田中角栄研究全記録 (上)(下)
今年(2021年)6月23日に死去が報道された立花 隆さん。(実際は4月30日に亡くなっていた。)生前は恥ずかしながら一冊も立花さんの書籍は読んだことがなかったのですが、死去の報道から立花さんの書籍に興味を持って読み始めてます。最近、日本ジャーナリズムの質の低迷が言われてますが、日本でこんなに骨太でかつ、取材の対象が幅広いジャーナリストが存在していたことに遅まきながら驚嘆しています。(執筆テーマは、生物学、環境問題、医療、宇宙、政治、経済、生命、哲学、臨死体験など多岐にわたり、多くの著書がベストセラーとなった。Wikipedia)
その立花隆の名を一躍日本中に知らしめたのが、本書「田中角栄研究 全記録」(上、下)です。立花氏は東大に二度在籍し、文藝春秋社の仕事をこなすかたわら、好きな読書に没頭し(生涯10万冊以上を読破)、一時は新宿のゴールデン街で自らのバーを経営したこともあったそうです。そんな立花氏が1974年(昭和49年)10月9日発売の『文藝春秋』に「田中角栄研究〜その金脈と人脈」という記事を掲載、ここから立花さんの田中角栄金脈に関する執筆が始まります。この記事が大反響を呼び、その後、「田中角栄金脈」の取材期間もロッキード事件の裁判におよぶ長期間になり、一時は文藝春秋社内に特別取材チームが編成され大規模な取材活動も行いました。その結果、田中角栄汚職に関する立花さんの取材内容の量と質は他のライバル出版社やライバル記者達のものを遥かに圧倒する優れたものになったのです。本書の上巻では、登記簿や政治資金収支報告書等の公開情報を徹底的に調べ、それをもとに関係者に取材して内容をまとめるという調査報道で分析し、田中角栄元首相の金脈や人脈を詳細に報告して行きます。
ところで、田中角栄氏ですが、生まれは1918年(大正7年)5月4日、新潟県刈羽郡二田村(現在の柏崎市)。田中家は農家でしたが父・角次はコイ養魚業、種牛の輸入などいろいろ事業を行いますが、相次いで失敗し、家産が傾き、極貧下の生活を余儀なくされます。一方、母・フメは寝る間も惜む働き者でした。角栄氏は幼い頃は吃音症で悩まされたこともあったようです。地元の高等小学校卒業後は、柏崎の県土木派遣所に勤めます。(在勤中、理化学研究所の大河内正敏氏が同地を訪れ田中氏と知り合いになり、これが縁となり田中氏が東京へ上京後、理化学研究所を通して仕事をもらうようになります。1938年(昭和13年)には戦争の為、満州で兵役に就きますが、病気のため41年に帰国。翌年には坂本はなさんと結婚し奥さんの家の仕事(土建業)に精を出し、名前を田中工務店として、年間施工実績で全国50位入りするまでに会社を大きくします。そして、45年(昭和20年)2月、理研グループから理化学興業の工場を大田(韓國のテヂョン)に移設する工事を受注します。田中氏が韓国に渡り、工場移設に奔走している最中に終戦を迎えますが、この時期の(数戦直後の)軍部の混乱ぶりに乗じて工場移設代金を軍部に請求し、その結果、実際の費用も含め巨額の含み益を得ることができたようです。
この資金を元手に新潟の選挙に立候補し、ここから彼の政治家人生が始まります。当時は選挙に出るためには、人の協力を得るのも、事務所を運営するのもとにかくお金が何より必要。幼少時からお金に苦労していた母の教えもあり、田中氏は金脈づくりに才能を発揮していきます。後年、知人が相談にきた時、(本人がお金の無心を頼まなくても)その気持ちを察し、気前よく貸し(返済期限を設定せず)、本人が大物になった時にその見返り協力を仰ぐというスタイルで人脈を築いて行きます。当時の日本は経済復興期にあり、土地を持っていれば地価は必ず上がるという「土地神話」が喧伝されていましたが、田中氏は、いわゆるユーレイ会社を数々設立し、自らの関係者をその役員にして、土地を安い価格で買収し、高値で売りさばくという手法で金脈を築き上げて行きます。その資金づくりの一端が「信濃川河川敷問題」(69年/昭和44年から70年/昭和45年 にかけて田中ファミリー企業群が約4億円で買収した信濃川河川敷における土地が、直後に建設省の工事によって時価数百億円となった)です。
立花氏は、登記簿や政治資金収支報告書等の公開情報を徹底的に調べ、それを元に関係者に取材してまとめるという調査報道で「信濃川河川敷問題」などの問題を調査します。そして、この金脈問題を取材していく過程で戦後最大の疑獄事件といわれる「ロッキード事件」(アメリカの航空機製造大手のロッキード社が、当時自社の最新旅客機トライスターを日本の全日空へ売り込むため、巨額の資金をつかって、日本の関係者へ売り込み工作を行った事件。ロッキード社はまず、日本戦後最大のフィクサー・児玉誉士夫氏へこの話を持ち掛け、そこから買収工作ルートは政界へもつながり、当時の首相田中角栄氏もこの疑獄事件に関与していたことが明らかなった。)が起こり、田中氏は1976年(昭和51年)7月27日に受託収賄と外為法違反の疑いで逮捕されるという前代未聞の政治汚職に発展したのです。(ロッキード事件についての発端から逮捕までの記事は本書下巻に収録)
この事件の全容が明らかになり、汚職政治に対し国民の世論形成に多大な影響を与え、さらには、それまで大物政治家の起訴に及び腰だった検事たちに政治浄化の覚悟と決意(つまり大物政治家であっても不正をおこなったのなら法の下で平等に裁判にかける)を持たせたのが立花隆さんであり、この「田中角栄研究全記録」なのです。
では、立花氏はこの田中角栄批判を執筆するにあたり、命の危険は感じなかったのでしょうか? 本書上巻(P82)にこの問いの答えがでています。この一連の取材途中で「死んだら骨は拾ってやるからな」とか「田中はなにをやるかわからないから用心した方がいい。田中系の暴力団は結構ありますからね。」と人から言われたようです。立花さんは初めは「そういう覚悟を持って書き始めたわけではないが、ことが起こってから覚悟はできた。」 そして、この田中汚職の取材を続けるにあたって、立花氏は自分と田中氏の損得を冷徹に判断を行い、「自分が暴力沙汰を受ける肉体的苦痛、取材活動の妨害、私生活妨害、それに(田中氏側から起こされる)名誉棄損裁判の可能性より、田中氏の方は政治生命がかかっている。これは双方の賭け率からいくと比べ物にならない自分が有利な勝負だというのが私の最終判断だった。」と書いています。最近の日本のジャーナリズムについてはいろいろ言われていますが、この立花さんのように常に自分の知性を磨き、自分の取材領域を広げていき、場合によっては自らの命を賭してまで取材をする姿勢って時代を超越しているものだと感じ入ってしまいす。
うーん。。でも、立花さんの書いた読書論の中に「人間は未知のものを知りたいという欲求が強くあり、それが今の文明をつくっていった。その欲求が自分を読書にかりたてるんだ。」というような言葉があり、その言葉が自分の頭の中でずっと引っかかっているのですが、もしかしたら、本書における命がけの徹底した取材、追求姿勢も、一言で立派とか、偉い、とかそう言う大層なものではなく、ただ純粋に立花さんの「自分の知らない世界を知りたい。」という強い欲求から湧き出たものかも知れません。ただ立花さんの場合、その欲求というのは、他の人持っている好奇心に比べより本能的で、自らの生命を賭するぐらい切実なものだったのではないか、という感じがします。