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きもち

2021.08.04 07:32

自分は何か行動するたびに、例えば食べるだと

まずそれを前にして 本当に食べたいとおもうのか?からはじまり

食べたいということは 自分はなんの栄養素を欲してるのか?

もしいまこれいがい 何が出てきたら そっちのほうがいい!とおもうのか

その場合 再度なんの栄養素を体が欲してるのか?そしてなんでそれがわからないで

最初のを食べたい!って おもったのか?

という感じの思考が いただきますのまえに ぶわああああと脳内かけめぐります。


見るという行為について、 見るは脳下垂体 視床下部に刺激がいき
そこから創造性と未来を読み取ろうとする側頭葉と 分析する前頭葉に
まず刺激がいき分析が始まります。 で見るという行為には前提として見れないというのも

期待として織り込まれており、ものごとには見れないほうが より楽しいって世界もあります。

たとえば自分の場合 ニューヨークに2回ほど行きましたが、自由の女神を見ていません。

あと3歩すすんだその角まがると見えるよ。といわれた場所まで行ったけど 二歩でやめて

ひきかえしました。

”あ、ちょっと見たいかも” と 一瞬おもったのですが 自分が納得する 見たいに達してないので

きっとみても なんだ。。で おわりかねないので

そんな小さな感動をえるよりも あと一歩でみれるかもしれない!というぎりぎりで止めて

見る事を辞退しました。


結果 ただ見てきたよ~ よりしつこい事由の女神の話ができるようになりました。

なのでやっぱり自分はその場合 ただ見るより見ない方が意義があったなと思ってます。


要は全て どう感じるか?その膨らませ方が最優先で 目的は自分が最終的に

おもしろいかおもしろくないか だけでつきるのです。


なのでどんなものごとには はて?と考え出したら それをもって終了プロセスに入りがち

なぜ?自分は本当に?と自己確認開始すると、ああ、そっかあ ってわかると
もうそのさき進む理由も意義もわりと霧散しちゃって、他の作業にうつる