことは遺憾である。」

●歴史の事実を踏まえた議論を


 以上が、防衛庁防衛研究所戦史室がまとめた南京事件の結論です。その後、証言集や民間の学者の研究がいくつもありますが、当時の一次史料の基づいた研究としては、現在でも重要な戦史報告書だと思います。
私たちは、歴史の事実を学び、それを踏まえた議論を展開したいと思います。