Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 130 (04/09/21) 旧喜屋武 (5) Yamagusuku Hamlet 山城集落

2021.09.05 10:54

旧喜屋武村 山城集落 (やまぐすく、ヤマグスク)


今日は旧喜屋武村の最後の訪問地の山城集落を訪れる。



旧喜屋武村 山城集落 (やまぐすく、ヤマグスク)

上里集落の上里グスク、山城グスクのある丘陵を下った南側に山城集落がある。いつ頃、集落が始まったのかは書かれていないが、琉球王府の歌謡集の「おもろさうし」にも多数の謡が残っているので古くからあった集落と思える。ここにある佐慶グスクは上里グスクの支城とも考えられているので、三山時代には集落があったと思える。山城集落の前身と思われる上里集落の東方にあった崎 (サチ) 村には、集落ゆかりのある拝所なども多数残っている。 糸満市字山城は全域が市街化調整区域で総人口が100名程度の小さな集落となっている。同エリアの南側は沖縄戦の激戦地で、多数に戦没者を出し人口は激減した。地域内にはガマや慰霊碑などが多く残り、焼け野原になった南側には平和を祈願した平和創造の森公園がっている。海岸沿いはサーフィンやマリンスポーツのスポットとなり、多くの人が訪れる。

戦前は288人の人口だったが、沖縄戦で集落人口の29%が犠牲になり、減少している。その後、元には戻らず、2019年末では戦前の人口の3分の一近くになってしまった。人口減少は今でも続いている。行政のテコ入れがない限り、この状況は好転しないだろう。

近年に近づくにつれて、集落内の民家が減少しているのが分かる。

集落を巡ると、1945年の集落地図と比較して、この集落も相当の数の民家が空き地や空き家になっていた。上の地図通りの状況だ。この集落の市街化調整区域になっていることが大きく影響しているのだろう。

山城集落で行われている村行事は以下の通り。気がついたのは、旧喜屋武村の五つの集落全てで、麦穂祭 (二月ウマチー)、麦大祭 (三月ウマチー) が続いている事だ。他の村の集落では麦のウマチーを続けているところは僅かな事を考えると、伝統を守る風土がある地域なのだろう。

糸満市の歴史と民俗を歩く 旧喜屋武村集落ガイドマップ (2021 糸満市教育委員会) を参考に文化財をめぐる。


山城集落訪問ログ


山城公民館

集落の北の端にあたる場所に公民館がある。この場所が公民館が建てられる前は何だったのかは書かれていないのだが、村屋は別の場所にあった事と公民館前は広場になっているので、村の公共施設であったのだろう。おそらく製糖場 (サーターヤー) ではなかろうか?


桃原 (トーバル) の神屋 ⓭

公民館の北側に新屋門中の旧家である屋号 桃原の神屋がある。祭壇には幾つもの香炉が置かれ、それぞれのが神や祖先を祀っている。(火之神、神元、ノロ、土帝君、女神、男神、金満の名が書かれている。)


前の殿内 (メー トゥンチ) の神屋 ⓫

公民館の西側には屋号 志茂 (シモ) の屋敷跡があり、その敷地内内に前ン殿内を祀った神屋が置かれている。 


仲門 (ナカジョー) の神屋 ⓬

現在の山城集落は公民館の南側に位置して、小さな規模になっている。その集落の中に仲門門中の本家である仲門の屋敷跡がある。現在は空き地になっているが、出会った地元の人は数十年前までは人が住んでいたと言っていた。敷地跡にはヒンプンの後にコンクリート造りの神屋が建てられていた。仲門 (ナカジョー) 門中は崎村の3人の兄弟の次男がこの地に移って来て興した門中といわれている。(長男は上里の上良小 (ワーラグヮー)、三男が小波蔵の玉井 (タマイ) の始祖)

敷地内に給水タンクが残っている。側面には昭和11年に造られたとあり、この給水槽の使用者の名前が書かれている。沖縄で簡易水道が敷設されたのは戦後昭和30年代なので、この給水槽はそれよりも20年も早く造られている。行政主導の簡易水道ではなく、この村の有志が資金を出し合って造られた民間によるタンクと思われる。それで使用者も限定されていたのだろう。

仲門 (ナカジョー) の神屋から給水槽の向こうにもコンクリート造りの神屋がある。こちらは仲門門中の分家の屋号 仲門小ン前 (ナカジョーグヮーヌメー) の神屋になる。ここも今は空き地になっている。


ウフマンジョー 3⃣

仲門門中の屋敷跡の前にある辻は少し広くなっている。ここはウフマンジョーと呼ばれ、かつては十五夜 (ジューグヤー) の行事で綱引きや臼太鼓 (ウシデーク)、村遊び (ムラアシビ) などが行われたといわれている。


村屋 (ムラヤー) 跡

ウフマンジョーを挟んだ反対側にはかつての村屋が置かれていた所になる。この一帯が山城村の中心だった。今はサトウキビ畑になっている。


前新屋 (メーミーヤ) の屋敷跡 ➓

仲門小ン前 (ナカジョーグヮーヌメー) の西隣は屋号 前新屋の屋敷跡になる。ここも空き地になり、その中央に、石を組んで造った拝所がある。これは神の化身である鳩の知らせで先祖のフニシン (骨神) を見つけ、祀ったものだと伝わっている。

前新屋 (メーミーヤ) の屋敷跡の西隣も空き地になって神屋だけが建てられている。


新里の庭 (シンザトゥヌマー) ❷

ウフマンジョーの南東、大城グスクとの間は大城集落の御願の中心地がある。この辺りは大城古島遺跡が発見された場所で、現在の集落に移動する前はこのあたりに集落が形成されていた。その中に新里の庭 (シンザトゥヌマー) と呼ばれている拝所群があり、琉球国由来記の新里之殿 (シンザトゥヌトゥン) と考えられている。

この場所に3つの祠が集まっている。その一つがイビ (霊石) を祀った威部之前 (イビヌメー)。

二つ目がクバオーの嶽

そして、山城グスク (下城 シチャングスク) へのお通し (ウトゥーシ、遙拝所) となっているミチムン (火之神 ヒヌカン) がある。その他、アシチャーガーやその周辺の拝所もここから遙拝している。 現在でも8月11日に行われている綱引きの綱作りはこの場所で行っているそうだ。 


米須屋 (クミシヤー) の神屋 ❼

新里の庭 (シンザトゥヌマー) の周りには幾つもの神屋が置かれている。新里の庭 (シンザトゥヌマー) の西側、ウフマンジョーから大城グスクへの道の途中に米須屋 (クミシヤー) の神屋がある。敷地内にはコンクリート造りの2棟の神屋が建てられて、そのうちの東側の連棟式の神屋が米須屋 (クミシヤー) の神屋に当たる。 崎村の崎 (サチ) の次男 (山城集落 仲門門中) と三男 (小波蔵 玉井門中) の拝所とされている。


殿内 (トゥンチ) ❹

道を更に南に登るとヌン殿内 (ドゥンチ) の神屋がある。 かつての村御願 (ムラウグヮン) では、まず最初に新屋門中が拝み、その後に他門中が拝んだという。


仲地 (ナカチ) ❺

殿内 (トゥンチ) から東側に道があり、この道は新里の庭 (シンザトゥヌマー) をぐるっと囲っている形になっている。その道に新屋門中の本家にあたり、 村元 (ムラムトゥ) とも、按司世 (アジユー) の嶽元 (タキムトゥ) とも伝わる旧家の屋号 仲地の神屋。


崎 (サキ) ❻

更に道を進むと、古い時代に上里東方にあった崎村から移ってきたという仲門 (ナカジョー) 門中の祖先の崎の神屋で、崎 (サキ) と呼ばれている。 崎村からの3人兄弟の次男が興した山城の仲門 (ナカジョー) の祖先を祀っている。


アシチャー井泉 (ガー) ②

集落を外れた北東の畑地帯の中にかつて使われていたアシチャー井泉 (ガー) がある。この井泉は「おもろさうし」にも謡われた村産井泉 (ムランブガー) で、 正月の若水もここで汲んだ。 水量はあるが、湿原の中にあるため、 大雨が降ると数日間は使えなかったという。


カーンジャ腹墓

アシチャー井泉 (ガー) から南方向の丘陵地に墓が見える。ここからは直線では行けず、畑の中を迂回して行く。カーンジャ腹門中の墓で、この一族は本家が喜屋武のカーンジャ門中、先程神屋があった分家の山城の新屋門中、上里の新屋門中の共同墓になっている。



山城 (ヤマグスク) グスク ❶

山城集落から山城古島遺跡を挟んで南の丘陵に山城グスクがある。地元では下城 (シチャグスク) と呼ばれ、上城 (ウィーグスク) と呼ばれる上里グスクとは別のグスクと考えられてきたが、 近年同じグスクだとわかり、一部を指して山城グスクと呼んでいる。下城 (シチャグスク) と上城 (ウィーグスク) については、上里集落の訪問記に詳しく記載している。

この山城グスクは整備されておらず、中に入って見学はできない。道路から見ると、物見台であったと思われる高台の石垣が見えていた。


上の井泉 (ウィーンカー) ① [未訪問]

山城グスク (下城 シチャグスク) の中に上の井泉 (ウィーンカー) があるのだが、グスク内に入れなかったので見る事は出来なかった。かつては水がきれいで飲用水源としても使うことがあった。 グスクガーとも呼ばれている。



カニマン御嶽 (ウタキ) ❸

山城グスクの外、北側の林の中にカニマン御嶽 (ウタキ) がある。カジュマルの大木の根元に石を積み上げた拝所になっている。村御願 (ムラウグヮン) では、この拝所を拝むほか、佐久真の殿 (サクマヌトゥン) や山城グスク内の拝所も遙拝している。


佐久真の殿 (サクマヌトゥン) ❾ [所在地不明]

カニマン御嶽 (ウタキ) の前の道路を渡った林の中に琉球国由来記に記載されている「佐久真之殿」 があったと考えられているが、この道路建設で場所が確定できなくなってしまったそうだ。


御願毛 (ウグワンモー) [消滅]

カニマン御嶽 (ウタキ) の前の道路と山城集落への道が交わる付近には、かつて御願毛 (ウグワンモー) と呼ばれる広場があったそうだ。フーチゲーシ (悪疫払い) などのときに、この広場で行事を行ったという。 現在は耕地整理のために消失してしまった。跡地には牛舎が建てられていた。


立別れ毛 (タチワカリモー) 2⃣

集落の外れ南西の高台付近 (場所は特定できなかった) で、崎村の3人兄弟がここで話し合い、上里、山城、小波蔵と3つ のムラに別れて住むようになったことから名付けられた辻の小広場。 かつてはスーズードゥクル (人に害を与える悪霊が出る所) とも呼ばれ、 ムラ人も近づかない場所であったというが、屋号 仲門の子孫などの一族は拝所として拝んでいる。

近くには古墓があった。


佐慶 (サチ) グスク ❽

佐慶 (サチ) グスクは字束里上兼本原の標高約50mの丘陵にあるのだが、山城集落所縁のグスクになる。琉球国由来記の「サケ城ノ御イベ」 があったと考えられている。尚円王代に鋳造されたという希少な古銭、金圓世宝も出土しているので、三山時代から存在していたと考えられ、すぐ近くにある上里グスクの支城と考えられている。佐慶グスクの東から北にかけては、旧摩文仁間切の集落や点在するグスクが手にとるように見える事から、 摩文仁按司軍からの侵攻に備え築かれたにでは無いだろうか?

山城集落から丘陵を登り山城海岸に向かう道の脇にグスクへの入口があるのだが、木々で覆われて、訪れる人もいないのだろう。思い切って、木々を薙ぎ倒しながら中に入ると、すぐのところに石を積んだ拝所 (写真中) があった。これが琉球国由来記の「サケ城ノ御イベ」 かどうかは書かれていない。グスクの外側にあるので、多分、グスクの中まで入らず、ここから御願する遥拝所では無いだろうか? 奥に進むとジャングル状態で道らしきものは無い。所々に石垣跡 (写真下) が残っているが、木々に覆われて全容は分からない。以前の調査で造られた縄張り図と照らし合わせると、多分、グスクへの虎口付近の石垣と思われる。樹々が益々深くなり、これ以上先に進めなくなり、ここで探索は断念した。

佐慶グスクの北側は切り立った崖になっている。ちょうど崎腹の古墓のあたりになる。虎口はこことは反対側の南側にしか無いのだが、かつての集落の崎村との行き来はこの崖の亀裂部分が道として使っていた。(写真中、左下) 所々に石積みがあるのだが、敵が北から攻め登って来る場合はこの道を遮断するために積まれたと考えられている。道の途中には古墓もあった。(写真右下)


崎村古島

佐慶グスクの北の麓一帯は、昔は崎 (サチ) 村があった場所。今ではここに集落があった面影は無く、サトウキビ畑が広がっている。この集落の指導者が崎村の3人兄弟の家の崎腹だったのだろう。


崎腹墓

佐慶グスクの北の切り立った崖に崎腹の古墓が造られている。この崖の上に佐慶グスクがあった。この墓は現在は使用されておらず、閉じられ神御墓となり、一族の拝所となっている。ここには崎村の三兄弟が興した仲門門中 (ナカジョー 次男 山城) 、上里集落の村元 (ムラムトゥ) の上良小門中 (ワーラグヮー 長男 上里)、玉井門中 (タマイ 三男 小波蔵) の三つの門中の共同墓になっている。

崖の下に現在も使われている当世墓 (トーシーバカ) が新たに造られている。


謝名腹墓

崎腹墓の西側には謝名腹の墓がある。謝名腹は上里集落の有力門中で、その祖先は上里グスクの領主の上里按司の重臣だった。


崎井泉 (サキガー) ③ [未訪問]

謝名腹墓の奥の林の中に崎井泉 (サキガー) があるのだが、入口らしきものは見つからない。大城集落では多くの拝所は新里の庭 (シンザトゥヌマー) から遥拝しているので、現地まで赴き拝んでいないのかもしれない。かつては崎村のカーで、佐慶グスクの水源地だったという。



陸軍病院山城本部壕 (サキアブ)

山城集落から東に外れた畑地帯の中に沖縄戦の戦争遺構がある。元々は、山城集落の避難壕で、1945年3月に米軍の猛攻撃や艦砲射撃が始まると、山城の住民の一部がこのサキアブに避難していた。

首里陥落後、5月下旬に南風原町の陸軍病院から撤退し、この場所を病院本部壕とし、第一外科壕、第三外科壕を伊原に、第二外科壕を糸洲に移した。この陸軍病院山城本部壕には沖縄師範女子部、沖縄県立第一高等女学校の学徒が配属されていた。

6月14日の爆撃によって軍医、衛生兵、ひめゆり学徒隊の多数が戦死。病院本部の機能は壊滅状態で、翌6月15日にひめゆり学徒隊も含め生存者は伊原第一外科壕、伊原第三外科壕などに分散するが、そこでも激しい攻撃にさらされることとなる。た。6月18日、ついに沖縄陸軍病院は解散となり、病院勤務者や学徒らは、 米軍の激しい包囲攻撃の中をさまようことになった。伊原第三外科壕の学徒は全員戦死してしまった。先日訪れた荒崎海岸にも逃げ隠れた学徒も6月21日に手榴弾で自決している。陸軍病院解散の3日後の事だ。


平和創造の森公園

佐慶グスクの前の道を挟んだ所は沖縄県平和創造の森公園となっている。山城海岸に向けて緩やかに下る一帯のかなり広い公園で、「平和で緑豊かな環境を創り、次の世代へ引き継ぐこと」を目的に、平成10年4月に開園。沖縄戦で失われた緑をとりもどし、緑に親しみ、緑に憩い、緑に学び、平和への思いを新たにする場である。確かに、この公園は平和であって良かったと感じさせる造りをしている。広大な敷地の芝生は綺麗に刈り揃えられており、十分な空間を感じられる。ゆったりした敷地にはグスクの模した石垣に囲まれた遊具のある子供達の遊び場、展望台、造林樹種展示園、多目的広場などの施設がある。散歩には気持ちの良い公園で、所々には休憩場所の東屋が点在していた。

公園の入り口付近 (公園の敷地外になり、旧摩文仁村になるのだが) には沖縄戦の犠牲者の慰霊碑が建っている。広島、島根、北海道、香川、和歌山の戦没者の慰霊碑。そして、沖縄戦に動員された学徒達始め戦後放置された3万5千余体の遺骨を納めた魂魄 (こんぱく) の塔もある。

その他にも各都道府県の慰霊碑も建てられている。(奈良、大分、開南、東京、島根、沖縄菩提樹苑)


マーヤガマ

公園内にマヤーアブ(マヤーガマ)という洞穴がある。見学には事前登録が必要だそうで、柵で囲われ中には入れなかった。案内板によると、山城集落の住民の避難壕であったが、後に、陸軍の将兵が移動してきて、住民を管理下に置き、この壕から住民を追い出したり、食糧を強奪したり、更には住民を虐殺したという証言が残っている。この様な日本兵の残忍な行為は、この旅であった人からよく聞く。日本兵はアメリカ兵よりも酷い行為が多くあったそうだ。公にされていない事は山ほどあるらしい。日本政府と沖縄県との政治の駆け引きで水面下に潜んでいるそうだ。

山城集落では沖縄戦では住民の29%が犠牲になっている。

このガマは崩落の危険があるので、2018年以降閉鎖されている。それまでは平和学習で年間15,000人の来訪があった。糸満市として、保存して公開を再開するか、完全閉鎖か検討していたが、その後どの様な結果になったのかはわからない。閉鎖前の写真が載っていた。沖縄の戦争遺構の保存は大きな課題となっている。戦後70年も経ったので、多くのガマは閉鎖されている。多くに住民は保存公開を求めているのだが、それにはかなりのコストがかかるので行政もすんなりと結論が出せない状況だ。


ウルグチ

平和創造の森公園南の端から山城海岸への道がある。海岸には山城にある岩を削って造った海への階段で降りる。この階段はウルグチとかウリグチと呼ばれ、住民が漁に出たり、潮水 (ウス) を汲む為に、明治の終わりごろ造られたといわれる。

この山城海岸は、琉球王府が薩摩に隠れて貿易を行う港だったとの伝承も残っている。


山城海岸

ウルグチから少し東に進んだ所が平和創造の森公園の東の端で山城海岸の一番賑やかな場所になる。ここには多くの沖縄戦の慰霊碑があり、駐車場も広い。多くの車が停まっている。殆どがサーファーの車だ。ここから山城海岸への入口がある。そこには「さめ注意」の看板があった。ハブ程多くの被害は報告されていないが、毎年サメが目撃されている。この海岸はかなりの遠浅で、海岸からは海に向けてコンクリートの細道が設けられている。住民が潮水を汲む為のものだろうか?サーファーの為に設置されたのだろうか?。サーファーはこの道を通って沖に向かっている。海岸は鋭利な岩肌に珊瑚礁が広がっており、裸足では危険だ。サーフィンも干潮時は禁止されており、満潮時の4時間のみとなっているのだが、サーファーはこれを無視してサーフィンをしている。サーファーにはリーフブーツの着用を勧めているが、見た限り着用しているサーファーはいない。

山城海岸から帰路に着くが、ここからは前回訪れた荒崎海岸へのバス道が通っている。バス道といっても舗装道路ではなく、砂利道でこの道路沿にある採石場への道になっている。バスも定刻運用ではなく、呼び出し方式の運用になっている。荒崎海岸を通り、喜屋武岬、糸満市街地から豊見城を経由して帰宅。


参考文献

  • 糸満市の歴史と民俗を歩く 旧喜屋武村集落ガイドマップ (2021 糸満市教育委員会)
  • 沖縄県立博物館紀要 第24号 1-28, 沖縄南部旧喜屋武間切のグスク群について (1998 當眞嗣一)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)