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神を捨てる

2017.02.12 07:27

1月15日

マルコによる福音書14章66節 - 72節

「わたしは何者なのか」。わたし達は、その答えを持っている。自分だけが知る正しい答えを持っていると思っている。

ペテロは、主イエスに「あなたは今晩、わたしを知らないと言う」と言われる。ペテロは激しく否定する「それはわたしではない」と。「わたしはどこまでも主に従って行くものだ」と。

主イエスが捕らえられ裁判にかけられる。その様子を見守っていたペテロに「あなたはイエスの弟子だ」と言うものが現れた。ペテロは「それはわたしではない」と答える。自分は一体何者なのか。自分自身でも自分のことを分かっていない。それがわたし達ではないのか。ならば、私たちはどうやって「自分」を知ることができるようになるのか。

マルコ福音書の前半にガリラヤの主の活動は病の癒し、空腹なものへの給食、死者の復活等、発生した問題に対しての解決であった。問題が発生した「現在」に主が駆けつけて解決する。後からやってくる主の働きであった。それがエルサレムに入ると、主の言葉はこれから起こることについて、「未来」についての言及に変わる。ペテロの離反もすでに主に指摘されていたこと。

マルコ福音書において主イエスは「後」から駆けつけ、そして「先」にも進んでいる。すでに起こってしまったことは手遅れではない。これから犯すわたしの過ちに神は驚きかもしれない。

わたしはどうやって自分を知ることができるのか。ペテロの事例は示している。人の力では自分を知ることは出来ない。分からない自分ではあるが、その自分に駆けつけ、先立って進み、わたしの備えをしてくださる方がいる。わたしは何者か。神はまるまる包まれているもの。自分が何者であるか分からずとも、神はわたしを守っていることは分からなければならない事柄。知るべきはわたしではなく、神。それが、わたしを知ること。