「宇田川源流 日本万歳!」 五輪で訪れた世界の人が喜ぶ福島県の桃こそ「復興五輪」の象徴ではないか
「宇田川源流 日本万歳!」 五輪で訪れた世界の人が喜ぶ福島県の桃こそ「復興五輪」の象徴ではないか
月曜日は「日本万歳!」をお届けしている。毎週日本の素晴らしい所を見つけ、その日本の素晴らしい所がなぜ生まれたのか。他の国にはそのようなことはないのか、そしてそれはそのニュースになった特別なことをした人だけの問題なのか、あるいは、我々一般の日本人の中にもそのような事を行うことができるようになっているのか、そのようなことを感がてえ見ている。
そしてその分析を踏まえたうえで、「日本人の国民性とはどのようなことなのか」ということを考え、また、その日本人のすばらしさは日本人の国民性の中に包含される何かにあるのではないか、そのように考えている内容を証明してゆきたいと思っているのである。
さて、ところで日本の「料理」はおいしいということで有名である。日本料理の神といわれる「四條流包丁式」の第四十一代当代の四條隆彦氏は、「日本料理は引き算の料理であり、日本料理以外の料理は足し算の料理」であるという。日本料理の場合は、例えば我々の味噌汁。最近ではインスタントの元を入れてお湯を注ぐだけになってしまっているが、本来は、まずは煮干しなどの出汁を取り、そしてちょうどよい具合になったところでその出汁を取った煮干しを取り出して、そのだし汁の中に味噌を溶かしてみそ汁とするのである。では出汁を取った煮干しはどうするかといえば、それは捨ててしまうのが普通だ。つまり、その出汁に使った煮干しの最もおいしい部分だけを取り出して、残りのえぐみや臭みがでてしまう部分はすべて捨ててしまうということになる。まさに、大事な所だけを取り出して、残りを引く引き算の料理なのである。
これに対して例えばブイヤベースなどは、同じ鍋の中に全てを入れ、そのままその具材も食べてしまう。何か問題があれば、ジャガイモやそのほかの具材を入れることによって味を調える。まさに、鍋の中に様々なものを足しこんで、その足し算の合計値を食べさせる料理になる。もちろん、そこに出汁のために使った煮干しのような料理は存在しないのである。おいしくないものも、おいしいものもすべて同じ鍋の中に入れて、その中でうまく入れ込むのが西洋の料理である。これは中華でも他の料理でも同じだ。
まさに「おいしいもの」を出すために「おいしいもののおいしい部分だけ」を取り出すという作業が日本の料理の中には存在するのである。
「福島の桃、食べ過ぎて太ったよ!」米ソフトボール監督が福島県でのおもてなしに「アイラブ・フクシマ!」と感謝
東京大会のため来日し、福島県にチームで滞在していた、ソフトボール・アメリカ代表のケン・エリクセン監督が会見で福島県の桃のおいしさに驚いたと明かした。
「まるで王様と女王様のような扱い」
アメリカ代表は福島県営あづま球場で行われたイタリア、カナダ戦に連勝。
その後、横浜に移動し24日メキシコに対しても勝利を収め3連勝。
エリクセン監督は試合後の会見で、福島県での滞在期間中を振り返り、「まるで王様と女王様のような丁寧な扱いをしてもらった」という表現を使って、ホテルや球場のスタッフへの感謝の気持ちを話した。
そして「みんな、福島の桃が美味しいって言うからどうしてもトライしたかった。食べてみたらとても美味しくて、食べ過ぎて太ったよ」と福島県産の桃のおいしさに驚いた様子で話した。
会見に同席したキャット・オスターマン選手も「鶏肉や魚、パスタやサラダなどどれもおいしく頂いた」と話し「気持ちよく過ごせた」と振り返った。
「チーム一同は福島の人たちとともに」
エリクセン監督は「本来ならもっと地域の人たちと交流したかった。ホテル、球場、練習場、どこでも福島の方々はすばらしかった」とコロナ禍という事情にも言及しつつ、福島で進む復興についてコメントを求めると「初めて福島に行った人は、福島で大災害があったとは思わないだろう」と私の目を見て力強く答えた。
そして「これは明らかに日本の復興の力だ。明らかに人々は自らの力で立ち上がろうとしている。コロナのせいで福島の人々が世界に発信できないのは残念だが、我々は福島の人々の復興の力を知っている」と話し「我々チーム一同は福島の人たちとともにある」と福島県へエールを送った。
24日の会見前には、福島県での話を聞きたいと問うと立ち止まり「アイラブ、フクシマ!」とカメラ目線でひと言をくれた。コロナ禍での大会開催だが、しっかりと地域と選手団との交流が生まれていることを知った。
(フジテレビ五輪取材班・亀岡晃伸)
2021年7月24日 23時0分 FNNプライムオンライン
なぜ捨ててしまうのであろうか。他の国の人々にすれば「まだ食べられるのにもったいない」という。確かにその通りだ。日本の古い、それも庶民の少し貧しい所であれば、煮干しをもう一度干して使用するというようなことがあったと聞いたことがある。なかなかの再利用であろう。
日本の場合「料理」は「天からの授かりもの」であり、西洋のように自分の力で狩猟してきたものではないのである。そのように考えた場合、「神から与えられたのは、えぐみや臭みなのか」というような疑問が出てくるはずなのである。実はえぐみや臭みは、煮干しが肴として生きている(煮干しになる前の魚の事なのであるが)時に必要なものであり、煮干しが煮干しとして存在するときには必要のないものである。
その必要のないものまで入れてしまうのではなく、必要のあるものを取り出して、あとは神の国(黄泉の国)に戻すということが、かえってよいのではないかという考え方をしている。そのために「捨てる」といっても、食材としての役目を全うするということであり、田畑における肥料としての役割は存在する。まさに「神」のしたに行き、新たな命を与えられるというような考え方をするのである。
まさに食べ物に対して、そのような考え方をするのが日本人なのである。
さて、話を記事に戻そう。福島の桃に関して、韓国人および中国人の一部、および日本人の一部のあまりこれらの日本の文化に関して全く理解する能力のない人々に関して、福島という言葉は、単純に日本のすばらしさを認めないためのキーワードになっているようである。
しかし、福島の人々は、ここにあるような「引き算の料理」つまり「神様に与えられた最低限の、そして人間のためになるものを料理としてもたらし、残りは神のもとに帰して神から与えられた食材を作る」という、神と人間の循環という中における食材をしっかりと考えている。
当然に、災害があった場合といえども、その災害そのものが「荒ぶる神がなんらかの形で怒りを表したもの」でしかなく、その同じ神が怒りを鎮めると、再び日本人のために、そして世界の人々のために素晴らしい贈り物をしてくれるということになると信じている。その象徴が「桃」なのかもしれない。
「みんな、福島の桃が美味しいって言うからどうしてもトライしたかった。食べてみたらとても美味しくて、食べ過ぎて太ったよ」<上記より抜粋>
もちろん、体重制限をしたり体を鍛えているアスリートが、そんなに見境なく桃を食べて太るはずはなく、当然にリップサービスであろう。しかし、自分の体で試し、自分の味覚で感じたものに関しては誰もそのことに苦情を挟むことはできない。福島が災害があったとか、そういうことはすでに過去の事であり、「いつまでそんなことを言っているのか」というような話にしかあならないのである。
「これは明らかに日本の復興の力だ。明らかに人々は自らの力で立ち上がろうとしている。コロナのせいで福島の人々が世界に発信できないのは残念だが、我々は福島の人々の復興の力を知っている」<上記より抜粋>
東京オリンピックの誘致の時に、滝川クリステル女史が行った「おもてなし」という言葉が流行した。まさに、「おもてなし」というのは、このようなことではないのか。最高の商品を出し、そして最高の気持ちで送り出す。それだから、残念ながらソフトボールでは日本の敵になるアメリカなのだが、それでも最も気持ちの良い状態で試合に臨めるのではないか。そして「敵に塩を送る」ではないが、最高の接待を行い、目の前にいる人々を喜ばせる。その「象徴」に「桃」という食べ物があったことが何か嬉しいではないか。
日本人の食材にかける気持ちや、おもてなしの気持ち、それこそ、金メダル以上の日本の宝なのかもしれない。