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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.Chopin、ショパンのプレイエルピアノは、ドーバー海峡を渡る、ポーランドへ帰る望み絶たれ、ロンドンの広い部屋でひとり自前のプレイエルを弾く…そして、パリでは…

2021.08.08 22:00

ショパンが1848年ロンドンにパリから持ち込んだプレイエルピアノ写真とショパン肖像画から イメージ

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ショパンはロンドンに来てから不遇続きであったが、フランス人のボーリヌとスウェーデン出身のリンドとは、パリに居た時以上に音楽家同志としての友情でお互いに支え合うようになって来ていた。

「私はここに来てから、大公国で何が起こっているのか、最も厳しいニュースを耳にしました。

コズミアンとシュルツェフスキから聞いたのですが、ザレスキが私に紹介状を書いてくれました。

ああ、なんということでしょう。私の心は沈み、私は絶望しています。」

ポーランドでは1848年3月からポズナン大公国のポーランド分割が起きていた(ポーランドの独立運動)大ポーランド蜂起またはポズナン蜂起、(グレーターポーランド蜂起)は、1848年5月9日にポーランド軍が降伏

、プロイセンが勝利したのだ。

ショパンはそのニュースを友人達から情報を得ていた。ショパンがポーランドへ帰る望みはまたここで絶たれ、ボーリヌとリンドの歌声を聴いたショパンの幸せな時間は束の間のことだった。

グシマーワに自分の書簡が無事に届いているか不安なショパンは、同じ内容を最低二人にはいつも書いていた。ショパンはグートマンに一週間前に書いた内容と同じことを書いた。「私は3台のピアノを持っています。プレイエルのほかに、ブロードウッドとエラールです。

エラールを持っていますが、今のところ私は、自分のピアノでしか弾くことしかできませんでした。」

ショパンはグートマンにも書いていたが、実は、三台のピアノのうち、プレイエルピアノはパリからショパンが自前のピアノをロンドンに蒸気船で輸送し持ち込んだ物であっかた。

ブロードウッドとエラールはロンドンにショパンが来てから提供されたピアノであった。

ショパンはブロードウッドとエラールでは練習せずに結局は自分のプレイエルでしか演奏ができないとグシマーワに話した。

ようやく良い住居を手に入れましたが、落ち着いた途端、家主は私に2倍の金額を払え、さもなければ別の部屋へ移れと言ってきました。(月に26ギニーも払っているのだ。)

私には大きな立派な応接室があり、ここでレッスンをすることができます。

今のところ生徒は5人しかいません。私はど うしたらいいのか、まだわかりません。私は

他の部屋はそれほど広くもいないので、おそらくここに留まることになるでしょう。

そして、一度自分の住所を発表したら、変更しない方が良いのだ。

家主の口実は、何も書いていないから、家賃を上げられるかもしれないというものだ。」

ショパンはロンドンに来てから引っ越したドーヴァ街にある住居は広い部屋があり、ようやく落ちついたところであた。1か月の家賃は凡そ現在の130万円だった。三台ものピアノを持ち込んだことになってしまったショパンは、家主から別の部屋に移るように勧告されたのだ。

今からまた移動はしたくないショパンは

ピアノの迷惑料金を上乗せされて月260万支払わねばならなくなった。

 「ソランジュのことを考えると胸が痛む。みんな可哀想な人たちだ。

私たちにとって物事は常に完璧ではないのだから。驚いたのは、B.

お母さんと小さな子供たちが泣かないことを祈るばかりです。」

ショパンはサンド一家を哀れんでいた。

生まれた子供が亡くなったソランジュが田舎でどうしているかと思う時もあるショパンだがら、ショパンはロンドンへ来てからソランジュにはまだ書簡を書いていなかった。(現存しない事実不明)

B、とはサンドの情夫ボリーのことだ。

彼は1846年からジョルジュ・サンドと政治活動をしていた彼は政治犯罪と見做され起訴されたため、ボリーはベルギーへ逃亡し亡命したのだ。

ショパンは驚いたとグシマーワに話したが、

またか…サンドか…、といったところだった。

「私はまだプレイエルに手紙を書いていませんが、いつ書けるかわかりません。

私の 愛を、あなたのショパンより」ショパンはここで書簡が終わったが、追伸を付け足した。サンドの素行がイギリスの新聞に載ったことをグシマーワに伝えた。

「イギリスの新聞は、サンド夫人について嫌なことを書いている。

例えば、※ルドゥロラン(有力政治家)がどこかの公園(おそらくリュクサンブール)でサンド夫人と一緒に芝生に寝そべっているのを見た、などと…。」

いったい誰が何のためにパリからイギリスに情報を売ったのか、それは恐らくグシマーワだった…。サンドの情夫ボリーの家庭は崩壊していた。サンドは自分の代わりにボリーを

投獄しようとしたが、ボリーは逃げたのだ。



ルドゥロランは(※フランスの弁護士兼政治家、過激な共和国活動家、労働者階級の指導者で代表だったが1848年の2月革命の失敗、5月の暴動失敗後、ロンドンに亡命した。)

ジョルジュ・サンドと2月革命を企だてた。サンドの情夫だった。