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Okinawa 沖縄 #2 Day 126 (19/08/21) 旧喜屋武 (1) Fukudi Hamlet 福地集落

2021.08.20 09:39

旧喜屋武村 福地集落 (ふくぢ、ふくじ)

[8月28日更新: 中の井泉 (ナカンカー) 訪問]

糸満市の集落はこれまでに旧真壁村、旧高嶺村、旧兼城村、旧糸満町を巡ったのだが、残っていた旧喜屋武村と旧摩文仁村は資料がなく、なんとかインターネットで情報を探してからと思っていた。前回で南城市の旧玉城村を終え、次はどの集落を巡るか考えていたのだが、図書館が新型コロナ感染防止のための緊急事態宣言下で、その解除までは閉鎖中で、下調べができていない。たまたま、糸満市のサイトを見ていると、旧喜屋武村の集落ガイドマップが、今年5月に発行されているのを見つけた。旧喜屋武村に関しての資料はこれで十分で、これ以外には見当たらないので、これをベースに旧喜屋武村の集落を巡ることにした。ただ、何か事情があるのか、文化財の写真が少なく、文化財探しには少してこずるかも知れない。今日は旧喜屋武村に存在していた5つの集落のうち福地集落をめぐる。




旧喜屋武村 福地集落 (ふくぢ、ふくじ)

旧喜屋武村は、琉球王統時代は喜屋武間切で、古くは「きやめ、ちゃん」と呼ばれ、農業中心の村だった。1896年の郡区制で島尻郡に編入した後、1908年4月1日に島嶼町村制で摩文仁村となった。沖縄戦では激戦地となり、村民だけでも犠牲者数は村人口の約半数の約1200人近くにもなった。人口が半減し、個々の村では復興が難しいことから、1946年に隣接する真壁村 (真壁間切) と摩文仁村 (摩文仁間切) と合併し、三和村 (みわそん) となり喜屋武村は消滅し、旧村役場は三和村喜屋武支所となった。1961年には旧糸満町 (現在の糸満市字糸満)、兼城村、高嶺村と合併し、糸満町 (1971年に糸満市となる) の一部となり喜屋武村は消滅した。

今日訪れる福地集落は海岸線から離れているが、名城ビーチ近くの海に福地海という名称が残るように、かつては漁業も行っていた。 古い村落行事や歌などにも、その面影を感じられるものが残っている。現在は途絶えてしまっているが、8月11日に行われていた綱引き行事の前には豊漁祈願が行われていた事や、集落内に碑が建てられている真福地のはいちやう節 (まふくじぬふぇーちょーうぶし) という唄には航海の安全を祈願した一説があり、漁業に関係していたことがわかる。

福地は全域が市街化調整区域で住宅建設には制限が多いことから、開発がされず、このため人口も180名程度の小さな地域で、糸満市の中でも下から6番目に人口の少ない地域だ。旧喜屋武村の山城村、束里も同じように人口の少ない地域となっている。福地の人口は一時期250人になったが  (2004年)、それ以降、人口減少が続き、現在では179人まで減り、1986年以前の状態に戻り、戦前の人口には及ばない。1986年の前の国勢調査の人口データ、特に明治、大正時代の人口が気になるが、図書館が閉鎖中でデータ調べができない。再開された後、調べた後、グラフを更新する予定。

市街化調整区域ということから、民家は元々集落があった地域から拡大しておらず、集落の外側にある建物は住宅ではなく、倉庫や施設となっている。

集落ガイドマップに福地集落で行われている祭祀が載っていた。それぞれの祭祀でどの拝所を御願するかの情報は掲載されておらず残念。福地集落では以前と比べ祭祀の数は半分になっている。

集落ガイドマップに掲載されていた1945年時点での集落マップがあり文化財の場所が記されている。実際に集落の隅々まで歩いたが、当時の道筋は現在では少し変わっている。当時民家だった所も畑や空き地となっている。沖縄戦での被害の影響だろうか?


福地集落訪問ログ


琉球ガラス村

史跡や文化財では無いのだが、福地集落で、もっとも多く観光客が訪れるのが、この琉球ガラス村だ。ちょうど、福地集落への入り口の手前にあるので、寄ってみた。遠くからも目立つ建物で、ちょっとした美術館の様な外見だった。

新型コロナ蔓延の影響で、ガラス工場は稼働しておらず。ガラス作り体験コーナーも休止中だった。他の多くの施設が休館になっている中で、ここは時短営業をしており、ガラス工房の売店も全てやっていた。ただ、訪問客は少なく、店員さんは暇そうだ。ここも経営は厳しいのだろう。

琉球のガラス製造は明治時代中期には始まっていたとされる。1909年 (明治42年) に、鹿児島の商人によって近代的なガラス工場が建てられた。それ以前は商品を本土から船で運んでいたが、その三分の二は、輸送中に壊れてしまい、沖縄で販売する際には高い物になっていた。結果的に沖縄で生産した方が安くなるということで、ガラス製造が始まったという。明治の末期から戦前までは、沖縄では三つのガラス会社があった。沖縄戦で全て焼失し、住民は、米軍兵士の捨てたコーラなどの瓶を削ってコップとして利用していた。復興が進むとアメリカ軍基地で捨てられたコーラやビール、ペリエなどの空き瓶を溶かし再利用し、ガラス製造が再開する。琉球ガラスは、戦後に雑多な瓶を溶かして再生されたガラスを使用して作られたことから、厚手の赤色や緑色などの多彩な色合いとなり、再生の過程で混入する気泡と相まって独特の味わいをもつガラス製品となっており、その特徴が現在でも継承されている。ガラス製品の売店の隣で、琉球ガラス作品の展示室がある。どれも伝統を継承しつつ、進化させた作品で、見ているだけでも楽しい。もっとも、これらの作品は何十万円から百万円を越える値が付けられていたので、とても手が出ないので見るだ。


村屋 (ムラヤー) 跡、福地公民館

福地集落はとても小さな集落なので、まずはかつて村屋だった公民館に行き、自転車を建物のひさしの下に停めて、徒歩にて集落内を巡ることにした。今日は午後から雨予報なので、雨が降っても直ぐにここに雨宿りに戻って来れる。集落は殆どが畑地帯で、その中に三つ (二つ?) の地域に分かれて民家が集まっている。詳しいことは資料にも無いので、個人的な想像では、有力門中を中心にグループができていたのではと思える。


中村渠屋 (ナカンダカリヤー) ❶

公民館の東は畑が広がり、その中に二つの拝所がある。その一つが畑の林の中に中村渠屋 (ナカンダカリヤー) と呼ばれている殿 (トゥン) で、琉球国由来記に記載されている「中村渠の御イベ」にあたる御嶽 (ウタキ) といわれている。村では中ノ殿 (ナカントゥン) とも呼ばれている。 右手の拝所は按司のフニシン (骨神) が祀られていると伝わっている。


マチャ殿 (ドゥン) ❷

中村渠屋 (ナカンダカリヤー) の直ぐ近くにも林がある。畑の中にぽつんと林や杜がある所には拝所があるケースが多い。あえて畑にしていないのは、そこが昔から聖域とされていたからだ。ここもそのケースで、マチャ殿 (ドゥン) と呼ばれる拝所だった。琉球国由来記の「福地之殿」と考えられており、ウマチーではミキ (神酒) などの供物が供えられた重要な拝所。 先程の中村渠屋 (ナカンダカリヤー) と対 (グサイ、鎖) になる拝所だと考えられている。


東江殿 (アガリードゥン) ❸

中村渠屋 (ナカンダカリヤー) の東には広場があり、そこにも拝所があり、琉球国由来記の「東江之殿」とされる。 現在、敷地内には小さな祠が造られている。


アガンジョーヤー ❼

東江殿 (アガリードゥン) の東の畑地の一角にも拝所がある。アガンジョーヤーと呼ばれ、ウマチーやジュールクニチー (十六日) などに重箱料理 (ウサンミ = 御三味) を供えてムラで拝むほか、各門中も7月の門中拝みで巡拝されている。この近くの屋号 仲道 (ナカミチ) が管理している。


仲道 (ナカミチ) の神屋 ❾

中村渠屋 (ナカンダカリヤー)、マチャ殿 (ドゥン)、東江殿 (アガリードゥン)、アガンジョーヤーの南側には民家が集まる小さな地域がある。この中に国元 (クニムトゥ) といわれる旧家である屋号 仲道 (ナカミチ) があり、敷地内に神屋がある。今でも住居になっているので外観だけを撮影。この地域には村元 (ムラムトゥ) の旧家もあるので、村の始まりの場所では無いだろうか?


前の毛 (メーンモー) 3⃣

仲道 (ナカミチ) の前は広場になっており、ムラの遊び庭 (アシビナー) で馬場の北東にある広い辻だった。 綱引き後のムラアシビ (村遊び) や角力大会もこの広場で行ったという。


並里 (ナンザトゥ) の神屋 ➓

前の毛 (メーンモー) の西の民家の中に村元 (ムラムトゥ) といわれる旧家の屋号 並里 (ナンザトゥ) 神屋がある。今でも住居になっているので外観だけを撮影。


仲間 (ナカマ) の神屋 ⓫

並里 (ナンザトゥ) の向かい側には南山 (現字大里) から福地へ移住して来たといわれる旧家の屋号 仲間の神屋もある。


拝所

この地域には空き地が目立っていた。その空き地には神屋が建てられている。この村から去った門中も神屋だけは先祖から住んでいた場所に残す。これは殆どの集落で共通の事で、先祖から受け継いだ土地や畑を売却する事には消極的。これが集落の過疎化の要因でもあり、行政や業者が住宅地建設の際の土地買収の難しさでもある。(写真上は公民館のすぐ西側、写真下は並里の神屋の西側)


福地馬場 (フクジンマ) 1⃣

集落の南にあるンマウイー (馬追い)、ンマウティーとも呼ばれた約270mほどの長さがあった馬場跡で、かつては松並木が美しく、 競馬も行われたという。現在でも8月の綱引きはこの馬場で行われている。


鬢頭廬 (ビージル) ❺

福地馬場 (フクジンマ) の東端に石組みの祠に霊石が祀られた拝所がある。 鬢頭廬 (ビージル) と呼ばれている。ビージル (ビジュル、霊石) は、石神のことで、その石神を信仰しており、沖縄県下に91カ所確認されているそうだ。ここのビージル (ビジュル) は無病息災、子安 (子育、子授け)、航海、交通の安全の祈願の拝所となっている。福地集落では、8月11日の綱引きの日に海の魚を供えて豊漁豊作を祈願したり、 3月の水撫で (ミジナディー) では子どもの健康祈願をしたりした。また子どもが生まれると酒を供えて健やかな成長を祈っている。


砂糖場 (サーターヤー) 跡

福地馬場 (フクジンマ) の西端の向こう側にはかつて、砂糖場 (サーターヤー) があった。今は広場になっている。芝生が綺麗に刈り込まれている。これ程手入れをしているので、村では大切にされている場所だろう。この周りは今でもサトウキビ畑が広がっている。かつては刈り入れたサトウキビをこのサーターヤーに運び入れていた。かつては、鬢頭廬 (ビージル) の近くに、農耕馬を洗うクムイ (溜池) もあった。


はいちやう節の碑

砂糖場 (サーターヤー) 跡の隅に真福地のはいちやう節 (まふくじぬふぇーちょーうぶし) の碑が建てられている。 平成19年に建てられたとある。「はいちゃう」とは旧暦8月11日と15日の綱引き行事に酒宴の席で使われた牛の角で作られた酒盃のこと。酒宴では、酒盃は下には置かれることなく、回し飲む、そして元の所に戻ってくる。歌にはこの縁起の良い酒盃のように、海に出た漁師が元の港へ戻ってくるよう航海安全の祈願が込められている。この歌から、昔は福地集落が漁業に関係していたことがわかる。(このはいちゃう節の起源については高嶺間切国吉村とする説と喜屋武間切福地村という説がある。)

  • 真福地のはいちゃうや 嘉例のものさらめ いきめぐりめぐり 元につきやさ   (まふくじぬふぇーちょーや かりなむぬさらみ 'いちみぐいみぐい むとぅにちちゃさ) [真福地の早盃は 縁起のよいものであろうぞ 行きめぐりめぐって元に着いたよ]
  • くりかへち結ぶ御縁まちめしやうれ そめてあるかなの あだになゆめ (くりかいちむしぶぐいんまちみそーり すみてぃ'あるかなぬ 'あだになゆみ) [繰り返し結ぶご縁(を)お待ちください(心)染めてある愛する人のあだになるでしょうか]
  • 染めてあるかなの あだなゆめやすが もしかながらへてくたはきやしゆが  (すみてぃ'あるかなぬ 'あだなゆみやしが むしかながらいてぃ くたわ ちゃすが)  [染めてある愛する人のあだにならないだろうが もしか長らえて 朽ちたらどうするか]


芋ウマチー (ンムウマチー) の拝所 ⓬

製糖場 (サーターヤー) があった場所の南の辻に芋ウマチー (ンムマチー) の拝所と呼ばれる石を祀った小さな祠があり、 現在は行われていないが、戦前まで9月に屋号 布殿内 (ヌンドゥンチ) で作ったカンダバーズネー (芋の茎と葉の和え物) を供えて、芋の豊作を祈るンムウマチーが行われていた。芋ウマチーなるものがあったとは初めて知った。沖縄でウマチーと言えば、稲と麦の豊穣祈願、収穫祭があり、麦の方は続けているところは少なくなっている。豊穣祈願と収穫祭なので他の農作物であってもおかしくは無いのだが、新しい発見だ。八重山諸島と宮古では粟のウマチーがあるそうだ。この福地集落で芋ウマチーがあったという事はかつては芋が重要な農産物という事が分かる。


前の井泉 (メーンカー) ④

製糖場 (サーターヤー) から村屋へ向かう道があり、そこの畑の中に井泉があったという。かつてのムラの主な飲料水源で、崖下にあったため、長い階段の上り下りが大変だったという。 現在は埋められており、井泉を感じられるものは残っていない。


北の殿内 (ニシントゥンチ) ❹

今度は、公民館から北に向かうと数軒の民家が集まっている地域があり、その裏手、琉球ガラス村との間に林がある。その林の中に北の殿内 (ニシントゥンチ) があり、琉球国由来記の「福地巫火神」だとされる。そこにはヌルヒヌカンや各門中の香炉が祀られている神屋が建っている。

敷地内にはワチワチという 各門中が古墓を遥拝するための連棟式の祠もあった。


前の殿内 (メーントゥンチ) ❻

北の殿内 (ニシントゥンチ) へ向かう道の脇にノロを排出していた屋号 布殿内 (ヌンドゥンチ) の屋敷があり、敷地内に神屋がある。ヌンとはノロの事だが、これを「布」と書かれているのは初めてだ。沖縄では漢字は当字なので、色々な書き方がある。ノロもヌン、ヌル、ヌールとも言い、「野呂」「祝女」「巫女」と書かれている事が多い。8月の綱引きをはじめ、村御願 (ムラウグヮン) などで拝む。7月の門中拝みでは福地の各門中が拝んでいる。


酒屋 (サカイ) の神屋 ❽

前の殿内 (メーントゥンチ) のすぐ東側には嶽元 (タキムトゥ) といわれる旧家屋号 酒屋 (サカイ) の神屋がある。


殿内門 (トゥンチジョー) 2⃣

前の殿内 (メーントゥンチ) と酒屋 (サカイ) の神屋の前は広場になっており、殿内門 (トゥンチジョー) と呼ばれ、集落の中心地の辻という。十五夜 (ジューグヤー) に臼太鼓 (ウシデーク、沖縄伝統の踊り) を行った。戦前には盆のウークイ (お送り) に屋号 布殿内 (ヌンドゥンチ) から馬を出す行事もあったそうだ。


ウフンティンチジ ⓭

集落から外れた西北にかつては小高い場所があったそうだ。今はどの様な小高い丘は見当たらなくなっている。地図から見ると多分この付近だったと思う。ここでは厄払いをするときに西方の海に向かって拝んだという。かつての頂上北側のサカウケーでは、葬式帰りの女性たちがアミワカリと呼び、小径の左右の草を結んだサン (植物を輪結びにした魔除け) をまたいで厄払いしていた。


東の井泉 (アガリンカー) ①

集落の北の外れ、琉球ガラスの東側の畑の中に三つの井泉跡が集まっている。その一つが東の井泉 (アガリンカー) で波平玉川 (ハンジャタマガー) とも呼ばれ、福地集落の産井泉 (ンブガー) だった。波平玉川 (ハンジャタマガー) とも呼ばれているのは、昔は波平集落 (現字南波平) の井泉だった。波平集落 (現字南波平) は福地集落のすぐ北側にあったが、現在地へと移ったため、このカーを福地のシーサー (獅子頭) と交換したという伝承がある。


中の井泉 (ナカンカー) ② [8/28訪問]

資料によれば、東の井泉 (アガリンカー) から国道331号線 (名城バイパス) を福地集落側に渡ったところに中の井泉 (ナカンカー) があり、ムラガー、福地ガーとも呼ばれているとある。大まかな地図でこの井泉を探すが、井泉跡らしき物は見当たらない。草が深く、その中にあるのだろうか?先程訪れた東の井泉 (アガリンカー) が産井泉 (ンブガー) になる前は、昔はここが産井泉 (ンブガー) だった。主に洗濯や野菜洗いなどに使われ、隣の溜池 (クムイ) では農作業帰りに手足や農具を洗ったり、牛馬を水浴びさせたりしたそうだ。

8月28日に束辺名集落を訪問する際に、ここを通ったので、もう一度探す。草むらの中で少し草が少ないところがあり、井戸への道ではないかと、中に入ると、やはり井戸があった。草で覆われて、井戸の全容ははっきりとはしないのだが、井戸は石積で囲われているようで、所々石積みが見える。


トーンハラ井泉 (ガー) ③ [未訪問]

中の井泉 (ナカンカー) の近くにあるというこの井泉も探すも見つからない。資料では石垣で囲われた古いカーだそうだが、石垣らしきものも見つからなかった。この井泉はトーンハラ井泉 (ガー) とか、按司井泉 (アジガー)と呼ばれている。南側に福地グムイというクムイがあったそうだ。地図で示された場所には溜池があり、多分この近くにあったのだろう。



これで福地集落巡りが終わったが、時間がまだ少しあるので、この後、喜屋武集落の文化財の一部を訪問することにする。(喜屋武集落に着いた時から、何度も強い雨に見舞われ、雨宿りをしながらの見学となった。)




参考文献

  • 糸満市の歴史と民俗を歩く 旧喜屋武村集落ガイドマップ (2021 糸満市教育委員会)