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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.Chopin、ショパン、ロンドンのダンディな男アルフレッド伯爵からの招待…、サンドとアルフレッド伯爵との古い繋がりとは…

2021.07.31 22:01

アルフレッド伯爵の肖像画と19世期ウェストミンスター宮殿の写真から(1847年完成)

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グシマーワへ書簡を書いた2日後、ロンドン 48 ドーバー街の引っ越したばかりの広い部屋からショパンはパリの親愛なる友へ宛てて書いていた。

 「私はようやくロンドンという奈落の底に 足場を築くことができました」

ショパンは信頼する一番弟子のグートマンに

ようやく落ち着いたとロンドンの街の様子を皮肉を込めて伝えた。

11年前には、極秘でロンドン旅行をプレイエルと共にしたショパンだったが、その時見たロンドンは環境の悪い地獄のロンドンであったが、この時もショパンにとって良い環境とは言えなかった。

「私はこの数日間、自由に呼吸し始めたばかりです。

太陽が輝き始めたからです。私は✳︎アルフレッド伯爵を訪ねました。

アルフレッド伯爵を訪ねたところ、私の手紙の配達が遅れたにもかかわらず、とても丁重に迎えてくれました。」

書簡が現存しないため不明な点が多いが、

今までの事柄やショパンの性格から、アルフレッド伯爵から招待があり、ショパンは返事を書き、そして何か大事な用件でアルフレッド伯爵を訪ねたショパンなのだ。

アルフレッド伯爵はフランス人だがロンドンの紳士らしくショパンを出迎えたのだ。

アルフレッド伯爵を語るには三代遡ることになる…アルフレッド・オルセー伯爵の曽祖父は1742年に農民から将軍になりパリのオルセー街の領主になった貴族である。祖父はフランスのノジャン・ル・ロトル地域の領主であった。そして父親は「ハンサムなドルセー」としてパリで名を馳せ、伯爵と将軍の称号を獲得した有名人だった。

アルフレッド伯爵はパリの貴族の家柄として生まれ、彼はイギリスはロンドンに渡り父親譲りの美貌でロンドンの社交界の御夫人方から「ダンディな男」と呼ばれ、一躍有名になった彼は、ロンドンでファッションリーダー的存在を放っていた。

彼の父親のジャン・フランソワは、

1804年10月18日、彼は第12 戦列歩兵連隊の大隊司令官に任命され、

1809年に彼はイタリア軍に参戦し負傷し彼はレジオンドヌール勲章の騎士になり、1809年5月26日、そして彼は帝国の男爵になった。1809年彼は副官-司令官に昇進。 9月5日彼は第4 歩兵師団の参謀長を務めた後、彼は上大佐に任命された。

彼は半島戦争(スペイン独立戦争1808年5月2日 – 1814年4月17日)で上大佐として指揮した、1811年11月26日で、122番目の 戦列歩兵連隊、1811年から1813年。彼は1811年7月30日負傷している。そして彼はレジオンドヌール勲章の司令官になった。

…レジオンドヌール勲章は元々は軍人が栄誉として与えたられた称号だったが、サンドの愛人だった芸術家の男たちの共通点は何故か皆この勲章を受けていたのだ。

サンドの父親は半島戦争で亡くなっており、

サンドの母親は将軍の情婦だった。

サンドは4歳の時、スペインで戦死した父親に母親に連れられて会いに行っている過去があり、

この時、スペインでサンドとサンドの母親が面会したミュラ将軍と、ショパンがこの時、ロンドンで会いに行ったアルフレッド伯爵の父親は、知り合いだった可能性がある。サンドとアルフレッド伯爵の父親は友人であったと推測される。ショパンはそれを知っていたから、アルフレッド伯爵に会いに行ったのかもしれない。

アルフレッド伯爵の父親は既に43年に亡くなっていたため、レジオンドヌール勲章の司令官をアルフレッド伯爵が引き続いており、ショパンは栄誉の称号を断った可能性が高い。ショパンは事あるごとに名誉の称号は断り続けて来たからだ。

ショパンは自由でいたかった…

ショパンは断ったため「やっと自由に息をすることができ、太陽が出てきた」と語った。

実際、ロンドンは公害で太陽が出る日が少なかったこともあるがショパンは自分の気持ちを天気に例えることがよくあった。

ロンドンに来てから、ロイヤルフィルハーモニー交響楽団との自作の協奏曲の共演もこの後、断ることになるショパンだった…。

グートマンへ書簡はまだ続いた…。


✳︎アルフレッド伯爵

アルフレッド・ギヨーム・ガブリエル・グリモッド・ドルセー、コント・ドルセー

(1801年9月4日パリ– 1852年8月4日イル・ド・フランス、シャンブールシー)

画家、彫刻家、ダンディな男と呼ばれた

ファッションリーダー

アマチュアのフランスの肖像画家

彼はロンドン滞在中、多くの肖像画を制作した。ウェリントン公爵の肖像画(ロンドン、ナショナルポートレートギャラリー所蔵)

彼の業績は、ドルセーの香水 です。

現在も尚有名です。

彼は自作の貴重な香水のコレクションを残しました。1865年、彼の相続人はパリの

ヌイイ・シュル・セーヌに香水店をオープンしました。1908年に会社は会社に転換され、その大部分はオランダ人のM. van Dyck、ドイツ人のアルバート・サリー・ベルク、そしてロシア人に引き続がれ、第一次世界大戦中は、会社は隔離された後、株式会社はフランス人に引き継がれ、現在も存在している会社は、Compagniefrançaisedesparfumsd'Orsayに改名されました。



✳︎アルフレッド伯爵の父、

ジャン=フランソワ-ルイ-マリー-アルベール-ガスパールグリモッド(1772年6月15日– 1843年12月26日)

ボナパルティストの将軍であり貴族でした。

彼はコレクターのピエール・ガスパール・グリモッド、コンテ・ドルセー(1748–1809)と彼の最初の妻、マリー・ルイーズ・アメリ・ド・クロイ・モレンバイス王女(1748–1772)の息子でした。

彼の父親(アルフレッド伯爵の祖父)コレクターで、ヨーロッパを旅し、有名な絵画や彫刻をコレクションしました。