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Okinawa 沖縄 #2 Day 128 (28/08/21) 旧喜屋武 (3) Tsukahena Hamlet 束辺名集落

2021.08.29 09:34

旧喜屋武村 束辺名 (つかへな、チケーナ)


旧喜屋武村 束辺名 (つかへな、チケーナ)

束辺名集落は明治期に上里村と合併して字束里となった。 古い記録や口碑はほとんど残っていないが、集落が現在の位置に定まるまで3回も移動したと伝わる。 集落の東側一帯が古島にあたり、多くの拝所が残っている。

束辺名集落集落単独の人口データはなく、上里集落と合併後の束里地区としてのデータが糸満市のホームページに掲載されていたのでそれを使ったのが以下のグラフ。この地区の合併の目的は、ふたつの小さい集落の運営機能の効率化にあったのだが、合併後も人口は著しく減少している。これほど過疎化が進んでいるとは深刻な事態だ。沖縄戦前夜の人口は束辺名集落が174人、上里集落は158人で、少しだけ束辺名集落の方が多かったのだが、現在は合併人口でも100人をきっている。

民家の分布地図を見ると、明治時代よりも集落が縮小していることが分かる。

束辺名集落で行われている村行事は以下の通り。

糸満市の歴史と民俗を歩く 旧喜屋武村集落ガイドマップ (2021 糸満市教育委員会) を参考に文化財をめぐる。


束辺名集落訪問ログ



先日訪れた福地集落を通り、南に進むと、前方に丘陵がある。この丘陵はこれも先日訪れた喜屋武古グスクがあった所から伸びている。この丘陵を南に越えた所が束辺名集落になる。


束辺名公民館 (サーターヤー跡)

束辺集落は小さな地域なので、まずは公民館に向かい、そこの自転車を停め、徒歩にて集落内の文化財を巡ることにする。この公民館はかつての製糖小屋 (サーターヤー) があった場所。


村屋 (ムラヤー) 跡

かつての村屋は現在の公民館の西側にあった。現在はその面影は無く、畑になっている。


仲門屋 (ナカジョーヤー) ❻

村屋の前にある林は、昔は仲門 (ナカジョー) 門中の屋敷だった場所。仲門 (ナカジョー) は按司世 (アジュー) からの旧家だと伝わる。ここにある仲門の神屋を仲門屋 (ナカジョーヤー) と呼んで祀っている。 現在はコンクリート造の神屋が建つのみで居住者はいないが、屋号 保栄茂 (ビン) が管理している。



スン殿内 (ドゥンチ) ❾

村屋の南側には束辺名集落の有力門中の屋敷が集中していた所で、かつて束辺名ノロを輩出していた旧家の屋号 徳東江 (トゥクアガリー) の屋敷がある。敷地にある民家は空き家になっていた。敷地内には神屋があり、 シュンドゥンチ、玉城のカミアシャギとも呼ばれている。神屋内を覗くと、香炉は置かれておらず、ガランとしている。何処かに移設されたのだろうか?

スン殿内 (ドゥンチ) の横の道を挟んだ所にコンクリート造りの神屋があった。この場所には昔から民家は無かったので、スン殿内 (ドゥンチ) の神屋がここに移されているのだろうか?


奥間世 (ウクマユー) ❽

スン殿内 (ドゥンチ) の南隣に束辺名集落の村立てに係る国元 (クニムトゥ) であった屋号 奥間 (ウクマ) の神屋がある。屋号 佐久間 (サクマ) の一角にあるため 佐久真のカミアシャギとも呼ばれる。 球陽外巻遺老説伝には束辺名村奥間里之子の伝説が見える。

「喜屋武間切、束辺名村の奥間里之子は一騎当千の武勇に優れた若者だった。時の王 (尚巴志と考えられる) が、与論と永良部二島の征服遠征の際にこの奥間里之子も軍に加わり、勇ましく出征することになりました。出帆の日に、その妻に子が生まれまた。子どもが生まれたお祝いのことを宇波慶 (ンバキー) と言い、弓を射る儀式があり、親戚や近所の人が沢山集まって、食事を一緒に食べ祝う習慣があった。父になった里之子も、この宇波慶 (ンバキー) を済ませて戦いに臨むことになった。敵地に到着するなり、里之子は、先陣を切り奮戦をするが、飛んで来た流れ矢に、眉間を射抜かれてしまう。里之子は、自らその矢を引き抜き、そのまま勇猛果敢に戦い続け、敵を蹴散らし武勲を立てた。凱旋して家に帰るなり、早速医者を呼び、折れた矢尻を抜き取って貰ったが、傷が深く、病が重くなり息を引き取ってしまった。里之子の遺言には、「我が一族は、決して宇波慶 (ンバキー) の飯を食べてはならない。」とあり、それ以降、子々孫々、現在に到るまで、奥間門中では決して宇波慶は食べなくなった。」

この話は沖縄では旅や渡海の際には、親戚や友人に出産があっても、立ち寄るとお互のいのためにならないという考え方がある。「死に宿は貸しても、生まれ宿は貸すな」という言葉もあり、死んだ者は徳を残すが、生まれた者はその家の徳を持っていってしまうという考え方があり、それを逸話にしたもののようだ。


前殿内 (メートゥンチ) ❺

奥間世 (ウクマユー) の西隣に屋号 保栄茂 (ビン) の屋敷があり、敷地の一角に神屋がある。保栄茂はこの集落に最初に移ってきた家で、束辺名集落の村立てに深く関わっている。保栄茂の神屋では束辺名集落の嶽元 (タキムトゥ) であった前殿内 (メートゥンチ) を祀っている。 クングヮチクニチ (九月九日) やチリタンチョーなどのムラ行事では、ここから拝みを始めることになっている。


仲新大城小 (ナカミーウーグシクグワー) の一角の拝所 ➓

奥間世 (ウクマユー) の道向かいに拝所があり、ムラ行事で拝んでいる。もともと現在地より北側にあったが道路拡張時に、当時すでに移民して空き地になっ ていた屋号 仲新大城小 (ナカミーウーグシクグワー) の敷地内にコンクリート造の祠を設えて移したという。 首里から移り住んだ人の屋敷跡だとも伝わる。


アジシー ❼

前殿内 (メートゥンチ) のすぐ西の道の脇に拝所がある。村御願所 (ムラウガンジュ) や御先世 (ウサチユー) 、按司墓 (アジバカ)とも呼ばれる拝所で、左右の琉球石灰岩の巨石の前にそれぞれ香炉があり、その後方にも1つ拝所がある。手前の2か所をムラ行事で拝んでおり、「村立てをした人が葬られている」との口承が残っている。


神道 (カミミチ) 1⃣

これら神屋や拝所がある東西に走る道は神道にあたり、ウチャタイミチと呼ばれ、かつて神人 (カミンチュ) が拝所に行く時に通った。 死者を乗せたガン (龕) はこの道を避けたという。この道を東に進むと束辺名集落の聖域であった御嶽のある場所に至る。


束辺名古島

現集落の東側、神道 (カミミチ) の南側の畑地一帯は束辺名古島遺跡で、グスク時代から近世にかけて、一部現集落と重なり、現在の集落に移る前に村があった束辺名古島にあたる。ここからは集落であった事をうかがわせる遺跡が出土している。


キサ井泉 (ガー) ③ [未訪問]

古島の南の丘陵地帯にはキサ井泉 (ガー) という井戸跡があると資料には載っていた。(写真右) 束辺名グスクの東沿いの市道に入口らしき所があったが、雑木林が生茂り中に入るのは断念した。簡易水道敷設以前はムラの主な水源であった。 石積の大規模なカーで、沖縄戦などにより一部破損しているが、ぐるりと周囲を歩けるように石造りの通路も取り付けられている。 首里から来た人が造ったという伝説が あり、束辺名のンブガー (産井泉) のひとつとされている。 現在の姿に整備されたのは近代になってからで、ンマティマ (馬手間、ムラの女性が他地域に嫁ぐときに相手から納められた金) を原資として造られたという話が残っている。 ただ、今ではこの井戸迄来て御願する人はほとんどなく、近くから遥拝されている。


前原井泉 (メーバルガー) [所在地不明]

この古島には、前原井泉 (メーバルガー) という井戸もあったそうだ。現在は所在地も不明だが、キサガーが造られるまでは集落の主な水源として使われていたという。ミーガー (メーガー) グスクやミーガー (メーガー)、キサガーなどとともに遥拝されている。



東之殿 (アガリントゥン) ❶

神道を進むと、北側の森の中への道が二つある。森の中には幾つかの拝所があり、ウマチーの時に拝まれている。奥の道を森の中に進むと開けた広場に出る。この場所が東之殿 (アガリントゥン) だ。東之御嶽 (アガリンウタキ) とも呼ばれ、ムラの旧家 保栄茂が管理している。

この広場で御願が行われるのだが、広場の奥に幾つかの拝所がある。ここが御嶽なのか、広場が御嶽なのか?この奥の拝所については書かれていない。推測では奥の一連の拝所も含めて東之御嶽 (アガリンウタキ) で、村人は広場から遥拝していたとも考えられるにではと思う。


ビンタルチーのヒートゥイ (タバコ盆) 2⃣

東之殿 (アガリントゥン) へ向かう道の途中に祠があり、その中に、中央にくぼみのある楕円体の石が祀られている。これがビンタルチーのタバコ盆だ。福地集落でこの伝承を知ったが、まさかそのタバコ盆があるとは思わなかった。この話自体がフィクションの様に思えるのだが、それに基づいたタバコ盆まであるとは、ビンタルチーはこの束辺名ではある意味で英雄なのだろう。このタバコ盆はもともとは古島の畑の中にあったものを現在地に移動したという石で、その形から剛力のタラチーメー (ビンタルチー) の妹が、兄を倒しに来た客に 出したタバコ盆 (灰皿) だという伝説が残っている。重さ138kgだそうだ。写真では大きさがわからないので、手と比較してかなり大きな盆になっている。束辺名の保栄茂門中、字喜屋武の志礼門中と新腹門中は、保栄茂タルチーの子孫だといわれている。

このビンタルチーには色々な逸話が残っている。その幾つかが:

  • 昔、束辺名に保栄茂タルチー (タラチーメー) という剛力の農夫がいた。 ある日、タルチー の噂を聞きつけた力自慢の男が、勝負をしようと首里からやってきた。その時タルチーは留守だったが、妹が出て、「兄は今よそへ行っていますが、 すぐに戻りますから煙草でも吸って待っていてください」 と石でできたタバコ盆を軽々と持ち上げて男の前に置いた。 このタバコ盆 は大人の男が数人がかりでも持ち上げられないほど重いものだったので、男は「妹でこんなに力があるなら、 タルチーにはとてもかなわない」と諦めて帰ったという。
  • 同様に勝負を挑んできた男に、弟のふりをして鉄の棒を地面に差し、「この棒が抜けないようなら兄とは勝負にならない」 と諭して帰らせた。
  • 鬼は村の娘にタルチーの家を訪ねた、娘は驚いたふうもなく、鬼の金棒を手にして地中深く突き刺した。鬼は金棒を抜こうとしたがどうしても抜けなかった。すると娘が「タルチーは、私の兄さんですよ」と言って、金棒をヒョイと引き抜いた。これにはさすがに赤鬼も青くなって逃げかえったという。
  • 牛の4本の足をつかんで、ざぶざぶと水に浸けて洗った
  • やんばる船が木材を満載し近くにの港に寄港した。法外な値段で、タルチーは船主に対し全部買うのでと値引き交渉をしたが船主はそれを断った。怒ったタルチーは木材を満載したやんばる船を浜へ引き上げた。船員で海へ戻そうとするも微動だせずどうすることもできなかった。船主は仕方なくタルチーへ海へ戻すよう頼み、タルチーは値引きを条件に船を海に戻した



ニービヌカン ❹

ビンタルチーのタバコ盆の背後に琉球石灰岩の前に石組みの祠がある。ムラの先祖が最初に住んだといわれる場所で、この拝所はニービヌカンと呼ばれ、かつてのムラの根人 (ニーッチュ) の火の神 (ヒヌカン) と伝わっている。

拝所のある琉球石灰岩の裏側にも香炉が置かれて拝所になっている。ここもニービヌカンの拝所なのか、それとも別の拝所なのだろうか?


ニービヌ井泉 (カー) ①

ニービヌカンに向かって右手にニービヌ井泉 (カー) と言う井泉があり、現在水はないが、 かつてはカミガー、ギーチャーガーなどとも呼ばれ、ムラに最初に入ってきたといわれている保栄茂 (ビン) の祖先が使っていたという。


中之殿 (ナカントゥン) ❷

東之殿 (アガリントゥン) と西之殿 (イリーントゥン) を結ぶ小径の途中に中之殿 (ナカントゥン) がある。佐久真門中が拝む拝所で、佐久真の殿 (サクマヌトゥン) とも呼ばれている。


西之殿 (イリーントゥン) ❸

聖域内で最も西には西之殿 (イリーントゥン) がある。ここには神道から森の中に通じる最初の道と東之殿 (アガリントゥン) から中之殿 (ナカントゥン) を経由しての小径を通って行く道がある。石畳の道から石畳の階段を登った所が広場になっており、そこに香炉が置かれた幾つかの拝所がある。この広場全体が西之殿 (イリーントゥン) となっている。ノロ之殿 (ヌルヌトゥン)、 シュン殿内の殿 (シュンドゥンチヌトゥン) などとも呼ばれていることから、ノロと関係がある殿と考えられている。もともとはノロを出す屋号 徳東江 (トゥクアガリー) の拝所と伝わっている。ウマチーでは最後に拝まれている。


ミーガー (メーガー) グスク (束辺名グスク)

束辺名グスクは、上里グスクから丘陵つづきの西方およそ550mの所、標高72mにある。北は断崖を背に南側は平地に接している。城下村の束辺名集落 (束辺名古島) がグスクの北側断崖下の平地に位置している。地元ではミーガーグスク (メーガ―グスク) と呼ばれている。グスクの規模は東西22m、南北十数m程の非常に小さい単郭グスクだったと推測されている。グスクは農地開発等で破壊されて、当時の様子は一部しか残っていない。 戦前はグスクまで行き御願していたが、近年はグスク外から村行事として遙拝している。

この束辺名グスクの詳細は不明だが、束辺名按司の居城であったという伝承が残っている。この地域は三山時代には上里按司の勢力下にあり、上里按司の居城であった上里グスクの支城と考えられている。束辺名按司は上里按司の娘婿で上里按司とともに朝鮮へ亡命したという伝承もある。(後日、上里按司の居城の上里グスクを訪れる。異説として南山王となった温沙道 [ウフサト] は中山王の武寧に攻められ上里グスクに逃れ、その後、朝鮮に亡命したとある。上里按司が温沙道という説もある。) 上里按司とともに朝鮮へ亡命したのが1398年で、この時に上里グスクと共にこの束辺名グスクや當間グスクも落城している。その後、このグスクがどうなったのかは不明。

このグスクには二年前に来たのだが、グスク跡への入口が見つからず、グスク内は見れなかった。今回は色々な資料を参照し、その中には訪れた記事もあり、入口は確認できた。集落からグスクへはメーガー道と呼ばれた古道があり、グスクへ入る所が坂になっており、メーガー (ミーガー) 坂 (ビラ) とも呼ばれている。グスクの東側に琉球石灰岩丘陵を掘り切って現在の市道が開通するまでは (1819年の地図ではまだ存在していない)、この古道が三山時代には丘陵上の集落と下の集落との唯一の道路だった。 束辺名集落からのグスクへの城道はこの古道が使用されていたのだろう。このメーガー道は断層崖の隙間を利用しており、道をグスクの中に取り込み、南側に抜けるという構造になっていた。このメーガー道を通りグスクに向かうが、途中で木々が前進を阻む。このメーガー道は現在では使われていないので、仕方ないだろう。強引に雑木林の中に入るが、前が見えないほど、木々が密集しており、残念だが、これ以上中に入る事を断念した。資料では、このメーガー道沿い石垣が残っているそうだ。この石垣には馬面が置かれ、敵対する集団 (北には摩文仁間切の勢力があった) が北の方から進攻し、この道から攻めてきた際はそこから矢を射る事が出来る。この道を守っていたのがこの束辺名グスクで、交通の要所として関所の様な役割をしていたと思われる。


メーガー (ミーガー) ⑤ [未訪問]

古道のメーガ 一道のグスクの入口付近にメーガーと呼ばれる井泉があるそうだが、メーガ 一道を進む事が出来ず、この井戸跡も見つけることは出来なかった。(ここを運良く訪問できた人のブログに写真が載っていた。下記) この井戸の名が古道の道となったそうだ。水がきれいで飲料水源でもあっ た。山に降った雨水が流れてきて溜まるようになっていた。


ミ-ガ-ゴー ⓬ [未訪問]

メーガー (ミーガー) の近くには古い時代の人骨が祀られているという拝所があるそうだが、ここにも近づく事が出来ず探す事も出来なかった。(資料にも写真は載っていない) 戦前までは現地へ行って拝んでいたが、近年は道もなくなり、遥拝しているそうだ。



メーガー道が進めなかったので、北側からグスクに向かう事にする。メーガー道がグスク内に入り、北側に抜けているが、その北側の道があった場所に農道がある。ほぼ以前の古道のルートに一致している様に思える。残念ながら、この道もグスクへは深い藪で中に入るがほとんどジャングル状態でグスク内に進むことは断念した。

南側の古道に向かう際、グスク跡の東沿いに後世に造られた市道を通る。道の両脇が崖になっており、ここが切通しで造られているのがよく分かる。この崖の斜面に洞窟があった。内部は人工的に掘られた様子なので沖縄戦で住民の避難壕として使われていたのだろう。

洞窟の写真を撮るために自転車を停めると、ミラーの下に平御香が置かれているのに気が付いた。この場所でグスクやミ-ガ-ゴー (メーガーゴー) を遥拝しているのだと思う。

この束辺名グスクを舞台とした組踊に「束辺名夜討」というものがある。組踊に多くある仇討ち物で、束辺名按司は悪役と設定されている。何かの伝承に基づくのか、全くのフィクションなのかは分からない。

  • 兼城按司の家臣で若按司の守役の高良の比屋が御用木切り出しで大宜見へ行っている間に主君である兼城按司は束辺名勢の夜襲を受け火攻めされ夫人と共に最後を遂げる。若按司は城を逃れ知名の比屋に匿われる。そこへ家臣の高良の比屋が訪れ束辺名の追手から逃れるため若按司を連れて逃げる。束辺名の追手は若按司が逃げたので知名の比屋を捕らえる。知名の比屋の長子亀千代は父が捕らえられたことを高良の比屋に伝える。亀千代は父を助けるため束辺名城へ行き、若按司は津堅島に隠れていると告げ父を救い出す。知名の比屋親子の内通を得た高良の比屋と若按司は束辺名で酒宴を開いている処に夜襲をかけ親の仇を討つ。


當間城 (トーマグスク)

束辺名にはもう一つグスク跡がある。束辺名グスクから丘陵つづきの南西およそ350mの所、標高62mに當間城 (トーマグスク) がある。當間グスクは、北と東西の三方は断崖となっているが、現在は周囲は畑地でグスクのある一角だけが森として残っている。このグスクも束辺名グスクと同様に、上里グスクの支城ではないかと推測されている。當間城 (トーマグスク) の北東には丘陵を越える當間坂 (ビラ) が通っている。現在は幅広の立派な舗装道路になっているが、戦前迄は道幅約1~2mの細い道だった。この當山グスクも束辺名グスクと同様に、丘陵を越える古道の當間ビラの通行の監視、防備の役割だったと思われる。

この當間グスクは束辺名按司が築いたとされている。当時の城主は朝鮮人で、後年朝鮮に帰ったという伝説がある。束辺名集落で拝んでいるので、束辺名集落、束辺名グスクとの関係が深いことが推察できる。束辺名按司の母親は朝鮮人と伝わっているので、城主の朝鮮人は束辺名按司の母親と関係ある人物化もしれない。朝鮮人の城主がいつの時代の事かは書かれていないが、14世紀末ではないかと思える。この地を治めていた上里按司が温沙道 (ウフサト) と共に朝鮮に亡命した際 (1398年) に、この朝鮮人の城主が手引きをして、ともに朝鮮に帰ったという可能性はないだろうか?これはあくまでの個人的な想像だが。

グスクの東北東側の崖には石垣が崩落した箇所がある。ここから攀じ登り城内に入るが、ここも雑木林が深く、当時のグスクの様子はわからない。調査では城の規模は南北約50m、東西の幅が広いところで約40mだそうだ。ここはおそらくグスクの南西の端にあった馬面の一つと思える。馬面石垣の上には女牆の柵を設け、防御に備えていた。この付近の櫓台跡にはグスク沖縄戦で蛸壺が掘られていたそうだ。虎口はこの二つの馬面の間にあり、敵兵が虎口に殺到すると馬面の上から矢を射る様な縄張りになっている。當間グスクのー角には當間井 (ガー) があったそうだ。グスク時代からのものかは書かれていないが。 簡易水道敷設以前は集落住民の飲料水源としても使用された。現在は埋められてしまったそうだ。

グスクの上は所々空間は見えるが、これ以上中には進めなかった。ここにはさらに高い岩が聳えている。物見台ではなかったかと思われる。

グスクの上からは東シナ海が臨める。


防疫給水部隊の壕/ウマウトゥシー

束辺名グスクから當間グスクへの道の脇に雑木林への入口があり、そこには沖縄戦の戦跡として、防疫給水部隊の壕 (ウマウトゥシー) がある。9m近くの深さがある縦長の壕で、沖縄戦では浄水の確保や伝染病や病原菌対策などの任務にあたっていた第27野戦防疫給水部隊により使用されていた。入口から入ったのだが木々が深く中まで行くのは危険と思い壕迄は行けなかった。(写真下の三枚はインターネットに出ていた壕の写真)

捕虜を使った人体実験や細菌兵器の研究も同時に行っていたという話もあるが、これは第27野戦防疫給水部隊が満州で細菌兵器研究製造の為に中国人やロシア人捕虜を人体実験としていた731部隊も関東軍防疫給水部であった事から、その様な噂が出たのではないかと思う。第27野戦防疫給水部隊は、一日橋や識名に配備されていたが、首里の司令部陥落に伴い、5月18日に束辺名に移動して、負傷兵の救護にあたったが、6月22日に米軍の攻撃を受け、翌日に部隊は全滅。約一ヶ月しかここにいない。沖縄を人体実験の場にするには、満州に科学者を集結しているのに、あえてここに分散して研究所をつくる意味は無い。沖縄には捕虜が存在していなかったので人体実験自体行う事は不可能だった。この壕に移って来たのは首里陥落後で研究をする様な設備も余裕も無かった。以上から単なる噂と思える。壕の入り口には、遺族が建てた慰霊碑が残っている。


その他

資料にはなかった拝所が集落内にあった。道端にあった拝所。最初はマジムン (魔物) 除けの変わり種石敢當と思っていたが、よく見ると香炉がある。細長い石には判読不能の文字が刻まれている様でもある。測量基準点に置かれた印部石(しるべいし) の様にも見える。何かはわからないが、拝所だ。

集落内には多くの空き地が目立っていた。前日訪れた喜屋武集落と同じように、空き地には神屋が建てられ祖先が祀られている。ここはかなり広く、有力門中の屋敷跡なのだろう。神屋の奥には小さな祠もあった。

今日はこの束辺名の二つのグスクの見学を楽しみにして、かなり下調べをしたのだが、ジャングル化して中深くには入れなかった。残念だが、束辺名はかなり過疎化が進み、集落の全ての文化財を維持する事は難しくなったいる。その為、代わりに遥拝所で御願を行う。そうすると、ますます現地は手が入らなくなると言った感じだ。この拝所は村単位で御願されており、それも昔から集落に住んでいる人に限られている。行政は文化財とは見ているものの、その管理は村で行なっている。支援金などはほとんど無いだろう。文化財保護は村人の熱意に依存している。これほどまでに過疎化が進んでいる束辺名集落住民だけでは限界がある。


二つのグスクの内部探索の時間が浮いたので、次回訪問を予定している上里集落の文化財の一部を訪問する。訪問レポートは次回、上里集落時に含めることにする。


参考文献

  • 糸満市の歴史と民俗を歩く 旧喜屋武村集落ガイドマップ (2021 糸満市教育委員会)
  • 沖縄県立博物館紀要 第24号 1-28, 沖縄南部旧喜屋武間切のグスク群について (1998 當眞嗣一)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 琉球王国の真実 : 琉球三山戦国時代の謎を解く (2013 伊敷賢著)