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自然の中で庭仕事

2017.02.09 12:07

大学の庭園で食べ物を育て分かち合うことは、 シューマッハー・カレッジ生活の鍵。

翻訳:浅野 綾子

 自然に基づく教育と個人の変革、協同活動の中心として、シューマッハー・カレッジがまさに開始された時から、 庭園は、サティシュ・クマールや共同創立者たちのビジョンになくてはならないものとしてあり続けています。自然 は私たちの師であるというタゴールの考え方を尊重し続け、瞑想やリラクゼーション、食料栽培、環境を考えた園芸 の実践、それぞれの場が庭園内に作り出されています。 カレッジの気風である「全人格的学び」の具体化を助けるために、ここ2、3年にわたり、作物栽培エリアがかなり 拡大されています。それに伴い、学内キッチンで使われる作物の量が増えています。また、環境保護手法による作物 栽培について独自の6ヶ月の全寮制プログラム(持続可能な園芸学のシューマッハー実践寮:Schumacher Practical Residency in Sustainable Horticulture)を展開しています。このプログラムでは、大学生活の豊かさと、レジリアン スと再生力のある方法による食料栽培についての実践的な学びを体験することができます。 全寮制園芸学科の生徒の多くにとって、このことは人生が変わる経験になっています。庭園はいくつかの段階を経 てきました。始めは、ほぼ観賞用の小さなハーブ園。続いて、森林庭園として果樹や低木を含めた植樹がなされてい るいくつかの場所ができました。大学で園芸が教えられるようになり、不耕起の野菜の畝が加えられました。 現在、持続可能な園芸学の6ヶ月の全寮制コースの進展に伴い、2つの新しい革新的な栽培スペースが設置されてい ます。生徒が実際に作業し、その作業を振り返ることにより、持続可能な園芸を学ぶことができる場所です。 1つは、伝統手工芸教育科 (Old Craft Education) が作った場所で、円形に盛り上げられた不耕起の庭園(エミリア・ ハゼリップ:Emilia Hazelip のシナジスティック・アグリカルチャー: synergistic agriculture の栽培方法をとる私た ちの状況に合うように手を加えています)と、果物エリア、3本のビニールトンネルがあります。この庭園には、大き な野生の池と、インディアンランナー種のアヒル用の2つの小さな池があります。 シナジスティック・ガーデニングは、福岡正信の自然農法にヒントを得たエミリア・ハゼリップ により実践された 栽培方法です。主たる教えは、栽培方法を考える時に、自然の生態系と植物群の背後にある基本原則に倣うことです。 言い換えれば、鍵となる生態系の相互作用を最大限に活かす場所を作り出すことです。すなわち、土の豊かさを補い、 土壌構造を維持して、土の生命と植物の残渣に委ねること。耕さず、一切の殺虫剤、除草剤を使わないこと。単一作 物栽培よりも混植栽培にすること。土を常に裸にしないよう保ち、できれば生きている植物を生やして覆っておくこ とです。 これは上手く行っています。惚れ惚れとする、生産的で、美しい庭園を創り出しています。いくつかの挑戦も出て きています。主なものは、予想通りナメクジです。エミリア・ハゼリップは、植物の食べない部分はどのような部分 でも残渣のマルチとして植床に置くように、また、植物の根を地中に残すように(パースニップや人参などのように 根が収穫物の場合を除いて)と力説しました。 私たちはその通りにし、植物の残渣と藁のマルチは、ナメクジに最適な棲みかとなりました。作業しやすいようバ ランスをとるため、カエルやヒキガエル、その他の外敵を引き入れています。卵をプレゼントしてくれるだけでなく 私たちを楽しませてもくれる、みんなが大好きなランナー種のアヒルもその1つです。 この冬の実験として、植物の残渣を残す代わりに、取り除いて堆肥にし、 毎年冬越しの緑肥を植床で栽培していま す。これでナメクジの害が減るか観察です。 もう1つの大きな取り組みであり、主な食料栽培エリアでもあるのは、5.5エーカーの新しい森林農業の畑です。ヘ ンリー・ボルトフト (Henri Bortoft:物理と科学哲学におけるイギリスの研究者、教師、講演家、文筆家) にちなんでヘンリーの畑と名づけられています。ここではアレイ栽培技術【大木や潅木の間に栽培する】を用い、木の実の果樹園、森 林庭園(ある程度の収穫の容易さを考慮しながらも、複雑さが保てるようデザインされています)、手工芸・切花の 花園が造られています。また、2つの野生生物の池があります。この庭園には、徐々に2つ目の鶏の群れを生息させる 予定で、あらゆる屋外での学びに重要な「人の空間 」になるでしょう。 大学のキッチンで使われる、庭園で採れたての野菜の量が大幅に増えたことは、かなりの変化です。学内キッチン の料理人は八面六臂の活躍です。庭園の世話をし、ヤーコンのような風変わりな宿根草の収穫物を使いこなし、採れ 過ぎたどんな作物もピクルスにしたり保存加工をします。学内で栽培された野菜の増加は多くの生徒たちを惹きつけ ています。生徒たちは、湯通しや冷凍、ビーツの酢漬け、キヌアの脱穀を手伝います。こうしたことは、庭園拡大が 大学やコミュニティ生活にもたらした、多くの利点のたった1つにすぎないかもしれません。 食べ物は、私たちの肉体的な生存に不可欠であるだけでなく、感情的・精神的な健やかさにも不可欠です。料理を してもらう時、大抵私たちは大切にされていると感じます。料理をしてあげることは、おもてなしと明確な愛情表現 の、万国共通の方法なのです。たった1歩下がってみれば、あなたの分の食べ物が育てられ、収穫されているという ことなのです。けれども、多くの人たちに、このことは理解されていません。 私たちが食べる食べ物は、この宇宙からの贈り物です。ですが、先進諸国のほとんどの人々にとって、食べ物は、 納められ感謝されるものというよりも、店で買われる商品、所有され金で買われる物(大抵廃棄されてしまいます) なのです。 私たち全ては食べ物に関わりがあります。でも、その関係の本質は、あなたが自分で栽培し、収穫し、下ごしらえ をして料理をするなら、もしくは、このことをやってくれる人たちの近くにいるなら、大きな違いがあります。富を 蓄えた土地所有者たちが、農作業から距離をとり、塀で囲まれた家庭菜園を母屋から見えないように隠していたこと が思い出されます。今日の私たちと少しでも違いがあるでしょうか。今でも私たちは、アグリビジネスやスーパー マーケットが食料生産ビジネスを囲ってしまうことを手放しにしているのです。 でも、食べ物から距離をおくこと、知識がないことは、つながりから外れてしまうことや関係の欠落を生み出して しまいます。これが、自然の全てを傷つけるのです。 今では、このつながりから外れるということがどのような感じだったのか、思い出すのは私には難しいとも言えそ うです。でも、問題は、勿論、そのことを感じなかったということ。園芸を実践し始めてから私はつながりに連なり、 このありふれた感覚と比較するものを持ったからこそ感じられるのです。全ての世界がモノクロならば、色を思いつ くことは困難です。あなたが食べ物に出会う前に加工され包装される世界で育ったなら、どうして栽培土に含まれる 有機物レベルを心配するのでしょうか。もしくは、誰が種の多様性を「所有」するのか心配するのでしょうか。 接することが、つながりを築く可能性を開くのです。私にとっては、観賞園芸とその美しさ全てへの情熱の高まり が、植物とその進化への目を、短期間に劇的に開かせたのです。目を見張る多様性や臨機応変ぶり、私たちが植物に 完全に依存していること。精神医療の現場の仕事を後にして、植物やその移り変わりと共に過ごすこと。その懐の深 さに包まれる中で、自分が深く癒されていることに気づきました。特定の栽培手法が、有害な影響をもたらすことを 知って、この美しさとその全てが、私を底知れない危険に晒しているのだと感じ、別の栽培方法の担い手になりたい と思いました。

このことが、私をキュー王立植物園 (Royal Botanic Gardens Kew) での3年間の訓練に導いたのです。この場所で は、植物は主役として考えられていました。私は食べ物の栽培に興味を持つようになり、現在の食のあり方に伴う多 くの問題を学びました。この道への歩みが、シューマッハー・ガーデンの仕事と、大学の実践寮のコーディネイトを もたらしたのです。私は、植物の世話をし、再生可能な栽培方法を学び、また教えながら仕事ができるようになりた いと思っていました。このことが、魂を満たす大切な仕事として捉えられている環境の中においてです。つまり、世 界に存在するものの深淵を育む仕事、それによって私たちが傲慢になり、身の毛もよだつような物事を生み出してし まうことを防ぐ仕事です。 でも、自然とつながるとは何を意味するのでしょう。自然とつながりたいということは同語反復です。私たちは自 然の一部なのですから。でも、これは、人が価値を認めて切望する、感じとれる気づきなのです。というのも、この 気づきは、俯瞰や謙遜、自分よりも遥かに大きいものの一部であるという感覚、時として超自然的な感覚から感じることがあり得るからです。でも、自称自然愛好家の間でさえも、食べ物という形においては、以前として自然との関 係が絶たれたままということがあり得ます。往々にして、私たちは田舎を、レジャーや逃避、安らぎの場所としてみ ています。もちろん、これは関係の1つのあり方ですが、このレベルにとどまるのでは関係の質は低下します。それ なら、私たちは、絵のような風景が家庭菜園やもちろん農場によっても汚されないようにと欲する、あの金持ちの土 地所有者たちのようなものです。 にもかからわず、私たちの存在的つながりへの気づきのまさに本質、すなわち自然との相互依存は、この関係の中 で私たちがどう自分たちの必要を満たすのか、最も重要な食べ物の必要という点でどうなのか、考えるよう私たちに 命じます。先進国の世界の中で、あるレベルでは、生命そのものを植物に頼っているのだと私たちは理解しています。 けれども、それはもう多くの場面において、植物を下に見て、関係の枠組みから外してしまうのです。住宅に置く価 値と比較すれば、違いは明白です。住宅は高価であることを望みながら、食べ物は安物を望んでしまうのです。でも、 家も食べ物も、根本的に必要なものです。どちらも贈り物なのです。 今からどのようにしてこの亀裂を癒し、関係を修復すればよいのでしょう。思うに、答えはシンプルに庭仕事を始 めることだと思います。 だからこそ、大学の庭園は「付け加えられたもの」ではなく、全人格的な学びやディープ・エコロジー、システム 思考、変革、全てが真に変革となるために、自然の中に、実際に置かれることが必要なのです。私の考えでは、人は 考え込みながら庭作業をすることはできません。私たちと取り巻く環境の間に分かれ目がないこと、私たちは自然を 構成してはいますが、ありがたいことに自然の全てではないことに気づけない人はいません。 この理解と洞察があって、愛情と思いやりが生まれるのです。自分を大切にすることは、地球を大切にすることな しにはできません。食欲はそこにあります。もう一度食欲とは何かを思い起こさせる必要があるかもしれませんが、 そこに食欲はあるわけです。自然がその一部分である私たちの欲求をどのように満たしてくれるのか、この対話の機 会を作れば作るほど、私は未来により多くの希望を持つのです。これが、庭園と実践寮、寮生なくして大学の完成は ないだろうと私が思う理由なのです。

持続可能な園芸におけるシューマッハー実践寮の詳細はこちらをご覧ください。www.schumachercollege.org.uk/hor- res-17

300 : Jan/Feb 2017