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のらくらり。

難解、ゆえに美しい数式

2021.07.27 06:06

モブ視点のイートン校時代のモリアーティ三兄弟。

あけすけにルイスを大事にする兄さん兄様と、なんだかんだルイス良い奴じゃんと友好的なモブと、ルイスを虐めて兄達に圧倒されるモブは学生時代に絶対いたよな。


「おい、あいつだぜ。モリアーティ先輩の弟…」

「弟って言っても養子なんだろ?元は貧民街出身の孤児だって噂だぜ」

「それ、噂じゃねぇよ。お父様から聞いたけど、あいつはモリアーティ家がノブレス・オブリージュで引き取った兄弟の弟の方だって話だ」

「兄貴の方は火事で死んだらしい。アルバート先輩とウィリアム先輩、そして孤児のあいつだけが生き残ったんだと」

「何だよそれ。なんでそんな奴がこのイートン校に入学してるんだ?」


身の程を知れよ、身分卑しい孤児の分際で。


もはや隠すつもりすらもないだろう声で話される会話について、ルイスはとうに気付いていた。

気付いていて尚、関わるのは時間の無駄だと初めての授業に向けて教本に目を落としている。

伸ばすようになった前髪が視界に入ってくることにも慣れてきた。


「静粛に!諸君、まずは入学おめでとう。私は君達のクラスを担当するアトリー・レイバンだ。君達はイートン校に相応しい人材だということを期待されてここにいる。くれぐれも我が校の理念に反することのない人間であるよう意識するように」

「「「はい」」」

「よろしい。ルイス・ジェームズ・モリアーティ、前に出てきなさい」

「はい」


クラス担任だというモノクルを掛けた男性が教室に入り、ざわつく学生達を一喝する。

上の者に媚びへつらう根性が染み付いているのか、ほぼ全員が姿勢を正して前を見据えていた。

そんな中、元より姿勢良く着席しては勉学への意識を高めていたルイスだけが焦ることなく初老近い彼を見る。

突然呼ばれた名前にも驚くことなく返事をしては、真っ直ぐな背筋のまま壇上へと上がっていった。

けれど周りの学生達は何事かと再び気配をざわつかせている。


「入学試験での成績、見事なものだった。兄である二人のモリアーティに恥じぬよう、研鑽を積みなさい」

「勿体ないお言葉、ありがたく頂戴致します。兄を励みに精進してまいります」


ルイスは礼儀正しく腰を下げ、言い淀むことなく言葉を返す。

その姿はまるでルイスにとってそうあることが当たり前だと感じられるもので、少しの驕りも嫌味もなかった。

喜ぶほどのことでもない至極当然のことだと、そう捉えられる雰囲気を目の当たりにした学生達は驚愕の視線で席へと戻るルイスを見る。

養子の末弟、生来の貴族ではないただの人。

そんなルイスが入学試験での成績がトップだというのだから、多くいる学生の心中は穏やかではない。

ルイスは自分達の中でも最下位に属していなければならない人間、いやそれ以下の存在なのだから。

澄ましたように前を見るルイスの赤い瞳にはっきりした苛立ちを覚える人間が、悲しいことにこのクラスには大勢いた。


「やぁ、突然すまないね」

「モリアーティ先輩!?どうしてこちらに?」

「ルイス・ジェームズ・モリアーティはいるかい?」


形ばかりの入学式を終え、クラス担任による点呼を終えた後は入学初日から授業だ。

人の上に立つ人間を育成する機関だけあって日々のスケジュールはハードである。

そうして夕方までの授業を終えて浮き足立つ学生の元へ、黒い外套を羽織る一人の先輩学生がやってきた。

容姿端麗かつ文武両道の伯爵家子息。

不慮の火事で父母と弟を亡くしたというのに、復学早々に凛とした空気を緩めることなく再び学年主席の座に君臨した、キングス・スカラーたるアルバート・ジェームズ・モリアーティだ。

穏やかに微笑む姿に憧れつつも萎縮した学生を他所に、彼は教室の中を見渡しては探していた小柄な弟を見つけ出す。

同時にルイスもざわつく学生の中心にいるのがアルバートだと気付いたようで、慌てて席を立って彼の元へと駆け出した。


「兄様!」

「やぁ、初めての授業はどうだったかな」

「兄様に教えられた通り、問題なく理解出来ました」

「それは良かった」


聞こえる形で揶揄されようと、このクラスで最も優秀だと褒められようと、崩れることのなかったルイスの表情が僅かに緩む。

けれどそれに気付くのはアルバートだけだ。

慣れない人間の中でルイスが表情を悟らせるような迂闊な真似をするはずもない。


「もう授業は終わりだろう?図書館へ案内するから付いておいで」

「ありがとうございます、アルバート兄様」

「お安い御用さ。…ところで、ここでの私と君は先輩後輩という立場だ。私のことは兄ではなく先輩と呼びなさい。他の学生に示しが付かない」

「す、すみません…モリアーティ、先輩」

「君もモリアーティだろう。ふむ…そうだな、アルバート先輩で構わないよ」

「分かりました、アルバート先輩」

「良い子だね、ルイス」


アルバートは周りの学生に構わずルイスの髪を撫で、その細く柔らかい感触を堪能する。

慣れたようにその手を受け入れるルイスは瞳を閉じて、うっとりしたように口元を緩めて機嫌良さそうに懐いていた。

可愛い弟の可愛い姿に心癒されながら、アルバートは穏やかな瞳に厳しさを込めて唖然とする周囲を順に見つめていく。

整った容姿に見合った迫力あるその視線はまるで牽制しているようで、支配者たるオーラを感じさせた。


「君達。ルイスの生い立ちについては知っているね?」

「…も、モリアーティ家が引き取った養子だと伺っています」

「あぁその通り。だからあまりこういった場には慣れていないんだ。すまないが、あまり刺激しないよう宜しく頼む」

「は、はい。それはもちろん…」


孤児、といった単語を出さなかったのは無意識の配慮なのだろう。

すぐ近くにいた学生はアルバートの問いかけに機転の効いた返答をしたが、それはアルバートの気を損なわせないためというよりも、機嫌を損なった彼に当てられる自分を危惧したのだ。

妙に察しの良い自分を褒めながら、その学生は未だアルバートに髪を撫でられているルイスを見た。

同じように自分を見ているその瞳は朝から今までにずっと見ていた冷淡な、いや、何にも興味を抱いていない空虚な赤色だ。

アルバートに向けていた赤はもう少し煌めいていたように思うが、気のせいだったのだろうか。

情熱のひとつも感じられない赤色など初めて見たと、この場にいる学生達は不気味なほどに感受性豊かなことを考えていた。


「では行こうか。荷物を持っておいで」

「はい」


ルイスはアルバートの声をきっかけに自分の席へと戻り、すぐに全ての荷物をまとめて兄と一緒に教室を出て行った。

授業は全て終わったし、おそらくは図書館の案内を終えたらそのまま共に寮へと帰るのだろう。

入学したばかりのルイスとキングス・スカラーであるアルバートが住まう寮は別棟になるが、入試トップであったのならすぐにルイスもカレッジに住むことになる。

その案内も兼ねているのだと、この場にいた学生全員が察していた。


「…何だよ、あれ」

「ルイスは孤児じゃなかったのか?貴族じゃない、結局今も最下層の人間だろう?何であのアルバート先輩があんな奴を気に入ってるんだよ!」

「ルイスの奴、アルバート先輩に取り入ってるんだ!身分だけじゃなく中身までも卑しい奴めっ!」


アルバートとルイスの姿が離れたことを確認し、ルイスを蔑むような言葉が学生の口から次々に繰り出される。

否定するものはおらず、どの学生も同意するように口調荒くなっていく。

無いことばかりでルイスのイメージが固められていくけれど、それを否定する人間はいないのだから、学生の中では間違ったことばかりが正しいように認識されてしまう。

けれどその中でも一人だけ、ルイスを元孤児の養子だと認識した上で挙げられる虚妄を信じていない学生がいた。


「(アルバート先輩に取り入った?誘惑している?そんなんじゃない…あの人のあの目は、そんな軽いものじゃない。あれは…)」


いつの間にか、ルイスはアルバートを懐柔してモリアーティ家を乗っ取るために屋敷を焼いた、という根拠のないデマが学生の間で共通認識となっていた。

全くどうして貴族というものは噂好きで、こうも自分の都合の良いように現実を捻じ曲げることを好むのだろうか。

同じ貴族として恥ずかしいと、伯爵家第二子リック・ランドルフは滲む脂汗に気付かないふりをしていた。




それからというもの、ルイスは教室で特別親しい友人を作ることもなく、一人淡々と一日を過ごしてばかりだった。

アルバート付きのファグとなったルイスに直接手を出す人間はおらず、けれど元孤児のくせに数多いる貴族家の人間よりも優れた頭脳を持っているルイスを快く思っていない学生は多い。

名前を出さずともルイスだと特定できるような中傷をしている学生を見たし、ルイスはルイスで何度か持ち物を探している姿を見かけており、手に持った幾つもの封書をそのままゴミに出していたところも見た。

つまりはそういうことなのだろう。

表立ってルイスに危害を加えることはないけれど、影では何をしてもバレなければ良いということだ。

貴族ながらに性根が腐っていると、リックは嫌気が差しながら持ち込んだパックジュースを飲んでいた。


「なぁリック。おまえは傷物イジメに加勢しないのか?」


寮で同じ部屋になっている別クラスの同級生にそう問いかけられる。

傷物とはルイスを指す皮肉めいた渾名だ。

そもそもルイスの名前を呼ぶ学生はあのクラスに一人もいないし、ルイスも傷物という単語が何を意味しているのかくらいとうに気付いているだろう。

リックがどれだけ必死に勉強しても、主席である彼には一度もテスト順位で勝てたことがない。

それほど優秀なルイスが馬鹿みたいに陰湿ないじめをするクラスメイトに気付かないはずもないのだ。


「するわけねーだろ、そんなくだらないこと。俺は自力であいつの上を行きたいんだよ、引きずり落とすのは性に合わねぇ」

「おまえらしいな」

「そんなことよりマット、この問題どうしても計算が合わねぇんだけど何でだと思う?」

「知らねぇよ。おまえが分かんないのに俺が分かるわけないじゃん」

「だよなぁ~」


リックは再び教本に視線を落とし、答えと合わない数字の羅列をもう一度見る。

勉強には自信があった。

特に数学には興味があったし、家庭教師の教えも貰いながら教員並みの知識を持ち合わせているという自負がある。

それなのにあのルイスという養子の末弟は、そんなリックを軽々超えて学年主席という立場にいるのだ。

絶対に負けられないし、負けたくない。

引きずり落とすのではなく声高らかに相手を超えていくのだと、リックはルイスに嫌がらせをしている同級を見下しながら決意を固めていた。


「でもおまえもルイスは気に入らないんだろ?あいつのせいで万年二位だし」

「まだ試験は三回しかやってないだろ!万年じゃねぇよ!」

「まぁおまえが勝ちたい理由、分からなくもないけどな」

「っ…」


ルイスは学年主席の伯爵家養子、貴族ではない。

リックは学年二位の伯爵家第二子、正当なる貴族だ。

どう考えてもリックの方がよほど恵まれた人間だろう。

けれどリックはそうは思えない。

伯爵家の生まれだろうと、第二子では所詮兄のスペアでしかないのだから。

父も母もリックを家の世継ぎとして見てはおらず、兄の影としか認識していない。

その兄もリックに大した興味を抱いていない。

貴族家の次男以降などそんな存在でしかないのだ。

丁重に扱われているし可愛がられているのだろうが、心ここに在らずといった対応はリックの自尊心を大層傷付けてきた。

唯一勉強だけはリックが得た成果として褒められてきたけれど、入学以来それもルイスに奪われている。

だからリックはルイスを己の力で越えたいのだ。

否、絶対に超えなければならないと考えている。


「俺は父様にも母様にも見てもらえないのに、あいつは、ルイスは…血の繋がらない孤児のくせにアルバート先輩に大事にされてる」

「アルバート先輩も変わりもんだよな」

「俺は兄貴のスペアとして生きてるのに、あいつはルイスのまま自由に生きてるなんて絶対許せねぇだろ!俺があいつを超えて、あの澄ました鼻っ面へし折ってやる!」

「おまえ、爽やかに根性曲がってるよなぁ」

「うるさい!この問題ちっとも解けねぇから図書館行って資料探してくる!」

「おー行ってこい」


リックは教本とペンケースを鞄に詰め込み、荒ぶった気持ちのまま寮の廊下を駆けて行った。

ルイスのことは嫌いだ。

兄に大事にされている姿を目にしたあのときから、自分の劣等感をこの上なく刺激する苛立つ存在でしかない。

だからといって、嫌うがゆえに卑劣な手段で彼を貶めるような真似は己の主義に反するのだ。

馬鹿みたいな方法でルイスを虐げる人間とは別の方法で、真っ向から勝負してルイスの自尊心を傷付けてやるのだと、リックは意気揚々と図書館で数学に関する資料を探しては黙々と読み込んでいった。


「うーん…」


求めていた資料を見つけ早速計算問題に応用してみるが、やはりどうしても答えが合わない。

どこか根本的な部分にミスがあるのかと何度も計算し直したというのにそれでも合わないということは、考え方から間違っているのだろうか。

先程からずっと同じ問題と向き合ったことによる脳疲労も相まって、もはや正確な思考力がないようにも思う。

効率が悪いと知りながらもリックが休憩を取らずじっとひとつの問題ばかりを見つめていると、ふと目の前が影で覆われていった。

何事だと顔を上げてみれば、よく似た顔の二人がリックを見下ろしている。

一人はクラスメイトであるルイスだ。

毎日澄ました顔を見ては対抗心を燃やしているのだから間違いない。

そしてそのルイスによく似た顔の、鮮やかな金髪と燃えるような紅い瞳の持ち主。


「モリアーティ、先輩?」

「ここ。面白いアプローチをしているけれど、この数式はこの問題にはそぐわないよ」

「え?」

「この問題にはこちらの数式を使うのが妥当かと思います」

「え、おい」

「ルイス、正解だよ」

「もう一度計算してみてください。きっと答えが合うはずです」

「……本当だ」


しなやかな指先でリックが解いていた問題を指差し、最初の計算式が間違っていることを指摘したのはイートン校始まって以来の優秀生だと噂に名高い先輩だった。

ウィリアム・ジェームズ・モリアーティはアルバートの弟で、つまりはルイスの兄である存在だ。

既に飛び級をしては大学入学を間近に控えているという噂すら聞こえてくるほどの逸材が、リックの天敵であるルイスと共にいる。

しかもそのルイスはウィリアムの言葉を継いでリックが導き出した式ではなく別の式を使うようノートに計算式を書くのだから、もはやリックはこの状況に付いていけなかった。

ルイスが書いた文字は手本のように美しく、流されるまま計算してみれば求めていた答えがすぐに出る。

ただの数式がまるで美しい旋律を奏でているようで、リックは感動のあまり席を立ち上がって自分が解いた問題を見下ろした。

なるほど、こんなにも鮮やかなアプローチ法があったのか。

リックが選んだ数式は遠回りするだけでなく途中の計算ミスを誘発しやすいものだった。

それを見越して彼らは声を掛けてきたのだとリックが顔を上げれば、目の前の二人はよく似た顔で全く違う表情を浮かべている。


「解けて良かったね」

「あ、はい…」

「お邪魔してすみませんでした。困っている様子だったので、力になれれば良いかと思いまして」

「あ、あぁ…あり、がとう。ルイス」

「いえ」


優しく微笑むウィリアムと、変わらず澄ました顔をするルイス。

見ただけでこの難問を解き明かすその頭脳はさることながら、言葉から察するにルイスからリックに声をかけようとしていたことに驚いてしまった。

何故ならリックはルイスとろくに会話をしたことがない。

彼の名前だって彼の前では今初めて呼んだのだから、ルイスがリックのことを認識していることすら今知ったほどだ。

成績はいつも二位だからどうせ見下しているのだろうと、勝手に卑下していた自分が愚かだった。

戸惑うリックを他所にルイスはウィリアムに声をかけ、早く行きましょうと図書館を出るべく促している。

二人の手には数冊の本があり、目的は既に終えていることが分かった。


「…なんで俺に声かけたんだ?ろくに話したこともないのに」

「別に…あなたは僕に何もしていませんから」

「…!」


その言葉を聞いたリックは、ルイスが日々自分を追い詰めようとしている卑劣な行為を誰がしているのか、既に知っていることに気が付いた。

リックでさえ誰がやっているのか全員は把握しきれていないというのに、被害者であるルイスは全員を把握しているのだろう。

その上で好きにさせているのだと、立場上は弱者のはずなのに圧倒的強者の余裕でルイスは卑劣な同級を放置しているのだ。

そう理解したリックは、ルイスが愚かな同級と自分を一緒くたにしていないことに確かな優越感を覚えた。


「自分の力で解きたかったのならすみません。ですが、あまり根を詰めすぎてもいけないと思います」

「ふふ、ルイスがそんなことを言うなんてね」

「…兄さん」


ウィリアムの言葉に困ったように眉を下げるルイスの表情はどうしてだか柔らかい。

兄さんと兄様に追いつくのだと、日々無理をしては勉強しているルイスを知っているからこそ、ウィリアムは全く同じ言葉をルイスに言ったことがある。

適度な休息は必要だと言い聞かせ、それでも目を盗んでは延々教本に向かう姿を何度も見てきたのだ。

ウィリアムと違ってルイスは疲労を感じたところで寝付けるほど豪胆ではないし、決まった場所でしか眠ることが出来ない。

だから意識して休息を取ることの必要性を懇切丁寧に教えてきたのだが、今ではそれを他人に説くほどの立場にあるのだ。

ウィリアムが思わず笑ってしまうのも無理はないだろう。

ルイスは居た堪れないような気持ちでウィリアムを見上げ、拗ねたように唇を尖らせようとするが、リックの存在を認識しては唇をキュと引き結んだ。

そんな過去や思惑を知る由もないリックは、ただただ二人の仲の良さを見せつけられたような気分だった。


「いや…ありがとう。ずっと解けなくて悩んでいたから、助かった。出来れば自分の力で解きたかったけれど」

「考え方の筋が良い君なら、この先たくさんの難問を解くことが出来ると思うよ。この一問程度で悔しく感じることはない」

「…ありがとうございます、モリアーティ先輩」

「それでは失礼します」


そう言ってルイスはウィリアムと共にリックのそばを離れ、図書館を出て行った。

澄ましたような顔にあるのは他者を蹴落とす底意地の悪さではなく、けれど他者を憐れむように施しをする偽善でもない。

ルイスは自分に対し何の危害も加えていないクラスメイトが困っているから手を差し伸べただけだ。

単なる気紛れなのだろう。

事実、ウィリアムがずっと考え込んでいるリックの存在に気付いていなければ、ルイスは彼に何の言葉もかけずに立ち去っていた。

ウィリアムがリックを助けようとしていたからその手伝いをしただけなのだ。

けれどリックがそう捉えることはなく、天敵だと思っていたルイスからあまりにも普通の対応をされたことに驚いてしまった。

気軽に会話が出来る友人もおらず、ひたすらにクラスで浮いているルイスが、何の裏もなく困っていたリックを助けてくれた。

本音を言えば、二人の助けは余計だったと思う気持ちもある。

けれどそれを見据えた上でルイスは声をかけ、ウィリアムもリックに将来有望だと言わんばかりの賞賛を送ってくれた。

父にも母にも兄にも見てもらえなかった自分を、二人はちゃんと見てくれたのだ。

そう認識したリックの胸にはじわじわと温かい赤色が侵食してくるようだった。


「なんだ、あいつ…良い奴じゃん」


根が単純なリックは、以降ルイスのことを気に入ってしまう。


「おはよ、ルイス。なぁ、この問題どう思う?」

「これは…いくつか使える式がありそうですね。あなたはどれを選んだのですか?」

「俺はこれ。一通り当てはめて計算したけど、これが一番早いと思ったんだよな」

「でも、他にも使える式があるのでは?この式とか」

「…あ!」


リックがルイスとウィリアムに助けられたあの日から、リックはルイスへ積極的に声をかけるようになった。

元々他にも友人のいたリックは、まるで普通のクラスメイトのように分け隔てなくルイスにも話しかける。

それを快く思わない友人がいることにも気付いていたが、だからといってリックが何を気にすることもない。

何せその友人が見ているのもリックではなく彼の家、ところがルイスとその兄が見ているのはリック自身なのだから。

ようやく裏なく自分を自分として認識している人間と出会ったのに、友人にならずしてどうするというのだ。


「やっぱりお前頭良いよなぁ、アルバート先輩とウィリアム先輩の弟なだけあるわ」

「…そうですか」


ルイスもルイスで、あの日以降この同級に妙に懐かれてしまったことに戸惑っていた。

始めは何か裏があるのかと疑っていたがどうやらそんな素振りもなく、学生の本分らしく勉学に関することでルイスを頼ることが多いだけなのだ。

ならば警戒しても仕方がないかと、当たり障りなく共にいくつかの問題を解いている。

途中挟まれる兄の弟だという言葉は、ルイスにとって至高の賞賛だ。

誰より敬愛しているウィリアムとアルバートの弟であることがルイスの誇りで、自分の存在価値と言って良いほどの立場なのだから、それを認められることは何より嬉しい。

ましてルイスが養子であることは校内に知れ渡っており、血が繋がっていない孤児のくせに、という中傷は何度も耳にしてきた。

それでもリックはルイスを二人の弟だと、さすがの頭脳だと認めてくれている。

ルイスにとってこれ以上に嬉しいことはなかった。


「ルイス」

「あ、アルバート先輩とウィリアム先輩」

「授業は終わっただろう?迎えに来たよ」

「はい!」


授業終わりにアルバートとウィリアムがルイスを迎えに来るのは珍しくない。

二人揃って、というのはある意味で珍しいのかもしれないが、週の大半はどちらかがルイスを迎えに来るのだ。

火事で家族を亡くしたために残された兄弟の絆が強く結びついている、と言ったのは誰だっただろうか。

何にせよルイスは元孤児の身でありながらアルバートとウィリアムに大事にされており、兄達が大事に思う気持ちと同じ以上にルイスも彼らを大事に思っている。

それはもはやこのクラスでの暗黙の了解だった。

だからこそ未だに表立ってルイスへ危害を加える人間はいないのだ。


「ではまた」

「おう、気をつけてな。まぁ兄貴達がいるなら大丈夫だと思うけど」


ルイスは急いで荷物をまとめ、リックに軽く会釈してからクラスを出た。

後ろ姿を向けていたルイスの表情は窺えないが、少なくとも弟を迎えた兄達の顔は穏やかに見えて言い知れない圧を感じられる。

その視線はルイスではなくクラスに残る弟の同級に向けていることは明白で、牽制されていることが分からないほど疎い馬鹿はいないだろう。

ゆえに三兄弟が確実に教室を去るまで、学生達は当たり障りのないことしか口にしなかった。


「ルイス、最近はどうだい?」

「特に変わりありません。勉強も順調ですし、この前の小テストでも満点を取りました」

「さすがだね。ところで、以前あげた万年筆のインクは無くなっていないかな?」

「はい。肌身離さず持っていますし、インクもまだ十分に残っています」


ルイスの周りで物がなくなっていることを、ウィリアムとアルバートが弟から直接聞いたことはない。

けれど慎重なルイスが申し訳なさそうに文具を買ってほしいとねだってきたのだから大方の察しは付いている。

ルイスが持つ表向きの立場を考えれば物が盗まれる程度は許容範囲かと、ひとまず言及せずにいるのだ。

体に傷を負った形跡はないし、クラス担任を通じて確認すれば直接罵声を浴びせられることもないらしい。

日々の牽制が効いているかと胸を撫で下ろしたいところだが、ルイスは隠すのが抜群に上手い。

心に負った傷を欺き隠すくらいのことはするだろうと、兄達は気が気でないのだ。

せめてルイスを癒してあげられるよう時間が許す限りそばにいては、独りが苦手な弟を守っている。

当てにはならないけれどルイスの表情は明るく見えて、ひとまずは安心かとウィリアムとアルバートはほっとしたように息を吐いた。


「随分と遅くなってしまいました」

「そうだね。明日は休みだし、僕の部屋に泊まっていくと良い」

「良いんですか?嬉しいです」

「ふふ、たまには一緒に夜更かししようか。兄さんもどうです?」

「魅力的な誘いだが、明日は早くから先生に用があってね。二人を起こしてしまうのは忍びないから部屋に帰らせてもらうよ」

「でも、夕食後少しだけでも一緒にいられませんか?」

「そうだね。二人の夜更かしを咎められるのは私しかいないから」

「…兄さん、兄様が僕達の夜更かしを阻止しようとしています」

「さぁどうしようか。アルバート兄さんの命令をルイスが拒否出来るかな」

「うーむ…」


兄達のからかいに真剣な表情で思い悩むルイスを見て、ウィリアムは癒される心地でその髪を撫でる。

密かに傷付いているであろうルイスを癒す名目のはずが、一番に癒されているのは多忙なウィリアムなのかもしれない。

そしてアルバートも今までにない家族としての絆を実感する日々に、かつてないほどに癒されていた。

手に持っていた鞄を胸に抱き締めては伏せた瞳のまま悩むルイスは、ふと持っているはずの小さなトートバッグがないことに気が付く。

先ほどまで一緒にいたカフェに忘れてきたのではなく、単純に教室へ忘れてきたのだ。

迂闊なことに持って出てくるのを忘れていた。


「に、兄さん兄様。教室に忘れ物をしてしまいました」

「ルイスが珍しいね。じゃあ取りに行こうか」

「僕一人で大丈夫です。夕食に遅れてはいけないので、お二人は先に寮へ帰っていてください」

「教室に寄るくらい、大した時間もかかるまい。夕食までには十分間に合うさ」

「…すみません」


バッグを忘れたことに気付いたルイスは分かりやすく肩を跳ねさせ、あたふたと周りを見渡してから申し訳なさそうに声を出す。

咄嗟の出来事に弱いルイスはこういった場面ならばとても分かりやすいのだ。

己の迂闊さを呪いつつ、ウィリアムとアルバートの優しさに胸を温かくさせたルイスは寮に帰ろうとしていた足を講堂のある方向へと向けていった。

日は暮れているがまだ肌寒さは感じない。

校内にはまだ残っている学生も多くいて、兄弟が連れ立って歩く姿を珍しく思う人間もいなかった。

ルイスが在籍する教室は棟の最上階だ。

階段を登りながら三人で他愛もない話をしていると、渡り廊下に響く声が聞こえてきた。

何となく声を出さずに足を進めれば、聞こえてくる会話に不穏な気配が滲んでくる。


「おいリック。お前あの傷物と仲良くするなんてどういうつもりだよ?」

「お前だって主席のあいつ嫌ってただろ」

「いっつも二番だもんな、お前」

「どうせあの傷物、アルバート先輩とウィリアム先輩に媚び売ってんだよ。それか教員脅してカンニングでもしてんじゃねーの?」

「元孤児の分際であの試験が満点とかありえねぇよなぁ。先輩脅して金積ませてんだろ」

「いっつも澄ました顔してるしな。孤児のくせに良いもん使ってるし生意気だろ、マジで」


名前は出していないがはっきりとルイスについて話しているその会話に、ルイスは思わず身震いしてしまった。

声で誰かが分かるクラスメイトに対してではなく、今背後にいる二人の兄に対してだ。

振り返ってはいないが漂う雰囲気が氷のように冷たく凍てついており、有難いことにルイスのことで怒っているのだとよく分かる。

けれどあまりにもその怒りの程度が大きすぎて、兄に心配をかけまいと同級生からの嫌がらせについて黙っていたルイスは内心焦ってしまう。

心配をかけるから黙っていたのに、まさかいきなりこんな場面に遭遇するとは思わなかった。

もはやこれは心配ではなく怒らせている。

その対象が自分ではないにしろ、こんなにもはっきり怒りを滲ませているウィリアムとアルバートなどいつぶりだろうか。

ルイスは恐る恐る後ろを振り返り、夕陽をバックにした二人を見た。

逆光で思うように表情が見えないけれど、やはり思っていた通りに怖かった。


「あ、あの…」

「行こうか、ルイス」

「急いで取ってこよう」


その首を、と聞こえてきそうなアルバートの声に、バッグを取りに行きたいのだと思わず口に出しそうになった。

ルイス一人なら引き返して遠回りになる向こう側の階段を使って教室に行ったけれど、今この状況ではそれも出来ない。

自分は大丈夫だと、何も気にしていないし傷付けられてもいないのだと言いたかったけれど、ルイスを追い越して先を行く二人に置いて行かれないよう階段を登るのに精一杯だ。

そもそも、事を荒立てては二人に迷惑がかかるから敢えて放っておいたというのに良いのだろうか。

ルイスのために怒ってくれている姿は嬉しいけれど、後のことを考えるとこの状況はあまり良いものではないはずだ。

そう気付いたルイスが二人の袖を握り、足を止めるように促したところで不穏な空気を断ち切るようにリックの声が聞こえてきた。


「でもあいつ、良い奴なんだよ」

「傷物が良い奴?何言ってんだよ、リック」

「だってほら、いっつも真面目に授業聞いてるし、係の仕事もちゃんとしてるじゃん」

「そんくらい当然だろ、本当ならここにいるような身分じゃないんだから」

「誰にも迷惑かけてないし、いつも一人で頑張ってるし。俺、あいつとウィリアム先輩のおかげで数学の成績上がったんだよ」

「何だよリック。お前も傷物に絆されたのか?具合が良いとか?」

「なるほどなーあのアルバート先輩とウィリアム先輩があんだけ大事にするんだから、あっちの才能だけは優秀ってことか」

「そんなんじゃねーよ。ただ、元孤児とかそういうの抜きにしたらあいつは良い奴だなって思っただけ」

「そこ無しには出来ねぇだろ」

「んー…でもなぁ…」


あからさまにルイスの体を揶揄するような言葉に、ウィリアムとアルバートがルイスの手を振り切って先を行こうとした。

ルイスとてそんなことはしていないのにそう勘違いされることは癪に触るけれど、別に何も疚しいことはしていないのだから堂々とすれば良いのだ。

実際は間違いなく疚しいことをしているのだが、それは完全犯罪として誰の気にも止められないのだから、クラスメイトが疑うようなことであればルイスは間違いなく清廉潔白である。

だから大丈夫だと、ルイスがもう一度二人の腕を掴もうとすればまたもリックが呑気に声を出す。


「ルイス、誰のことも悪く言わないし、まともな奴だよ」


少なくともお前達よりまともな人間だ。

そう続けて言ったリックの言葉の後に、誰も何も言わなかった。

シンと響き渡る階段の途中、ウィリアムとアルバートはルイスの手を引いて教室へと足を運ぶ。

そこには三人の姿を見て驚愕の目で狼狽える学生数名と、リックがいた。


「あ、ルイス。それにウィリアム先輩とアルバート先輩」

「やぁこんばんは。ルイスが教室に忘れ物をしてしまってね、通してもらって良いかな」

「どうぞ。ルイスが忘れ物なんて珍しいですね」

「あ、えと…つい、うっかり」

「ふーん」


空気が読めないのか肝が据わっているのか、リックだけが普段と変わらない様子で三兄弟を出迎えていた。

他の学生は今しがた話していた会話が聞こえていないかどうかが気になって顔が青褪めている。

聞かれて困ることならこんな公共の場で話さなければ良いだろうと、迂闊な彼らを蔑むようにアルバートは横目で見た。


「ルイス、バッグはあったかい?」

「ありました。お手間をかけさせてすみません、お二人とも」

「構わないさ。行こうか、夕食に遅れてしまう」

「はい」


ウィリアムもアルバートも、何も聞いていなかったかのように穏やかなままルイスと共に歩き出す。

その表情はいつもルイスを迎えにくるときに見せる表情と同じだったのだから、学生達も油断したのだろう。

何も聞かれていないのだと、そう油断した。

ゆえにすれ違い様に聞こえてきた、地を這うような低い声に喉を締められる心地がする。


「あまり弟を侮辱しないでいただきたい」

「次はないよ」


冷えた紅と翠の瞳に射抜かれた学生達は、自分が手を出してはいけない人間に手を出していたのだとようやく悟った。

表立って虐げるような真似をしていなくて良かったとすら思う。

そんなことをしていたときには、間違いなく今以上の戦慄が全身を襲っていたのだろう。

ウィリアムとアルバートの龍愛を一身に受けているルイスはそれこそ特別な存在なのだ。

ルイスがルイスだからこそ二人に贔屓にされているのだと、今この空気を持ってしてようやく理解出来てしまった。


「そこの君、リック・ランドルフ」

「あ、はい」

「ありがとう。僕とアルバート兄さんから礼を言うよ。それとルイスも」

「…ありがとうございます、ランドルフ」

「別に大したことはしてないけど…それよりルイス、さっきまた難しい問題見つけたから一緒に解こうな!」

「はい」


凍てついた空気に構うことなく呑気に手を振るリックは大物になるだろう。

誰の評価も気にすることなく、自分の目で自分が信じるものだけを信じる"貴族"になる。

そうなれる資質のある彼を正しく導いたのがルイスだと知るのはきっと誰もいないだろう。

ルイスはあの日以降のリックについて、有難いとは思いつつもさほど興味がないゆえに大した報告をしていないのだから、ウィリアムですら気付くことはない。

良い貴族になるだろうなという確信を抱いたまま、ウィリアムとアルバートはルイスを連れてその場を後にした。


「なんかさ、あの三人が揃ってるの綺麗だよな」

「そ、…そんな程度か!?そんなもんじゃないだろあれは!」

「あんなの異質中の異質だろ!両親を亡くしたから三人だけで生きているとかそんな問題じゃねぇよ、あれは!」

「やばい何かを感じた!あれはやばい、本気でやばい!」

「そうかな。俺はあの三人が一緒にいるの、しっくりくるけど」

「リック、お前…!」


見えなくなった後ろ姿を思い返しながら、リックは未だ恐怖に慄く同級生に悪戯めいた笑みを見せた。

リックにとってあの三人は、三人でようやく完成する不完全な人間だ。

美しい完璧な数式を愛するリックにとって、彼らはまるで複雑難解がゆえに美しさ際立つ数式のように見える。

大勢の人間が理解しようと挑んでは破れ去っていく難問中の難問が、あのモリアーティ三兄弟なのだろう。

リックは数学を好いているが、解く問題は自分で選びたい。

彼らが持つ赤い数式を解き明かしたいとは思わないし、リックにとって未知の彼らが完成して三人寄り添っている姿にこそ心地良さを覚える。

そもそも既に完成しているものを崩すことは性に合わないのだ。

いつか彼らが解き明かされるとき、バラバラになるとき。

それは三兄弟の依存が解消されるときになるのだろう。

ならば誰もあの美しい数式を解き明かすことがなければ良いと、リックは腰を抜かしたクラスメイトを放って一人先に寮へと帰っていった。




(やぁリック。先日はありがとう)

(ウィリアム先輩。ルイスは今先生に呼ばれていていませんけど)

(今は君に会いにきたんだ。少し良いかな?)

(はぁ…)


(リック、このクラスにはルイスに悪意を持つ人間がたくさんいるだろう?そんな中でルイスの味方でいてくれてありがとう)

(そんな…俺こそルイスと先輩には感謝してますし、お互い様です)

(ふふ、それなら貸し借り無しだね。それと、今後もしルイスに何かあれば僕かアルバート兄さんに伝えてもらっても良いかな?ルイスは多分隠してしまうと思うから)

(それくらい良いですよ。弟思いなんですね、先輩)

(ありがとう、助かるよ。ところで)

(はい?)

(ルイスに妙な気は起こさないでね。信じているよ、リック)

(……はい)


(いや怖いわ、ウィリアム先輩。何だ今の寒気…ルイスの奴、とんでもねぇ人に気に入られてんな)