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たかまる。

ジワリとできてく城下町! 【犬山城シンポジウム ルポ】 Vol.4

2017.02.09 13:12




町というものは、一朝一夕にできるものではない。

というのは、当然のこと。


でも、時がたつと、

『昔はすぐに町なんかできたんだ』

って錯覚しちゃう。


というお話ではないですが、


「犬山城シンポジウム」 ルポ 第4弾は、


犬山城下町がどう発展してきたか?


についてです。




発表は、京都大学の山村亜希先生!


とても分かりやすく、丁寧に発表してくださいました。

おキレイで、聡明な感じのお方。




と、その前に


もう4弾なの?

3弾まで、まだ読んでないよーという方は、こちらをチェックしてください!







◆ キーワードは『竪町』


犬山城天守に向かう方の大半は、

犬山駅から西に進み、

本町交差点を北に向かって

まーーーーーーーーーーーーーーーーっすぐ

進みますよね。


そうすると、犬山城天守が見えてきて、

もう少し進むと針綱神社の木々で見えなくなって、

ぐにぐにぐにって進んでチケットをもぎってもらって、

模擬鉄門をくぐると

天守がお目見えするって感じですね。



(画像:たかまる。)


こんな感じ。

こちらもいつもの「城とまちミュージアム」の模型です。



まーーーーーーーーーーーーーーーーっすぐ南北に延びる道。

これが大手ですよね。


天守に対して真っすぐに延びているのがメインストリートで、

それと並行する道が主で、直行する道が副の場合を


『竪町』


と言うんだそうです。

「たてまち」と読みます。



これ、城下町の持つ意味によって変遷があるようですね。


織豊期ぐらいに見られていたのが、『竪町』。



これは、

城主の権力を見せたい!
象徴としての天守を見せたい!

ということからきている。


それとは逆に江戸時代になると、

街道の交通や流通をしやすいように

天守に対して直行する道がメインになってきて


『横町』


というんですね。


全然知りませんでした。

勉強になりました。



で、犬山城下町はどっちなのかって言うと、『竪町』。



竪町の特徴としてあるのは


ヴィスタ!



このヴィスタっていうのは、景観とか、眺望とかというらしく、

たかまる。的な解釈は、


城下町・大手から天守が

ばちっと見えるようになっていること。


天守を権力の象徴とするなら当然のことでしょうね。



が、犬山城下町はそのヴィスタが連動していないって。




ん?

そう言えば、本町交差点を北へ向かって天守を見ると、

ちょっと左手に見えますよね。



建物が邪魔で見えないところもあるんですけど、

ってつまり、

真っすぐのメインストリートから
ちょっと西にずれたところに天守がある!

ということ。


もう一回、城とまちミュージアムの画を見てください。↓↓↓↓↓↓↓


(画像:たかまる。)



ね?

でしょ!


なんでこうしたのかってこと、ちょっとした仮説があるんです。

あとでお話ししますけどね。







◆ 犬山城下町は『惣構え』


みなさんご存知かもしれませんが、犬山城下町は


『惣構え』


になっています。

「そうがまえ」って読むんですが、総構えとも書きます。



これ、どういうことかっていうと、

城郭と城下町を
堀・土塁・土塀などでぐるっと囲う

ということです。


そうやって城郭と町を守っていたんですね。



ただ、犬山城の場合は、

完全な惣構えではないんですね。

ちょっと特殊。


何がって言うと、城郭と城下町をぐるっと囲っているはずの

堀・土塁・土塀などが途中で切れている!


おぅ、なんてことでしょう!


それじゃぁ、敵が入ってきちゃうじゃん!

という心配もありますけど、江戸幕府の平和な時代。


戦もなくなった、平和な時代。


いらなかったのかもね。


でも、山村先生曰く。

犬山は、成瀬期になってからも長い年月かけて町づくりを行い、

惣構えを徐々に作っていったとか。


絵図などを解き明かすと、そうなっているというんです。

17世紀のどこかでやっと『竪町』『惣構え型』城下町ができたと。


なるほど~


またまた勉強になります!


知らないことがいっぱい。

目からウロコのシンポジウム。






◆ むかしの町並みがのこる、犬山城下町


言わずもがな。

みなさんご承知の通り、犬山城下町は昔ながらの町並みが残っています。


ウナギの寝床。

残っています!


江戸時代の建物。

残ってます!


ぜひ城下町をプラプラしながら、恋小町だんごでも食べてってください(笑)



で、さっきの仮説。

たかまる。的 仮説ですから、シンポジウムの内容とちょっと違うかもしれませんけど、


犬山城天守のヴィスタは、美濃側、つまり

木曽川側からの景観

を意識していたのではないか?


城下町メインストリートからちょっとずれていたのも

うなずけるし。

現在も木曽川側からの景観が良すぎるのも

うなずけるし。


美濃からの侵入に対して天守を見せることで抑止していたのではないか?


そういう仮説です。



(画像:たかまる。)




ね。

あんな天守を見せつけられたら、

美濃から尾張には攻めようと思わないでしょ。


しかも、中山道が北側を通っていますから、

そこを通る旅人も、尾張には徳川家がいて

名古屋城だけじゃなくて、こんなすごい城もあるんかい!

ってビビったんじゃないでしょうか?



たしかに、美濃側からだと良く見えるんですよねぇ(笑)





ま、それはひとまず置いておいて。

余談ですが、こういったこと踏まえて、

現在、たかまる。的に、

城郭の範囲、惣構えの遺構を現地調査中なんです。


ま、現地調査と言っても、見に行って写真撮るぐらいですけどね(笑)

それでも、ほとんど知られていない遺構が残ってたりするので、

なかなか面白い調査になってますよ。



そして、その成果をもとに、

現在の地図に重ね合わせて


たかまる。版『犬山城郭絵図』


を作成中なのです。


こちらは、いつになるかわからないけど、必ずお披露目しますので、

あまり期待せず、

でもちょっと期待してもらって、

首を長ーくして、

お待ちいただけたら嬉しいです。


いつかきっと。


someday, someday soon!








ということで、今回のまとめ。

犬山城下町は、

『竪町』
『惣構え』

で発展してきたということが学術的にもわかって、

たいへん歴史的価値の高い町だよ、ということを

山村先生はおっしゃっていたのかと思います。







では、次回は

城郭考古学の第一人者で、

テレビなどでもちょくちょくお目にかかる、

奈良大学学長 千田先生の発表。

『犬山城の縄張りを読む!』

です。


千田先生になり代わって、ルポしたいと思います。

あ~、プレッシャー!


がんばります。

今しばらくお待ちくださいませ。



2017年2月8日

たかまる。