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琉大事件を考える(仮称)

宮本たけし前衆議院議員<平成13年03月15日> 予算委公聴会(参考人への質問)沖縄米軍基地問題 公述人:沖縄大学教授 新崎 盛暉

2021.08.04 01:33

http://miyamoto-net.net/parliament/854?fbclid=IwAR35Dxqt4S7E0B865LSfeBEfWbXygcYYdM0yEZuLxk_lJt9jRX8dIyRwLlc

2001年03月15日[ 国会質問データ ]

151 – 参 – 予算委員会公聴会 – 1号 

平成13年03月15日

予算委公聴会(参考人への質問)  沖縄米軍基地問題・介護保険


<沖縄の苦痛の解決は国民的課題>

宮本岳志君 
日本共産党の宮本岳志です。両公述人の御出席に感謝を申し上げます。
 我が党は、日米安保条約をなくして基地のない平和な日本をつくるということを掲げておるわけですけれども、同時に沖縄の苦痛の解決、これは安保条約の終了以前にも、今直ちに行うべきことだと考えております。
 そこで、新崎公述人にお伺いしたいんですけれども、在日米軍基地の問題について、米軍駐留は日米安保条約を結んでいる以上、同盟国の義務であるという意見がありますけれども、先生はどのようにお考えになりますでしょうか。




公述人(新崎盛暉君) 
  アメリカが戦後、現在でもそうですけれども、同盟関係にある国というのは恐らく世界で五十を超えているだろうと思います。
しかし、米軍が少なくとも一万人以上大規模な形で駐留をしている国というのは幾つもありません。

アジアでいえば日本と韓国だけです。

ヨーロッパでも、たしかドイツ、イタリア、そして先ほどから話題に上がってきているイギリス、それぐらいでしょう。

アジアでいえば、フィリピンとの間にもアメリカは現在でも相互防衛条約を締結しています。

オーストラリア、ニュージーランドとアメリカとの三国の間の条約もまだ生きています。

しかし、ここにはほとんどアメリカ軍というのは存在しません。百人単位じゃないでしょうか。

 そういうことからいえば、同盟の内容が問題なのであって、相互防衛条約を結んでいても何ら米軍を駐屯させるのが義務であるなどということは、これはあり得ない、それが現実として示されております。



宮本岳志君 

そういう点で、沖縄の現実、本当に沖縄の苦痛というものを取り除くことは国民的な課題だというふうに私どもは思っております。

 ところが、政府が今推し進めているSACO報告というものは、多くが米軍基地の機能強化につながる基地の沖縄県内のたらい回しになっていると思うんですね。

基地の被害もなくならず、沖縄の豊かな自然も破壊し、沖縄の基地問題の解決策にもならないと。また、米軍のために支出している思いやり予算は、海兵隊を含め米軍が沖縄、日本に居続ける理由にもなっていると思います。

 こういった問題について新崎先生のお考えをお聞きしたいと思います。



公述人(新崎盛暉君) 

これは、沖縄における北谷町というところの議会が決議しているアメリカ海兵隊の撤退を要求する決議がありますけれども、少なくとも、例えば安保条約が現在存在している中ででも、アメリカの世界戦略の中からも、その立場に立っても必要性をほとんどもう失っているのが海兵隊です。その海兵隊をなくすだけでこの基地の再編統合の問題とか、それから米兵の犯罪の問題というのはかなりの程度に解決できるということは間違いありません。

 じゃ、なぜそういう余り必要もない軍隊がいるのかといえば、今のお話の中に出てきた思いやり予算というのが非常に大きな役割を占めています。

これはアメリカの議会でアメリカ政府の役人がもう繰り返し述べていることですけれども、思いやり予算というのがあるおかげで米軍の駐留経費の七十数%は日本が賄っている、したがってアメリカ国内に米軍を置いておくよりも日本に置いておく方がある意味では安上がりだ、そういうことが基本的にあって、彼らがぎりぎり軍事的に必要だと判断する以上の軍隊が日本に存在し、それが過去の経緯の上で沖縄に居続けているということです。

 それで、かつてこの海兵隊というのは日本にいたということを思い出していただきたいと思います。旧安保条約のころ、つまり日本が独立した直後には日本にいたわけです。ところが、海兵隊の犯罪その他から日本において反米感情を非常に高めるということから、アイゼンハワー・岸共同声明の中で日本から地上戦闘部隊を撤退させるという合意が成立しました。

そして、そのとき日本ではなかった沖縄に日本から米海兵隊は移駐したのです。そして、今、北部にある基地というのは、ほとんど海兵隊の基地というのはその段階でつくられています。

そして、それが今そのまま惰性的に居残っている。それが今の問題をつくり出している。もともとはここにいたんだ、ここから追い出されたんだ、民衆によって。

そして、日本ではない沖縄に行って居座り続けているんだ。その沖縄が日本になってもなおかつ居座り続けているのだ。この現実を認識していただきたいと思います。



宮本岳志君 

先生が公述でもお触れになりましたけれども、一月のヘイルストン在沖縄米軍四軍調整官の発言というのが大問題になりました。この司令官は罷免要求すべきですが、政府は罷免の要求すらしておりません。さらに、米軍人の放火をきっかけに起きた地位協定の改定の問題についても、政府は運用の改善で対処しようとしております。

 こうした日本政府の外交姿勢は極めて卑屈で自主性を欠く、沖縄県民、日本国民の立場からは対処していないということを示していると私どもは思うんですけれども、先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。



公述人(新崎盛暉君) 

一言で言えばそのとおりですということになりますけれども、別に四軍調整官を罷免しろとかやれとかいう問題よりも、やっぱり私は重要なのは地位協定の改定だと思います。

 地位協定というのは余りにも時代に合わない。特に環境破壊の問題とか環境汚染の問題とかについて、韓国が今努力している程度も内容を持っていない。ですから、先ほどいろんな同盟国があると言いましたけれども、例えば地位協定で、米軍を駐屯させているドイツと日本の地位協定の間には大きな差があります。特に環境問題において国内法が適用できないという点では格段の差があります。これは九〇年代に入ってドイツが地位協定の改定をやったからです。

 ドイツでできることがどうして日本でできないのか、こういうことを、それがやっぱり一番大きな問題である、屈辱的云々ということで言えば。一人の司令官を別に罷免要求するかどうかという話よりは、むしろ協定そのものをきちんと、少なくとも例えばドイツ並みに変えるというのが当たり前のことだと思います。



宮本岳志君 まさに先生おっしゃるとおり、植民地的とも言える状況だと思いますし、私どもも地位協定の改定ということが本当に切実に求められているというふうに思っております。

 ありがとうございました。





*参考





在沖縄米軍トップが知事侮辱メール 稲嶺知事が不快感

在沖縄米軍のトップであるアール・ヘイルストン4軍調整官(第3海兵遠征軍司令官)が、十数人の部下にあてた電子メールの中で、沖縄県議会が1月19日に全会一致で可決した、海兵隊削減を求める決議を批判し、稲嶺恵一知事らを卑しい俗語で中傷していたことが6日、明らかになった。

米軍側は県に謝罪の意を伝えたが、事実関係を確認した稲嶺知事は記者団に対し「個人的には不快だ」と強い憤りを示した。

県によると、メールは県議会が海兵隊削減決議を可決した後の23日、在沖海兵隊の指揮官クラス十数人にヘイルストン調整官が送信した。

稲嶺知事のほか、副知事やわいせつ事件を起こした米兵が所属するキャンプ・ハンセンを抱える金武町の吉田勝広町長を名指しし、「決議の可決を何もせずにやり過ごした」とした上で

「all nuts and a bunch of wimps」

(みんなばかで、腰抜けども)

という言葉で中傷した。

 在沖米軍側からは県知事公室あてに6日朝、「内部のメールではあったが、ご迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪するファクスが届いた。

稲嶺知事は記者団に「スラング(卑俗な語)を使っており、個人的に不快だ。(行政の長が議会の議決に関与できない)日本のシステムや議会の民主主義を理解していないのではないか」とヘイルストン調整官を批判した。

 決議を可決した与党の最大会派、自民党の西銘恒三郎・県議団長は「事件を起こした米兵も米兵なら、上司も上司だ。おそらく本音が出たもの。怒りを通り越している」と語った。(15:49)

http://www.asahi.com/0206/news/national06016.html








からの

私なりの

φ( . . *)メモメモ







大統領としてのアイゼンハワー


1953年1月20日に大統領に就任したアイゼンハワーは、大統領職にある間を通じて人気を保持した。1956年には前回の大統領選挙に続いてテキサス州・テネシー州の伝統的に共和党勢力が強い州の票を維持し、再びスティーブンソンを前回の選挙以上の大差をもって破り、ニクソン副大統領とともに再選された。


外交問題
大統領時代はソビエト連邦を筆頭とする東側諸国とアメリカ合衆国を代表とする西側諸国との冷戦の最盛期ともいえる時代であった。アイゼンハワー政権を支えたニクソン副大統領とジョン・フォスター・ダレス国務長官は、共産主義との戦いを指揮、拡大した。
また、当時のジョセフ・マッカーシーを代表とする共和党右派の過激な反共主義者の煽動も存在した。だが、ジョージ・ケナンによって提唱された封じ込め政策を受け、平和共存と穏健な保守路線を追求した。


アジア

就任後には行き詰まった朝鮮戦争を停止すると約束し、朝鮮戦争休戦協定が1953年7月に署名された。さらにアジアでの共産主義国による脅威をとどめるために、韓国と米韓相互防衛条約を、中華民国と米華相互防衛条約に署名したほか、東南アジア条約機構を形成した。また、ニクソン副大統領を日本・韓国・中華民国・オーストラリア・ニュージーランドなどの友好国に送り、自由主義陣営と同盟国を重視する外交を推進した。


ソ連
アイゼンハワー政権でアメリカは初の世界的核戦力を保持したが、世界は核兵器を含む第三次世界大戦を恐れていた。1953年のスターリンの死後、後継者のニキータ・フルシチョフと核兵器競争の停止の合意に達する可能性を望んだ。同年末に国際連合総会で行った「平和のための原子力」演説は有名である。
ソ連のリーダーと首脳会議を開催するいくつかの試みはなされたが、最後のそのような試みは、1960年にソ連上空でU-2偵察機が撃墜されたこと(U-2撃墜事件)で失敗した。フルシチョフは、自身の回想録音テープの中で「アイゼンハワーは事あるごとにダレスの助言が無いと返答出来ない」と見透かし、自国と自身の優位を感じたという。なお、アイゼンハワーはモスクワのレーニン廟から初めて赤軍のパレードを閲兵した外国人である。
日本
1957年6月に岸信介が初めてアメリカを訪問した際にアイゼンハワーは岸を真っ先にゴルフに連れ出した。プレー後には「大統領になると嫌なやつともテーブルを囲まねばならないが、ゴルフは好きなやつとしかできない」と語るなど、両者の信頼関係の礎となった。


1960年1月に「1960年日米安保条約」を日本との間で締結したのを受け、6月に岸の招待で日本を訪問しようと試みたが、安保闘争の最中の6月10日に訪日の日程を協議するため来日したジェイムズ・ハガティ(当時の日本における表記は「ハガチー」)大統領報道官が東京国際空港周辺に詰め掛けた訪日反対デモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生した。さらに6月15日には警官隊が国会議事堂正門前でデモ隊と衝突し、デモに参加していた大学生の樺美智子が圧死するという事件が発生した上、銃撃などによりアイゼンハワーの身に危害が加えられる可能性も出てきたという情報すら入ってきたため、最終的に日本側よりアメリカに訪日を止めるよう要請し、訪問を取りやめた。なお、その後の条約の自動承認を受けて、岸は辞職した。


対赤狩り

ジョセフ・マッカーシー上院議員による反共主義のキャンペーン(赤狩り)に対し、公的に非難する態度をとらなかったことで非難されたが、私的にはマッカーシーを嫌っていた。友人でもある大戦中の同僚で、トルーマンの下の国務長官だったジョージ・マーシャルをマッカーシーが非難していたからである。アイゼンハワーは、「私は彼に跪いて落ちぶれるつもりは無い」と非公式に発言した。


第二次世界大戦で日本の敗戦が決定的になり、原子爆弾の使用は不要であることを1945年7月20日にトルーマン大統領に進言しており、原爆の使用を強硬に反対した。1945年10月、フランクフルト郊外の自宅でハリマン駐ソ連大使を迎えた夕食の際に、ハリマンは「アイゼンハワー氏は、原爆を使わずに戦争が終わっていたらどんなに良かったことか、と話した」と記していた。被爆地の広島に原子力発電所を造る案が1953年時点でアメリカ政権内で浮上していたが、大統領に就任したアイゼンハワーは「(原爆投下への)罪悪感を示すことになる」という理由で反対した。ストローズ原子力委員長は広島への原発建設案をアイゼンハワーに提案したが、アイゼンハワーは「その考えは捨てた方が良い。(原爆を使ったことへのアメリカの)罪悪感を示すことになるからだ」と発言した。


大統領  
ドワイト・D・アイゼンハワー 1953 - 1961
副大統領
リチャード・ニクソン 1953 - 1961
国務長官
ジョン・フォスター・ダレス 1953 - 1959
クリスチャン・A・ハーター 1959 - 1961
財務長官
ジョージ・M・ハンフリー 1953 - 1957
ロバート・B・アンダーソン 1957 - 1961

国防長官

チャールズ・E・ウィルソン(英語版) 1953 - 1957

ニール・H・マッケロイ(英語版) 1957 - 1959

トーマス・S・ゲイツ(英語版) 1959 - 1961

司法長官

ハーバート・ブラウネル・ジュニア(英語版) 1953 - 1957

ウィリアム・P・ロジャース(英語版) 1957 - 1961

郵政長官

アーサー・E・サマーフィールド(英語版) 1953 - 1961

内務長官

ダグラス・マッケイ(英語版) 1953 - 1956





記録を記録しておこうからの

参考としての項目が、沢山あって、目が回るというか((+_+))

とはいえ、アイゼンハワーとかダレスって何者?とか、ずっと思ってた私。

(てか、アイゼンハワーとダレスの力関係?)


これでまた、少しは賢くなったか私(;・∀・)


で、植民地という言葉…


私の伯父は、1952年に琉球大学へ入学するんだが

その頃の琉球大学、その前に琉球大学が創設されるまでの経緯、それが故にか

学生たちは、どういう事に抵抗し、どういう弾圧や制裁をうけたか…

その合間というか、1953年4月初めての銃剣とブルドーザーにより土地が接収されてもいくんだが



銃剣とブルドーザー (じゅうけんとブルドーザー) は、朝鮮戦争下の1950年代にアメリカ軍(以下、米軍)が占領下の沖縄で武装兵を送りこんで基地を拡大した一連の土地の強制接収を指す表現。沖縄戦後から米軍の占領下にあった沖縄で、米軍はさらに土地接収を進めるため、1953年4月に「土地収用令」を公布した。米軍は土地と家屋と生活を守ろうと抵抗する住民に対しては武装兵を出動させて土地から追放し、ブルドーザーを使って家屋を押しつぶしながら軍用地として土地の強制接収を進めたことから、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる。



私が、ブルデモを特に許せないというのもね…

(>_<)





つづく