「いざ吉原へ」6 構造(2)「五丁町」
整然と区画整理された吉原で、中央の「仲の町」を直角に横切る三本の通りがある。これがそれぞれの町の「表通り」(道幅は約5メートル)で、両側に紅殻(べんがら)格子の多くの妓楼が軒を連ねていた。表通りの中央部には水路(これも「お歯黒どぶ」という)が掘られ、その上にどぶ板が敷かれていた。ここには、一定間隔で用水桶が置かれ、手桶が積まれていた。火事に備えるためである。用水桶の覆い板に屋号が書かれた妓楼はつねに用水桶に水を満たしておく責任があった。また表通りの中央部には用水桶と交互に、「たそや(誰哉)行灯」(名前の由来は諸説ある)が設置され、夜明けまで灯がともされていた。そのため、どんな夜でも表通りが真っ暗闇になることはない。吉原は不夜城だった。
「引けて明るきたそや行灯」
元吉原の時代からある、「江戸町一丁目」、「江戸町二丁目」、「角町」、「京町一丁目」、「京町二丁目」は、特に「五丁町(単に「丁」ともいった)」と呼ばれ、吉原の代名詞ともなっていた。このほかに、「揚屋町」や、時代によっ「伏見町」、「堺町」などがあった(「京町」以外は全て「~ちょう」と読む)。
「内に寝て夢は五町をかけ廻り」
「月見とハかりの名なりと丁へ行き」
大門を入って、まず初めの町が「江戸町」(一丁目、二丁目)で、江戸の繁盛にあやかって、この廓も繫栄するようにと江戸町と名付けられたようだ。
「桐壺の巻や江戸町壱丁目」
『源氏物語』の第一帖の巻名が「桐壺」であることにかけている。「江戸町一丁目」には、松葉屋・角玉屋・扇屋などの名高い大見世が集中していた。「江戸町二丁目」では、雛鶴などの名妓がいた丁子屋が有名。「伏見町」と「堺町」は、寛文八年(1668年)に江戸市中の隠し売女を検挙して、この女たちを吉原に収容した時に、江戸町二丁目の敷地内に新設した町。そのため道路も狭いし、妓品も悪い。
「ひしこ売り伏見町から河岸へぬけ」
大店の多い江戸町では、ひしこ(かたくちいわし)は余り売れない。「堺町」は明和5年(1768年)の吉原全焼後になくなった。
仲の町の一番奥が「京町」(一丁目、二丁目)。「京町二丁目」は町づくりが遅れたので、別名「新町」ともいい、小見世以下の妓楼が多かった。ここの座敷からは吉原田圃がよく見渡せた。有名な広重「名所江戸百景 「草田圃酉の町詣」は京町の遊女屋から見た浅草田圃(吉原田圃)を描いている。
「角町(すみちょう)」は、仲の町左側、「堺町」と「京町二丁目」の間にあり、中級以下の妓楼が多かった。
「中ほどにあつて角丁まよはせる」
「揚屋町」の繁華は、揚屋が多数集まっていた享保年間(1716年~36年)ころまでで、宝暦年間(1751年~64年)に揚屋は廃絶。その後は、商人や職人、芸者などの居住する町となり、妓楼は一軒もなくなる。
大門から見て左側と右側のお歯黒どぶ沿いを、それぞれ「羅生門河岸」、「西河岸」といい、「河岸見世」と呼ばれる安価な妓楼がひしめいていた。河岸見世の遊女は表通りの妓楼ではもはや通用しなくなり、鞍替えや年季明けにともなって流れてきた者がほとんどだった。そのため、年齢も三十歳を超えているのが一般で、病気持ちも多い。この一帯は、掃き溜め、吹き溜まりと形容するのがふさわしいほどの退嬰感と猥雑さがただよい、とても同じ吉原とは思えないほどの別世界だった。とくに、「羅生門河岸」は強引な客引きで有名だった。
「羅生門腕をぬかれるかと思ひ」
落合芳幾「新吉原江戸町二丁目佐野槌屋内薫突出しの図」
新吉原の内部
元吉原の内部
豊国「新板浮画 新吉原之図」
西河岸の方から眺めた江戸町一丁目。正面に入口の木戸、その向こうが仲の町。右側に妓楼が並ぶ。
二代広重「東都名所 吉原中之町」江戸町一丁目の入口
広重「江戸名所之内 新吉原春曙ノ図」
仲の町の桜が白みはじめる夜明け、角町の木戸口から頬被りをした遊客が、三々五々帰っていく
渓斎英泉「浮世姿吉原大全 仲の町へ客を送る寝衣姿』
国貞「夜の吉原」
星屑につつまれた引け過ぎの吉原五丁町。人気のない通りで二階の遊女とささやきを交わす男をたそや行灯がぼんやり照らす
『帯屋於蝶三世談』
吉原を脱出する遊女とそれを手伝う二人の男。お歯黒どぶには仮の橋を渡している。外にはすでに駕籠を待たせている。
歌麿「北国五色墨 てっぽう」
河岸見世の女郎は梅毒におかされたものが多く、当たれば死ぬとさげすまれ、「鉄砲女郎」と呼ばれた。歌麿が描くと、そうした悲惨さはあまり伝わってこないが。