偉人『マザー・テレサ』
1997年ノーベル平和賞を彼女が受賞してから幾度となくその姿を映像で見る機会があった。笑顔と背中合わせの厳しい表情が頭に刻まれてずっと引っかかっていた。その疑問が晴れたのは今から10年ほど前、彼女が残した書簡を書籍で読んでからだ。
今回はインドの貧困層の人々を救う活動に身を投じ、その無償の愛で世界的な活動へと成し得たマザー・テレサの聖人的な一面と心の闇や葛藤、そしてビジネスライク的柔軟な発想がどのように形成されたのか考えてみる。
1910年旧ユーゴスラビア、現在のマケドニアの敬虔なカトリックの家庭に誕生する。父は建設業を営み議員をする名士であったがテレサ9歳の頃亡くなっている。母は3人の子供を抱え刺繍の仕事をしながら育て上げた。12歳で修道女になることそして14歳でインドに渡ることを心に決め18歳で修道女になった。母ドラーナは娘テレサに「神様が望むような人になりなさい。」「貧しくともさらに貧しき人々と持てるものを分かち合いましょう」などと教え育てた。
テレサが修道女の道へ進むことを決意したとき母ドラーナは24時間祈り続け、最終的に彼女の意思を尊重し娘を送り出してから親子は一度も会うことはなかった。24時間もの間祈り続けるということは娘に対する思いやその将来への不安、信仰に対する思いなど様々なものが交錯していたであろう。もしかすると娘に諭してきた信仰の是非も考えたのではないだろうか。そしてこの別れが永遠に会えないことも悟っていたのかもしれない。
母として発する言葉やその意味の重みを考えずにはいられない。
彼女がインドに渡り就いたのは上流階級の子供が通う学校の教職であった。当時のインドは戦争や暴動により町は散々足る状況であり、彼女の居たカルカッタはインド政府も見放す状況であり、学校の生徒や教職員の食料すら底をつく状況であった。
その中『全てを捨てて貧しい人々のために働く』よう啓示を受け、17年もの間教職に携わり学校長まで勤め上げた学校を辞め、周りの反対を押し切り単身スラム街での活動に身を投じたのである。
スラムは想像以上に厳しい状況で無数の物乞いに囲まれたり、人に尽くす思いを抱き活動中悪魔の手先と罵声を浴びせられること、薄汚れた姿に物乞いと間違われ惨い仕打ちも受けた。このスラムでの活動が彼女を孤独にさせ、迷い苦しみ悩み葛藤へと進ませのである。彼女は虚しさと沈黙に苛まれ、「神のご加護を見ようとしても見えず、聞こうとしても聞こえない」とさえ指導神父に吐露している。
死後異例の速さで聖人となったマザー・テレサであるが、50年余りの年月を孤独や悩み、葛藤を抱えて過ごしていたことが書簡で白日のものとなってから、彼女のことを慕い活動に賛同していた人々は大きな衝撃を受けた。しかしどんなに精神性の高い人物であっても問題山積の中にあってゴールの見えない悩み深い日々を送れば、心が揺れ動き、時にはぶれてしまうのものは仕方の無いことではないだろうか。聖人君子であっても人間で二面性があるのは当然のこと。ただマザー・テレサが他の人と違うのは心の闇があっても彼女が固く決意した信念の行動に立ち戻れていることである。
これを信仰の力とする意見もあるだろうが、私はその出発点は母の教えであると考えている。母の教えほど子供にダイレクトに影響を与えることを母親は心しなければならないだろう。
彼女は信仰心が深く、真剣に自分自身の道を求めたからこそ光と闇の相反する心の動きが生じたのであろう。大きな内面の矛盾を抱えるのは彼女ばかりではない。この未熟な私でさえも理想を掲げ道を進もうとすれば上手く進めないこともあり、理想と現実の壁に落胆することもある。しかし苦難は幸福の門、チャンスと考えれば立ち上がらずにはいられない性格だ。だからこそマザー・テレサの内面の葛藤が少し分かるような気がするのだ。
懸命に手を差し伸べても湯水の如く溢れてくる貧困の連鎖に修道女の力ではどうにもならない辛さがあったのではないだろうか。また貧困を脱するには政治の道に進むよう彼女に助言したが、彼女はきっぱりと「自分の道は貧しき人病める人死を待つ人々に片手を出せば、もう一方の手もその様な人に差し出すのだ」と断ったと言う。終始一貫目の前にある困難に、足元にいる人々に手を差し伸べるという母の教えを心に留めて行動していたのではないだろうか。
マザー・テレサその人は人々のために身を投じるという大きな決断をし、真摯に向き合ったからこそ内面の闇に苦悩し、それを表に出さず常に自身の信仰に沿いながら行動をしたことが多くの人々と彼女の違いである。彼女が何を信仰し、何を語ったかではなく、彼女が何をしたのかが私達にとっては重要なことだと考える。
マザー・テレサのような大きなことを無し得なくても足元にある小さなことから何かを始める実践をし、その教えを子供に伝えるべきではないだろうか。
彼女にはビジネスに長けている一面があった。
1964年ローマ法王がマザー・テレサの偉業を称えて白いロールスロイスを贈った。彼女はそれを素直に受取ったため世間的批判を受けたが、実際はそのロールスロイスを商品として宝くじを売り出したのである。自らの名前を使い政治家や社会的有力者の協力を得て販売することを思いつき、1枚3000円の宝くじは車の販売価格300万円をはるかに超える5倍の1500万の収益をあげ慈善事業に使った。
オークションではなくより多くの金額が集まる宝くじという方法は目的を果たすための最善の策であり、貧しき人々の生きる尊厳を求め救済や施設運営費の捻出をやり遂げたビジネスセンスには頭の柔軟ささえ感じてしまう。
マザー・テレサは信仰と言う審理の追及と現実の間で揺れ動いたが、貧しき人々のためにという思いはぶれることが無く、我慢強く、沈黙の力を使い最後の最後まで行動あるのみであった。そんな人柄に感化され生き方を見直す人々に行動の重要性が波及したのだろう。
親としてマザー・テレサのような生き方を子供に望むかと問われればノーというだろう。もう少し楽な生き方で幸せを味わって欲しいと思うことが親のエゴだと頭では分かっていても、苦難に身を投じる我が子を見るのは辛いものだ。しかし子供の決めた道を容認する心を持たなければならないことも親のすべきことなのだろう。頭で考える理屈と心で感じる想いを一致させることほど難しいことは無い。
マザー・テレサの母はどのような思いで娘の幸せを願ったであろうか。