とみタクシー

ROOTS

2019.12.20 14:30

とみタクです。

今日は思い入れの深いお話です。あることから思い出しましたので、長くなりそうですが、お時間のある時にでも読んでいただけると嬉しいです。

生涯忘れることはない出来事で、福祉タクシーを始めたルーツとなる話ですが、あくまで私の目線での内容です。


数年前に私は介護施設の管理者兼ケアマネをしていました。

その施設に入居されていた思い出深い方がいます。県外出身で息子様が岡山にいるからという理由で岡山の施設へのご入居でした。

このA様(男性)は病気から不自由な身体となり車椅子生活でした。さらにやむを得ない家庭の事情とは言え故郷を離れることになり…今思うと家のある自宅に帰りたかったのだろうと思います。


A様は入居当初から、自傷行為があり時にはカッターを持ち出し、時には電気コードを首に巻き、メモには「安楽死」と書かれたりと、多くの入居者を抱える施設介護者からすると「目が離せない人」→「面倒な人」→「関わりたくない人」というレッテルを貼られていたと思います。当初2階へ入居されていましたが、事務所があり台所からも近い1階への転居もしていただきました。

私はA様の気持ちが知りたいと思い、時間があるとお部屋に伺い何をするでもなく、一緒にテレビをボーッと見たり、たわいのない話で時間を取り繕っていました。今振り返ると、この時はちょっとした見張りをしていたんだと思います。


息子様も無理やり岡山に連れてきてしまったという思いからか、毎晩のように仕事が終わると施設に足を運んで下さいました。来れない日は私の携帯に「父の様子はどうですか?今日は遅くなりそうで行けそうにないんです。」とある日は電話、ある日はメールで連絡をいただいていました。


ある時、ふとA様に尋ねたことがあります。

「A様は今一番何がしたいですか?」と。

A様は「…家の庭を松葉杖でもいいから歩きたい。」と話して下さいました。車椅子生活だったA様にとって歩くという希望と家に帰りたいという希望が聞けて嬉しく思いました。


その日以降は一緒に松葉杖で歩行練習をする日々でした。息子様にもそのことをお話し、「実現できるか?仕事も忙しいので…でも時間が取れれば連れて行きたいと思います。」と協力的なお返事をいただきました。少しでも意欲が沸けばいいなと思い、自宅近くでよく行っていたと聞いた温泉の外観写真やA様が昔乗っていたという車の画像などを印刷してはお渡しして喜んでいただきました。


そうしていると、A様自ら事務所まで私を尋ねて来られるようになりました。私はその都度、松葉杖を出して歩行練習にお付き合いさせていただきました。一旦目標を持たれると頑張れる人、あきらめてしまう人がいますし、その目標が現実的なものか、非現実的なものかで意欲は変わるものだと思います。A様の能力と息子様のご協力がいただけることで実現可能なものと捉えていました。


時間が取れれば、松葉杖での歩行練習。そんな日々がしばらく続きました。


そんな中、会社内の異動辞令がおりてしまい私はA様のいる施設を離れることになってしまいました。。。


しかし、その年の夏には息子様の仕事の時間が取れることとなり、めでたくA様はご自宅に一時帰ることができると後任された管理者から話を聞きました。


以前はあれだけ、自身を傷つけ、死に向かっていたA様のことを思い出すと念願がかなってほんとに良かったなぁと、自分のことのように、すごく嬉しかったです。ほんとに嬉しかったのです。


悲しい報告を聞くまでは…


夏の暑い日でした。私の父の誕生日でした。

思いもよらないお知らせが入ってきました。


当時の管理者より

「富田さん、A様なんですけど…」

私「あ!A様どうでした?自宅に帰れたんですよね?もう戻られたんですかね?」と良い報告が聞けると思い、胸を躍らせました。

管理者「…富田さんには言わないでと息子様に言われたのですが…、特に関わっていた富田さんにはどうしてもお伝えしないといけないことがあるんです。」

私「…どしたんですか?」

管理者「A様ですが、お亡くなりになられました…」

私「えっ…」と訳も分からず、ちょっと時間が止まった感覚がありました。「えっ、なんでですか⁉︎」

管理者「それが…ご自宅で、首を吊られたようです。。富田さんには息子様から直接ご連絡があると思います。」


私は何のことだか何を聞かされているのか全く分からず、頭の中が真っ白になりました。

しばらくして、いろんなことが思い出されました。


安楽死と書かれたメモ。


首に巻いていた電気コード。


松葉杖を手配したこと。


事務所に顔を覗かせるお顔の表情。


一緒に歩いた施設の廊下。


退勤前にお部屋に伺い、ベッドで休まれてるときに握手をして「また明日!」と笑顔。


暗い思い出から明るい思い出が走馬灯のように一瞬で通り過ぎました。


そして自責の念にかられました。

家に帰りたいという希望を引き出した私

庭を歩きたいという目標を引き出した私


結局、その日の仕事は手につきませんでした。

希望を叶えるためにとは言え、私は何のお手伝いをしていたんだろうか?これで良かったんだろうか?悪いことをしたのか?

家に帰っても自問自答の繰り返しでした。


次の日、息子様から電話をいただきました。

息子様「富田さん、親父を自宅に連れて帰ったんですが…その、自宅で体調が急に悪くなってしまって…亡くなりました…」

私は知っていることを隠し、胸が締め付けられるような思いで知らなかったかのように応対し、お骨が息子様宅にあるとのことで、後日ご自宅へお伺いするお約束をさせていただきました。


数日後、ご自宅にお伺いし、線香をたて、変わり果ててお骨になり骨箱に入ったA様に手を合わせました。お仏壇にはA様がお好きだったカップラーメンが積み上げてありました。


「富田さん…あのですね…」

息子様からお話がありました。


「やっぱり…富田さんには黙っててはいけないと思って、、すみません。実は父ですが、自分で首を吊って亡くなったんです。。」

力が抜けたように涙が出てきました。

「家に連れて帰ったあと、昼ごはんを弁当でも買って来ようと、ちょっと離れた隙でした。倉庫で…。首を…。吊っていました…。あとで思うとあんなことをする力がまだあったんだなぁと。松葉杖でなんとか歩けるのに、あんな力がまだ…。」

息子様の声も震えながら、目には涙が今にも流れ出しそうでした。


知らなかったフリをしていた私は「えぇ!」と小さく短く発しました。


息子様は続けて

「すぐに降ろして、救急車を呼んで病院まで運んでもらってたのですが、まだ息があると思って、いろんな言葉をかけました。なんでこんなことをっ!バカなことしてっ!と怒りもありましたが、最後には…ありがとうなぁ…と分かんないんですけど感謝の言葉に自然となっていました。とっさに、というんですかねぇ…」


「そんなことがあったんですかぁ」と私が小声でつぶやくと、

息子様から「きっと、父は最後は家が良かったんです。父は自分で家で死ぬことを選んだんです。」と言われて私は少し救われた気分になりました。

息子様や他の家族様には無念と思われることだったでしょう。

私は肯定も否定もできず、ただうなずいていたと思います。


このときに、思ったことが今のとみタクシーの原点とも言えます。

[希望を引き出した私が、家にお連れして、息子様がお弁当を買いに行ってる間も寄り添って、懐かしの空間を一緒に過ごせていたら…

結果は違っていたかも知れなかったなぁ…]


あきらめなかったことで実現できたことは、思い出となります。しかしあきらめない思いを引き出すことや実現することにはサポートが必要な場合があります。


今でも、思い出します。

私の父親の誕生日が来るたびに。


そしてこの今の仕事に導いてくださったA様と息子様には感謝しかありません。


長文、最後まで読んでいただきありがとうございます。

とみタクシー🚐 富田康夫