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Okinawa 沖縄 #2 Day 129 (01/09/21) 旧喜屋武 (4) Uesato Hamlet 上里集落

2021.09.02 05:13

旧喜屋武村 上里集落 (うえさと、ウィーザトゥ)


旧喜屋武村 上里集落 (うえさと、ウィーザトゥ)

琉球王国時代は喜屋武間切内の五村の一つだった。明治時代以降は間切は喜屋武村のとばりその中の字となっていたが、沖縄戦後、喜屋武村、摩文仁村、真壁村が合併し三和村となるが、わずか15年で、1961年に糸満町に合併し、その時に束辺名と上里が合併して束里地区となり、現在に至っている。しかしながら、上里と束辺名は以前同様に独立した公民館があり、別々に村運営がされている様に思えた。これは沖縄共通の事象で、沖縄においては部落の存在が非常に大きい。村の慣習が集落住民の生活の基盤で、行政も少しやり難いところだ。

上里集落集落単独の人口データはなく、束辺名集落と合併後の束里地区としてのデータしか無く、それをグラフにしたのが下にある。合併後も人口は著しく減少している。これほど過疎化が進んでいるとは深刻な事態だ。沖縄戦前夜の人口は束辺名集落が174人、上里集落は158人で、少しだけ束辺名集落の方が多かったのだが、現在は合併人口でも100人をきっている。

民家の分布地図を見ると、明治時代以降、集落は殆ど変化が無いが、集落内は空き地が多く、過疎化が進んでいる事があらわれている。上里集落を含め、旧喜屋武村全域が市街地調整区域になっている事が大きな影響を与えている。農業振興地域で坪単価7000円 (喜屋武は2万円)、集落内緩和区域内は坪単価4.5万円程 (喜屋武集落は9万円) で、殆ど土地売買は無いのが実情だ。市街地調整区域になった事で、民間デベロッパーにとっては魅力が無く、集合団地計画もなく、商業施設も考えられていない。行政も開発計画の対象外にしインフラ整備も行われていない、検討すらされていないのでは無いだろうか?土地所有者は市街地調整区域が解除されるまでは、土地の売却には非常に消極的なっている。住民は益々過疎化が進む事に不安が広がっている。

上里集落で行われている村行事は以下の通り。

糸満市の歴史と民俗を歩く 旧喜屋武村集落ガイドマップ (2021 糸満市教育委員会) を参考に文化財をめぐる。


上里集落訪問ログ



豊井泉 (ユタカガー) ③

束辺名集落から上里集落に向かう市道福地上里線沿いに三つの井泉跡がある。農業用水給水所の奥にあり、 コンクリート造の屋根には1953年 (昭和28年) に完成したことが刻まれている。 背後の山から流れてくる水を溜めたカーで、手前には沖縄戦時の艦砲射撃でできた溜池 (クムイ) が残る。 


産井泉 (ンブガー) ② [9月4日訪問]

豊井泉 (ユタカガー) の北側に上里の産井泉 (ンブガー) があるのだが、位置関係を誤り、南側を探し、見つからないと思っていた。後で確認して、逆方向にある事がわかった。9月4日に山城集落を訪問した際に再訪した。国営かんがい排水事業で造られた地下水をくみ上げ貯水する上里ファームポンドの前にこの井泉があった。現在はコンクリートで整備され、階段をを降りた所に水場があるとなっている。



神井泉 (カミガー) ④

豊井泉 (ユタカガー) の道向かいの一段低くなった場所にあり、古井泉 (フルガー)とも呼ばれている。現在、水は溜まっていないが、 大規模な石積の窪みが残っている。いつ頃からある井泉なのかは書かれていないが、古井泉 (フルガー) と呼ばれるぐらいなので、昔からあった井戸だろう。


製糖小屋 (サーターヤー) 跡

三つの井戸跡から集落に向かい、ちょうど集落の西の外側にある畑が、かつて製糖小屋 (サーターヤー) があった場所。


上里公民館公民 (サーターヤー跡)

三つの井戸跡から、集落に入る。上里公民館に自転車を停めて、集落内の文化財を巡る。ここもかつての製糖小屋 (サーターヤー) だった。公民館の広場の片隅に恒例の酸素ボンベの鐘が吊るされていた。ここの酸素ボンベは今まで見た中で一番大きい。


公民館隣のアジシー ➓

公民館の前の広場の南側に大和人 (ヤマトゥンチュー) の墓とされているアジシーがある。誰が葬られているのかは不明。村御願 (ムラウグヮン) では公民館の駐車場南端より、ここを含め南部にあるいくつかの拝所を遥拝している。幾つかの集落で、ここと同じ様な大和人 (ヤマトゥンチュー) の墓を見る事がある。当時はに大和人 (ヤマトゥンチュー) は村人にとって特別な存在だったのだろうか?


公民館南方のアジシー / アガリン壕 ⓫

更に南にももう一つ古墓のアジシーがある。ここでも大和人 (ヤマトゥンチュー) の骨が祀られていたという。この場所には沖縄戦で上里の人々が避難したアガリン壕というガマもあった。(写真右下)


謝名 (ジャナ) の屋敷跡 ❽

公民館の西側は空き地になっているのだが、かつては謝名 (ジャナ) の屋敷であった。村御願 (ムラウグヮン) などの時に拝まれている。 


チブラー山 (ヤマ) ❾

公民館の北側に雑木林があり、その中にかつては古い時代の人骨が多く見られたというアジシー (遠祖を祀った墓) があるそうだが、草で覆われ中に入る道は見つからなかった。 村御願 (ムラウグヮン) で拝んでいるそうだ。


夫婦井泉 (ミートゥガー) ①

チブラー山 (ヤマ) の東、アシビモーの南にコンクリート張りになっている夫婦井泉 (ミートゥガー) がある。村御願 (ムラウグヮン) などで拝む。 詳細は不明。


遊び毛 (アシビモー) 1⃣ / 村元 (ムラムトゥ) ❻

夫婦井泉 (ミートゥガー) の北、村屋 (ムラヤー) 跡の南側に広場がある。ここは集落の遊び毛 (アシビモー) だった。ここでは十五夜 (ジューグヤー) の綱引きなど多くのムラ行事が行われた。また若者たちが夜に集まって語らい、 歌三味線に合わせて歌ったり、踊ったりしたモーアシビー (モー遊び) もここで行われたという。遊び毛 (アシビモー) の一角に村元 (ムラムトゥ) の拝所 (写真右下) があり、上里屋 (ウフザトゥヤー) とも呼ばれている。かつて上里で行われていた八月遊びのブーマー踊りを伝え、ムラのために尽くした人を祀ってあるといわれている。 この拝所の西隣には同じような神屋が置かれている。こちらは上里の村元 (ムラムトゥ) であった上良小 (ワーラグワー) が管理している拝所 (写真左下) だそうだ。 


村屋 (ムラヤー) 跡

遊び毛 (アシビモー) の北側がかつての村屋 (ムラヤー) があった場所で、アシビモーから通路があるのだが、雑木林の様になっている。


新屋 (ミーヤ) ❺

村元 (ムラムトゥ) の西側の畑の中に新屋 (ミーヤ) の拝所がある。先程訪れた屋号 謝名 (ジャナ) から香炉を移したという神屋で、謝名 (ジャナ ) とも呼ばれている。村御願 (ムラウグヮン) で拝んでいる。

新屋 (ミーヤ) の神屋の裏に石畳道があり、奥は広場になり、石積みの片隅に香炉が置かれていた。新屋 (ミーヤ) と関係がある場所なのだろうか? 屋敷跡の様にも見える。


上良小 (ワーラグワー) の神屋 ❼

遊び毛 (アシビモー) の西側には上里の村元 (ムラムトゥ) といわれる屋号 上良小 (ワーラグワー) がある。先程、遊び毛 (アシビモー) に二つの拝所があった門中だ。現在は立派な大きな邸宅が建っており、その庭の一角に神屋がある。同家はかつて集落東にあった崎村の旧家の崎 (サキ) の長男筋で、山城集落の仲門 (ナカジョー)、小波蔵集落の玉井 (タマイ) と兄弟だといわれている。(後日訪れた山城集落にこの三兄弟所縁の場所があった。)


上江 (ウィー) の神屋 ❸ / アサゲ ❹

次は集落から北東にある上里 (ウィーザトゥ) グスクに向かう道の途中に幾つかの拝所がある。その一つが上里の国元 (クニムトゥ) といわれる上江 (ウィー) 門中の本家である上江の神屋があり、門中がウマチーなどで拝んでいる。上江 (ウィー) 門中はこの北側にあった上里グスクの城主の上里按司の重臣だった。2016年 (平成28年) に、もともとはこの東隣にあったアサゲと棟続きに立て替えられ、神屋内には二つの祭壇があり、左が上江の神屋、右がアサゲとなっている。アサゲはノロを出す家であった上江 (ウィー) 門中の分家の上江小 (ウィーグヮー) で、その神屋をアサゲと呼んでいる。 もともとは屋号 上江小 (ウィーグヮー) の屋敷内のアサゲにあった香炉を現在地に移している。 村御願 (ムラウグヮン) ではここを一番最初に拝むことになっている。


上村渠 (ウィンダカリ) ❷

この場所にはもう一つ拝所がある。上江 (ウィー) 門中の管理する分家筋の上村渠 (ウィンダカリ) 神屋で、古い時代に現在地より高いムラ (ウィーゲスクと思われる) で暮らした祖先を祀ったものだという。 琉球国由来記の神アシァゲではないかと考えられている。


上里 (ウィー) グスク / 山城 (ヤマグスク) グスク

上里グスクは三山時代に南山の支城として上里按司によって築かれたと伝わっている。一説では、このグスクの城主は温沙道 (オンサドー) であったともいう。この温沙道は「李朝・太祖実録」に出てくる名前で琉球国の文献には見られない。李氏朝鮮国建国時の李成桂 (イ・ソンゲ 太祖) の時代に「1398年2月に南山王であった温沙道なる人物が、その国の中山王におわれ、その部下を15人率いて朝鮮に亡命して来て、晋陽に来て住んでいる。国家、年ごとに衣食を与えた。ここにいたり、国を失い、流離しているのを思い、衣服・米などを下賜し、これを救済したと記録されている。また、4月16日と閏5月21日、二回ほど、初代国王の李成桂に参上し、その年の10月に朝鮮で死去したとも記録されいる。温沙道に係わる文献はこれのみ。

少し年月がさかのぼるが、同じ「李朝実録」に1394年に中山王の察度が「逃亡中の山南王子である承察度を引き渡すように依頼してきた」とある。引き渡しがされたのかどうかは記録にはない。さらに、これより二年後の1396年には、山南王 承察度が使者や官生を中国に派遣しているとの記録がある。この資料から、承察度は琉球に戻り南山王になったとも考えられている。

以上の事から、色々な仮説が議論されている。色々な文献を読んでみると、どれも説得力があまりないように思えた。その中で、個人的には次のようなシナリオではなかったかと思える。

  • 先代の南山王の承察度が1393年に死去した後、南山王の後継者争いが起こる。世子である承察度王子と死去した父親の承察度 (長男) の弟 (四男) である上大里按司 (温沙道) が王位を争い、承察度王子は敗れて、朝鮮に亡命し、上大里按司 (温砂道) が南山王に就く。
  • 1394年、中山王の察度が李氏朝鮮国王の李成桂に承察度王子の引き渡しを依頼し、承察度王子は琉球に帰国し、察度の後ろ盾で南山王となる。この時に南山王であった上大里按司 (温沙道) は中山王と当時南山の東半分で勢力を伸ばしていた汪英紫に対抗できず、上里に逃走し、そこで上里グスクを整備して再起に向け喜屋武で体制を立て直す。ここを治めたと言われる上里按司は温沙道と同一人物と考えられている。南山に対しての防備ラインとして、束辺名グスク、當間グスク、佐慶グスクを再構築した。
  • 一方、南山国で新たに即位した承察度王子 (承察度) は中山の傀儡政権で基盤が弱く、温沙道とも緊張関係にあり不安定な状況。そうこうするうち、承察度王子 (承察度) の後ろ盾であった中山王 察度が1395年に死去し、武寧王に引き継がれる。この政治的な混乱期に、汪英紫は南山国重臣を取り込み、一気に南山全体を支配下に置く行動に出る。1398年に武寧との連合軍で、温沙道の喜屋武軍を打ち破り、温沙道は朝鮮に亡命。南山王の承察度王子 (承察度) を追放し、南山国の実質的な支配者になった。

当時の琉球を知る一つの情報は明と朝鮮の文献があるが、琉球が明と朝鮮への朝貢の状況がわかる。朝貢がある年は、国王がいた可能性が高く。朝貢がない時期は何かの理由でその余裕がないか、それを阻害する何かがあったと考えられる。先代の承察度が1393年に亡くなった後も、南山国として1394年と1396年の明への朝貢が行われている。南山王が承察度として行ったものと考えられる。とすれば、1394年は温沙道、1396年は承察度王子 (承察度) が派遣したのではないだろうか?興味深いのは洪武帝後期は南山王としての朝貢よりも王叔として汪英紫による朝貢の方が多くなっている。この時期の南山王の力が衰え、汪英紫が台頭してきているのがわかる。1398年から数年間は朝貢の空白時期が見えてくる。明の洪武帝の後を継いだ建文帝の時代は後継者争いで、建文帝と次の皇帝となった永楽帝の争いの靖難の役 (1399年 – 1402年) で明国内が混乱をしていた時代で、朝貢を受け入れるどころではなかった。ちょうどこの時期は南山国も後継ぎ問題で混乱期でもあった。1398年は承察度王子 (承察度) の追放、温沙道亡命の年で、南山国が最も混乱していた年だろう。中山はこの年にも朝貢しているが、南山は混乱で朝貢の余裕がなかったのではないだろうか?

この時代は本土では足利義満の時代で文献も本土でも少なく、ましてや琉球の文献は僅かしかない。それで、確かなことは判らず、色々な系図が考えられている。沖縄の歴史として一般的に教えられているのは、シンプルなもので、南山は承察度ー汪応祖ー他魯毎の三代の王国か、承察度と汪応祖の間にもう一人の承察度か汪英紫を入れて四代の王国だったとかだ。温沙道は1393年に朝鮮に亡命した承察度王子と同一人物とする説もある。これには個人的に疑問がある。1393年と1398年の二度にわたって亡命の理由が不明確で、単に承察度と温沙道の読みが告示しているので同一人物の当て字が変わっただけとする安易な説と思える。承察度にしても温沙道にしても、琉球では名前ではなく敬称とか役職で呼ぶことが多く、それを聞いた明や朝鮮の人がその音に近い感じを当てただけと思われる。別人でも何代にもわたって同じ役職名で呼ばれることが普通だ。

「琉球王国の真実」には異なった系図が載っていた。これが史実に一番近いように思える。

上里グスクは崖上の3つの郭からなり、その崖下にある山城グスクは、調査の結果、この二つのグスクは一体化した大規模なグスクと判明している。地元では上里グスクを上 (ウィー) グスク、山城グスクを下 (シチャ) グスクと呼んでいる。上里グスクは崖上を利用しながら琉球石灰岩の自然石を巧みに積み上げて築かれており、山城グスクのグスクは断層活動によってできた石灰岩の巨石群を上手く利用しながら築かれている。温沙道の居城と考えられており、温沙道の重臣だった上江 (ウィー)、 謝名 (ジャナ) などの子孫の門中が御嶽 (ウタキ) として拝んでおり、イビや各門中の殿 (トゥン) など、 複数の拝所がグスク内に点在しているそうだ。 

上里グスクへは丘陵の南側にある平地部にある上里集落の上江 (ウィー) の神屋 / アサゲ / 上村渠 (ウィンダカリ) の傍の道から森の中に進んで向かう。今は御願の時期では無いのか、道は草が生え放題で、腰まで伸びた草をかき分けて進む。奥に進むにつれて道は歩きやすくなってくる。

奥に石垣跡が見えて来た。グスクへの入口の虎口がある。ここがグスクへのメインゲートにあたる。

この虎口からグスクを取り囲む石垣が残っている。この虎口を守るために、両脇には三の郭の馬面跡がある。向かって右の馬面には崩れてはいるが、はっきりと石垣跡が残っている。(写真右上) 向かって左側の高さ5mの馬面はその形まではっきりと残っている。(写真中、下)

虎口を入ると広場になっている。ここが三の郭にあたる。広場には拝所 (写真左下、右下) がある。

三の郭の内側からも石垣跡を見る事が出来る。

三の郭は上里按司の住居が置かれていたと考えられており、その場所は三の郭の一段高くなった所にあり、石垣で囲まれている。

三の郭の西側には一の郭 (本丸) があるのだが雑木林が深く、一の郭の中に入る事は出来ず、三の郭から一の郭への通路迄で断念した。一の郭のさらに西側には二の郭が存在していた。

三の郭の東端には虎口があり、そこから崖下にある山城 (下) グスクの通路があったのだが、今はジャングルになっており、山城グスクには行けない。

この東端の虎口への道があるのだが、そこはドコモの中継局になり金網で柵が作られて虎口迄は行けなかった。

山城 (下) グスクは全く整備されておらず、グスクへの道もなく、雑木林が深く敢えて中に入る事は断念した。グスクの北に走る道路から見ると、グスクの最北端にある物見台の石垣跡を見る事が出来た。


ホーヤー岩 (ブリ) ⓬

上里集落から外れた南には、かつて、ホーヤーブリという岩に掘り込まれていたというアジシーがあったそうだ。現在は糸豊環境美化センター (ゴミ処理施設) の敷地内に移動され、小さな祠を立て祀られている。

糸豊環境美化センター入り口の外側にも小さな祠の拝所があった。


荒崎 (アラサチ) 海岸

旧上里地区は南の海岸まで伸びていた。糸豊環境美化センターから南には殆ど民家は見当たらず、一面畑になっている。荒崎海岸に向かう途中、工事現場があった。通常の工事と思っていて通り過ぎようとした時に看板が目に留まった。不発弾を探している現場だった。沖縄ではニュースで不発弾処理の報道をよく見かける。

まもなく舗装道路が途切れ、砂利道に変わる。通常の砂利道ではなく琉球石灰岩を砕いたもので、時に鋭くなっている石も混じっている。自転車での走行はパンクの危険があるので (何回かこのような道を走りパンクしている) 降りて自転車を押して歩く。荒崎海岸の入り口のバスの停留所に着く。そこに自転車を停め海岸に向かう。

荒崎海岸一帯は隆起サンゴ礁 (琉球石灰岩) から成り、高さ約7mの海岸段丘崖が東西に形成されている。荒崎は沖縄方言ではアラサチといい、「アラ神 (海神) が降り立つ崎 (先)」の意味だそうだ。この荒崎海岸の前に広がる海に東シナ海と太平洋の境界線がある。最も印があるわけでないので、正確にどこが境界線かは分からない。崖の上一帯には草が生え、一見野原の様に見えるが、岩場に草が生えている。沖縄でも独特の風景だ。


ひめゆり学徒散華の跡

荒崎海岸の崖の上にひめゆり学徒散華の跡がある。荒崎・喜屋武岬一帯は、沖縄戦末期で数万人の日本軍・住民が最期を遂げた地だ。戦場を彷徨い、とうとう逃げ場がなくなり、ひめゆり学徒隊の9名と引率の教頭が手榴弾で自決した場所。ここは沖縄本島の南の端で、高い崖の下が海になる。崖の上も殆どが尖った岩場で、足場が悪い。裸足では歩く事ができない。普通の靴でも直ぐに破れてしまいそうな岩場だ。かつて学徒や住民がここを彷徨った事を想像すると、殆ど絶望感が漂っていた事がわかる。今は平和な世の中になり、サーファーが集う観光地になっている。たった数十年の違いでこれほど運命が変わるのだ。


荒崎岬

荒崎海岸から自転車でゆっくりと西に15分ほど行った所が荒崎岬で、沖縄本島最南端にあたる。先程訪れた荒崎海岸と同じような地形になっている。釣り人が二人いたが、それ以外に観光客はいない。ここへの道は未舗装で、でこぼこの砂利道、普通車が一台が通れる幅しか無いので、自動車で来るのは大変な場所。砂浜もなく、切り立った崖の海岸で海水浴はできない。海岸線は崖になっており、その下側は侵食され、上部がヒサシの様なノッチになっている。(写真中左)

崖には大きく内陸に入り込んだ所があった。垂直の崖の下にロープで降りれる様になっている。いつもなら、この様ばロープを見るとどうしても降りたくなるのだが、今日はここが最終訪問地で、これまでにエネルギーを使い果たしてしまい、もう降りる気力が無い。このロープはサーファーがつけたのか?住民がつけたのか?住民がつけたのであれば、この崖の下には拝所があるかも知れない。後でインターネットで調べたが、その様な記事は無かった。

西側崖の先に先日訪れた喜屋武岬が見える。沖縄戦では、あの崖上から身を投げ、自ら命を絶った住民が多くいた。


カサカンジャー

崖上の平地の真ん中に長さ4m、厚さ1.5mのカサカンジャーと言われる大岩がある。カサカンジャーとは笠かぶりという意味だそうだ。たしかに岩の上に大岩が笠の様に乗っている。不思議な形だ。琉球王正史の球陽によれば、1832年の台風襲来時に津波で海岸に3つの岩塊が打ち上げられたと記され、この岩がそのひとつと言われる。この岩をドルメンとも考える研究者もいるそうだが、それにしては拝所にはなっておらず、御願の対象になっていないのでこの説には疑問がある。最近の研究では、4700年前~ 3700年前に、琉球石灰岩の海食崖に発達したノッチ (波食窪) の上半部が剥離し、津波で移動したものと推測されている。これが最も事実に近いとされているのだが、そうであれば、球陽に、わざわざ詳しくこの岩の事を書く意味が理解できない。背後には何かまだわかっていない事があるに違いない。



これで旧喜屋武村の四つ目の集落の上里集落巡りは終了。次回は最後の集落の山城集落を予定している。


参考文献

  • 糸満市の歴史と民俗を歩く 旧喜屋武村集落ガイドマップ (2021 糸満市教育委員会)
  • 沖縄県立博物館紀要 第24号 1-28, 沖縄南部旧喜屋武間切のグスク群について (1998 當眞嗣一)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 琉球王国の真実 : 琉球三山戦国時代の謎を解く (2013 伊敷賢著)
  • 割據時代の琉球 十四世紀七十年代から十五世紀 (2005 孫薇)
  • 沖縄「韓国レポート」(宮里一夫)
  • 考古学からみた琉球史(上)―古琉球世界の形成―