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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

仏王処刑11-立憲君主制憲法制定

2021.08.02 11:29

ヴァンセンヌ逃亡失敗は即国王ルイの失脚ではなかった。フランス国民を束ねるためにはまだ国王を必要とした。またルイを失脚させると、オーストリアが戦争を仕掛けるのが懸念された。オーストリア誘拐節が流布され、国王は逃亡で無罪とされたが、ますます名目だけの存在となってしまう。

1791年8月4日、墺土戦争がシストヴァ条約で終わった。王弟アルトワ伯、ルイ15世の孫プロヴァンス伯らはコブレンツに脱出して、各国に干渉を求めた結果、8月27日に普墺ザクセンの3国は「ピルニッツ宣言」を出し、ルイ16世の危害を加えれば戦争になる、と脅した。

実は立憲議会は憲法の最終段階であり、その憲法は立憲君主制なのである、そのためにもルイは必要だった。そして9月3日最初の憲法が制定された。選挙権は成人男性の6割に拡大されたが、それは選挙人を選ぶだけで、この選挙人は、かなりの資産を持たないとなれなかった。

国王は議会の法律の拒否権が与えられ、ともかくルイはこれを承認して、両者の危機は一時終わった。10月1日最初の立法議会が招集された。「憲法友の会(ジャコバンクラブ)」は、分裂し、立憲君主制を支持するフイヤン派が力を握った。フイヤン派は議会の右に座り、共和派のジャコバン派が左に座った。座席の右派左派が定着した。