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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.Chopin、劇場で確かめ合うボーリヌとショパンの音楽家同志の友情とは…日曜礼拝で会いましょう、ショパンより…

2021.08.07 21:52

ボーリヌ・ヴァルド肖像画とロイヤルオペラハウス19世紀イメージ

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「私は午後1時から2時の間に自宅で人を捕まえなければならないのです。私の紹介状がまだ全部届けられていません…」ショパンは

ロンドンに来てから3週間が過ぎたが弟子は

ひとりかふたりだけだった。ショパンはお金儲けのための弟子を取ることが苦痛だった。しかし、ショパンはロンドンに来てからサザーランド侯爵夫人を通してスケジュールは監視されていた。ショパンの社交は上流貴族のご夫人のレッスンを取るように用意されていた。ショパンはその返事を断りきることが出来なかった。

ショパンはパリでも上流階層の夫人や令嬢を相手にレッスンをしていたが、ロゼールやグートマンのように自分を慕って頼って来た例外の弟子もいた、しかしロンドンではそのような事は許されそうになかった。

「新聞には私についてとても素晴らしい記事が書かれています。」ショパンは2月革命後パリから来た有名なポーランド人音楽家としてロンドンで話題になっていたのか…、それには訳が…

「昨日、コヴェント・ガーデン(ロイヤルオペラハウス)でヴィアルド夫人が私のマズルカ1番を歌い、アンコールをせがまれました。」

ボーリヌはコヴェント・ガーデンで行った

リサイタルのアンコールでショパンのマズルカを歌った。それがロンドンの上流階層に受けたのだ。だから、彼女はアンコールに応えて拍手の大きなうねりを浴び、ボーリヌは何度も舞台に呼ばれた。

そして、ボーリヌはもう一度ショパンのマズルカを歌った。ショパンのマズルカ一番をボーリヌは2回歌ったのだ。

ショパンはまさかボーリヌが自分のマズルカを大劇場で披露してくれるとは思いもしてなかったのだ。現にショパンはボーリヌに自分は頼んでいないと証言しているのだ。

つまり、プログラムには載っていない曲だったのだ。だから、アンコールで2回歌ったことになる…。

「彼女(ボーリヌ)は夫と一緒にロンドンに来たばかりの私に会いに来てくれました。

私は彼女の舞台を労うために楽屋を訪ねましたが彼女は既に部屋から出ていて会えませんでした。」ショパンが楽屋を訪ねたときボーリヌはまだ部屋にいたのだが、付き人が『ボーリヌさんはもう帰られました』と言ったのだ。だからショパンはボーリヌに会えなかった。「彼女はパリの時よりもずっと私に親切になりました。私のマズルカを頼んでもいないのに歌ってくれたのです。」

ショパンはボーリヌはショパンがサンドのノアンの館に避暑に行っていた頃からの友人だったが、それはあくまでも、

サンドの友人としてサンドが招いている招待客であったため、ショパンもボーリヌもサンドのご機嫌を伺わなくてはならなかった。しかし、ロンドンで会ったボーリヌはショパンに以前より親切になっていた。

サンドがショパンのことを否定し中傷し貶めるようになったときもボーリヌは美術評論家の夫と一緒にパリに居たショパンの味方したことがあった。

ボーリヌがショパンのマズルカをコヴェント・ガーデンで披露したことがロンドンの新聞に載ったのだ。ボーリヌのおかげで日の目を見なかったショパンのマズルカはロンドンで知られるようになった。しかし、ショパンは複雑な心境であったのだ。当時、ロンドンの劇場は国の特許劇場でプログラムは検閲がありアンコールも自由ではないはずだ。

「彼女は私が頼んでもいないのに私のマズルカを歌ってくれたのです。」

ショパンはボーリヌとの友情をロンドンで

再確認でき自分のマズルカがロンドンで受け入れられたたことが嬉しかった反面、

ボーリヌのその後を心配した…、

「彼女は同じ劇場(コベントガーデン)で『夢遊病の女』に出演しています。

彼女はグリジ、ペルシャニ、アルボーニ、マリオなどと同じ劇場(コヴェント・ガーデン)でこのオペラに出演しています。

この劇場は、シアター・ロイヤル(ヘイマーケットにある)のライバルであります。」

シアターロイヤルはイギリスで最古の17世記から始まった由緒正しい劇場で、

イギリスでは王立特許がなければ演劇の公演は深刻な違法行為となった。

一方のボーリヌが歌ったロイヤルオペラハウス(コヴェント・ガーデン)もイギリス最古に伝わる特許劇場であり、

始まりは17世紀はイングランド国王チャールズ2世がサー・ウィリアム・ダベナントに許可した劇場であった。

そのように当時は厳しい検閲の制限下で音楽家は国営劇場に出演をしていた。ボーリヌはプログラムとは無関係のショパンのマズルカをアンコールで歌ったことは許可を得ていたのであろうか…当時ロンドンでは、モーツァルトかメンデルスゾーンと決められていたはずだった。しかし、ショパンのマズルカは暴動で混乱していたロンドンの人々の慰めになったのかもしれなかった。

リンドはショパンの歌曲を歌ってはくれなかったが、ボーリヌはショパンのマズルカを歌った。ショパンは19の歌曲を書いている。

17歳の1827年から1847年にかけて17曲書いた。

ショパンはポーランドのオペラ歌手だったコンスタンツァアとポーランドの頃に指輪を交換して結婚していた。ショパンはこの純粋無垢な恋愛をいつまでも心の何処で大事にして来た。

この歌を披露する場がなかったショパンはボーリヌが歌ってくれたことにお礼がしたかった。ボーリヌはショパンの生真面目さを知っていてお礼は受け取らなかった。

ショパンの歌曲は全部で19曲残されたが、

17曲の中の2曲はキエフで出版され、

ショパンの死後8年後の1857 年フォンタナ編集により17曲中16曲が出版された。

その他、ポーリーヌ・ヴィアルド 自身の編曲のフランス語版『6つのマズルカ』 は

「マズルカ ニ調 作品33 第2番」が人気を得ていた。

グシマーワへの報告に戻りショパンは続けて

リンドとボーリヌのことを書いた。

 「リンドとラブラッシュもロイヤルオペラハウスに初登場している。

2週間前に彼女について書いた書簡をお送りします」なんと、ショパンは2週間前にグシマーワに送った書簡がもしかしたら届いていなかったのだ。ショパンは二回目も同じことを書いて同封すると伝えた。

「ヴィアルド夫人はあまり成功しなかった。

女王は不在で、ヴィアルドはマリオではなくフラヴィオと歌わなければならなかったので気が休まらなかった。」

ヴィアルドは弾圧に遭っていた。ショパンの歌曲を国に許可なく歌ったからだ。

予定していた女王は欠席、共演者の予定だったイタリアオペラ歌手として一番有名だったテノール歌手のマリオは二番手のフラヴィオに変更されていたのただ。

「彼女は、私がたまたま外出しているときに、ここに会いに来てくれました。」

ボーリヌとはまたもすれ違いでショパンはまた会えなかったのだ。ショパンは監視されていたのか、ボーリヌはショパンの住む建物までは来たが会わせてもらえなかった。

「しかし、日曜日には彼らに会うことになるでしょう。」ショパンは日曜日の教会の礼拝でなら会えると考えた。

「昨日、私はジェニー・リンドと食事をしました。

その後、彼女は夜中までスウェーデンの歌を歌ってくれました。この音楽は

私たちの音楽がそうであるように、スウェーデンの音楽にも独特の特徴があります。私たちにはスラブ的なものがあります。

彼らにはスカンジナビア的なものがあり、それぞれが異なっています。

しかし、私たちはイタリア人がスペイン人に近づくように、彼らに近いのです。」

ショパンはリンドと自分の音楽家としての感性は民族的に近い感覚があると感じていた。