目に見える色。見えないものが創る色。
『ものに色があるのは、私たちに目があるからだが、
もしも私たちに数百の感覚があったら、物は色の他のどんなに多くの形容詞に値しただろうか。』
プルーストの失われた時を求めて”逃げ去る女”に出てきて、なんとなく、とても気になった一文。
そしてふと、色について、感覚について考えてみようと思いました。
色というのは、私が音楽をする上で、音の表現する上で当たり前に、そして大切にしてきた感覚です。
しかし、よく考えてみると音の色って、実際に目に見える感覚ではないから、本当は色以外で表されるべき形容詞を、見えない色に例えて私たちは音楽に乗せて使っているわけです。
音色、色気、反省の色、、、、目に見えない“色“をも色と呼ぶ。こうした色表現があるというのは日本の中の独特な色の概念なのではなく、
Couleur=フランス語でいう色 の意味を調べてみても、世の中の動向などといった状況を意味する色があります。
視覚だけで捉えられない色=雰囲気ということができるでしょうか。
というと、絵画にみられる色彩というのは、目で見える色彩であり、その上音楽と違ってその情報は基本的に目からしか得られない。
その色たちは、五感の視覚以外の感覚に当てはめることはできないのです。
では、自然の景色で私たちが目にする色はどうでしょう。空気や風の生み出す臭覚や触覚、そして鳥や雑音がなす聴覚までもが一体となり、
俗に言う色彩、目に見える色彩を作り出している。自然で認知してる色って単なる色ではなく、五感の共同制作によって生み出された色なのではないでしょうか。
そうすると、視覚的色彩から他の感覚を頭の中で導き出す力を同時に秘めている絵画作品を、
私たちは素晴らしい色彩と無意識に評して、惹かれるのかもしれません。
最近訪れた展覧会で目にしたいくつかの絵画作品を通して、色彩と自然のつながりに触れる機会がありました。
こちらの日本文化会館で催されていた、
『Secrets de Beauté』と題された、浮世絵に見る日本の美の秘訣をテーマにした展覧会にて。
中でも私が目を惹かれたのは、
大奥の女性たちが纏っていたお着物の鮮やかや色合いと、それと見事に調和した模様のデザイン。
鳥や花といった自然の生き物が、一つ一つ微妙に異なった繊細な輪郭線からなるデザインと色合いによって着物に模倣されたその姿に、
唯一無二の日本の美的感性を思い知らされました。
よーく目を凝らしてみると、
同系色だけではなく補色となるような色の組み合わせも、これらの花々やその配置からできた空間によって調和がなされています。
フランスの芸術、印象派の画家たちは、日本の浮世絵の鮮やかな色彩、そして配置に大きく影響を受けました。
絵の登場人物が召している着物、そんな小さな要素ですが、そこに描かれた目を引く色彩とデザイン、たしかに当時のフランスからして見たらかなり画期的なものだったでしょう。
当時、西洋芸術はシンメトリーの伝統にあった中で、曲線、そしてこの自由な余白というデザインは新しい要素だったはず。
この余白や、均一性のない自由な心地よさが、
風の通りや空気の流れ=いわゆる抜け感というものを醸し出しています。
この何気ない余白って、自然の中に溢れているデザインですよね。
この紅葉した木の葉と川の配置。
個々に広がった桜の木の枝によって生まれたこの輪郭。シンメトリーとはかけ離れた自然の自由美です。
そこに添えられた繊細なタッチと色合いのグラデーションがマッチして、この全体の美しさを作り出しています。
色彩は視覚、ではこの空間ってどの感覚で察知しますか?
空間=風の通りを作るものなので、風を肌で感じる触感?それとも、その風に乗ってくる花々の匂いを感じさせる嗅覚?
いや、その風の音をきく聴覚にも値するかもしれません。
もし、この絵に、そしてこの自然の風景に、この隙間のデザインなしに全く同じような鮮やかな色が使われていたとしても、
私たちの視覚に与える色彩効果は、同じでしょうか?
同じように『鮮やかな色彩が美しい』と思えるでしょうか?
また、この色彩なしにこの構図と空気感があったとして、触覚や聴覚までこの画は私たちに想像させるまでに至るでしょうか?
そんなことを考えて、なんだか自然の作る絵画的美しさの秘訣、それをそのまま模倣した日本的感性の繋がりを実感しました。
そして、19世紀のフランス芸術家がこぞって魅了された要素、日本の芸術作品における、色彩と輪郭線の調和の素晴らしさに納得しました。
そんなことを思いながら、数日後に訪れたオルセー美術館で出会った作品たち。
新印象派を代表する、シニャックの絵のこの空模様の色使いにとても惹かれました。
自然描写に使われたこの色彩…黄色、ピンク、紫、水色、緑…と空を描くことに何色もの色が使われていて、
一見斬新なのに、遠くから見ると調和した色合いです。
補色同士が隣り合っているのに、グラデーションに見えるこの様子…
この色の独特な溶け合いが、まるで空に流れる情緒を醸し出し、視覚ではない何かに訴える感じがします。
そして、この色の配置の非対称感から生まれた空間が、まるで色の一部になっているような気がするのです。
こちらは、モネの霧の中の太陽とウエストミンスター寺院を描いた一枚。
この曖昧な色彩感に、ピリッとした空気と霧の匂いを感じます。
色彩の導く別の感覚に加えて、私たちの想像を刺激する印象の余白が表れているようなこの独特な空間も、この作品を極美を与えています。
これらの日本画、フランス画から見た、自然と色彩の与える感覚。
色から他の感覚を見出すことを、絵画鑑賞をすることで感じましたが、
音楽をする上での色彩は、どんなアプローチをしたら良いのでしょうか?
音の色は見えないので、耳から入る音という情報で色を想像することができたら、表現として伝わるのでしょうか。
それに、たとえば弓の速度やビブラートの表情といった身体の使い方からできる視覚的アプローチでも色を与えられるでしょうか。
そういえば、サン=サーンスが芸術について語った一文に、
『凡ゆる芸術の中でも、人間の心霊を最も完全に捕えて、人間の心情の中に最も深刻に浸透するのは音楽だ。』
というものがあります。
これって、音がより多くの感覚を使って感じとれるものであるからなのかな。
そして、音を奏でる際、それを創る作業においてもとても多くの感覚を駆使することで、
音楽に関わることで感性、感覚、心、身体….凡ゆる自分の要素と繋がることだからではないか、と思います。
見えない色(他感覚で導く色)を音にする音楽表現、
そして見える色を見えない色(他感覚)に掛け合わせる絵画。みたいな感じ?
どちらにせよ、共通することって、内なる色を探すために自然や日常に溢れた美しい色彩に繊細に心を向けて培われる、要するに感性からできる心で感じる色が大切なのかな、、、。
なんて、感覚について考えるきっかけになりました。