「いざ吉原へ」7 妓楼(1)種類
吉原の妓楼には種類があり、大きく分けて「大見世(おおみせ)」、「中見世(ちゅうみせ)」、「小見世(こみせ)」の三つがあった。これは、規模の違いと同時に、格の違いでもあった。大見世の遊女はすべて揚代(あげだい。遊女と遊ぶための代金)が金二分(一両の半分。一両=8万円とすると4万円。)以上。中見世にも揚代金二分以上の遊女がいたが、そのほかに金二朱(金二分の四分の一=1万円)の遊女もいた。小見世には金一分の遊女もいたが、ほとんどの遊女は金二朱であった。
吉原の妓楼は、江戸時代後期には、すべて合わせて二百軒を超えるほどもあったが、大見世は、どの時代を通じても六、七件しかなかった。格式が最も高い大見世では、客は普通に行っても遊ぶことはできず、引手茶屋を通さなければならなかった。茶屋でひとしきり酒を飲み、そのあとに茶屋の案内で大見世に向かうのである。あるいは、指名した遊女が茶屋に出向き、茶屋で遊興した後に、一緒に妓楼に行くこともあった。どちらにしても、いったん引手茶屋に上がらなければならないため、余計に金がかかる仕組み。そうすることによって大見世の格式を保ったのである。
また、店の規模の大きさも、大見世の特徴だった。間口十三間(約24メートル)、奥行き二十二間(約40メートル)という広さを誇り、中庭まで設けられていた。このように壮麗で格式高く、値段も高かったので、多くの客は大見世では遊べず見るだけで通り過ぎた。
「ここは大見世と四五人すぐ通り」
これに対して、中見世は引手茶屋を通さなくても遊ぶことができる妓楼。一方で、茶屋を通さなければならない遊女も在籍しており、そのため「交(まじ)り見世」とも呼ばれた。大見世ほど格式は高くなかったが、小見世よりは上という意識はあったようで、半纏着の客(羽織を着ていない客のことで、職人の多く)は上げなかった。
小見世は、在籍する全ての遊女と、引手茶屋を通さずに遊ぶことができた。もちろん、半纏着の客も受け入れた。
妓楼の格は、「籬(まがき)」の形で見分けることができた。籬は表通りに面した張見世の格子と混同されることが多いが、妓楼入口の土間の横にある格子のこと。「惣籬」は全面が朱塗りの格子になっているもので、大見世。半籬は、四分の一くらいがあいていて、中見世。「惣半籬」は下半分にだけ格子が組まれているもので、小見世。こうして籬の形から妓楼の格を知ることで、客は揚代の見当をつけることができた。
以上の三種類以外に、「切見世(きりみせ)」(時間単位で区切って料金が決まる見世)という最下級の妓楼があった。道を隔ててお歯黒どぶ沿いの板塀に囲われた片側見世。揚代は「一ト切(ひときり)」(ちょんの間、約10分)で百文(一文=20円として2000円)だが、あまりに時間が短すぎるため、規定の2,3倍の額を払うのが一般的だった。切見世は長屋造りで、棟割長屋を間口四尺五寸(約1.4メートル)、奥行き六尺(約1.8メートル)に割って部屋をつくった。この部屋を「局(つぼね)」と称したため、切見世のことを「局見世」ともいった。
切見世の入口には小さな角行灯(かくあんどん)が掲げられ、屋号や「火用心」、「千客万来」などの文字が書かれていた。入口を入ると土間になっていて、土間をあがると、兄弟や諸道具を置く場所のほかは、畳二畳の広さしかない。長屋を割って部屋にしているので壁はなく、見世と見世の仕切りは襖一枚。交渉中の声は隣に筒抜けだった。切見世の遊女は、ここで生活し、客をとった。入口が開いていれば開店中で、客をとると入口を閉めた。
大見世・中見世・小見世の遊女は28歳で定年だったが、切見世の遊女に年齢は関係なかった。28歳を過ぎて身を寄せるところがない遊女が、切見世の遊女になることも多かった。そのほか、各地の岡場所から移ってきた者もいた。
菊川英山「 新吉原扇屋座鋪ノ図」
「扇屋」は吉原に入って右に曲がった、江戸町一丁目に有って、花扇、瀧川などの、吉原でも一級の花魁を抱え、次第に有名になって 大見世になった
歌麿「扇屋十二美人張見世」
文化八年(1811年)の妓楼の数
歌麿画『青楼年中行事』 半籬(中見世)の夜見世
籬の種類
妓楼の入口
『川柳語彙』 裏通りにあった切見世
歌麿「北国五色墨 川岸」
吉原の粗末な川岸見世で働く遊女の、身支度の様子を描き出した大首絵
二代国貞「当盛美人揃之内」
切見世の遊女。美人画として描かれているため若くて健康的だ。