"諦めなさい、この子は僕のものだから"
ウィリアムがダラム大学に着任してひと月ほど経った頃のことである。
彼は全てを悟り切ったような顔をして、扉近くに佇む一人の青年に声をかけた。
「ねぇビル。君の家に僕の脳内をプリントしてくれる印刷機はないものかな?」
「…すみません、モリアーティ先生。いくらうちがダラム大学御用達の印刷屋とはいえ、難しいご注文です」
「そうか…そうだよね…」
はぁあぁぁ、と大きなため息を吐くウィリアムは、ここ数学科研究室の中で通勤用の鞄を一通り漁った上で項垂れる。
印刷業を家業にしているその青年はその姿にどう声をかけて良いものか視線を彷徨わせた末、約束していた原稿がないのであればこの場を去るのが妥当と判断し、ぺこりと頭を下げて出て行った。
閉まる扉の音を聞いてからウィリアムはもう一度深く机に突っ伏し、今朝方まで共にいたはずの数枚の紙束達を思い浮かべる。
「…今日が締切だったのにな…やってしまった」
徹夜で仕上げた講義資料は、今日中にダラム印刷に提出をして数日後の授業で配布する予定だった。
教本だけでは足りない部分をウィリアム直筆で解説したその資料がなければ、この単元で躓く学生が出てくることだろう。
数学科の生徒はいずれも優秀であることは間違いないが、その優秀な頭脳を更に伸ばすのが大学教授たるウィリアムの使命だ。
学ぶ意思のある若き学生の芽を大きく育てることは、目指す理想を叶えるための別アプローチとして重要である。
ゆえにウィリアムは本業たる大学教授の生業を疎かにすることはないし、いつだって丁寧に教え導くことを意識していた。
けれどそんなウィリアムとて一人の人間、うっかりとミスを犯してしまうことはある。
たとえば、締切に間に合わせるため徹夜で仕上げた原稿を自室に忘れてきてしまうというような、うっかりしたミスである。
「…しばらく眠れないな、これは…」
ルイスにまた怒られてしまう。
そう考えたウィリアムは浮かない顔をしてまたも大きなため息を吐いた。
授業までに印刷が間に合わないということは、ウィリアム特製の講義資料を学生に手渡すためにはオール手書きで仕上げるしかないということだ。
数学科の学生だけとはいえ、それでもかなりの人数がいる。
プリント一枚とはいえそれを全て手書きで仕上げるなど想像するだに腕が痺れてきそうだが、資料なしでは学生達の理解が深まることはないだろう。
己のミスは己で片を付けるのが筋というものだ。
ウィリアムは数日の徹夜と腱鞘炎になることを覚悟し、原稿を忘れてきた今朝方の自分を呪った。
「モリアーティ教授、お客様ですぞ」
「どうぞ」
何度鞄を見ても忘れてきた原稿が出てくるはずもなく、ウィリアムはようやく諦めては顔を上げて聞こえてきたノックと声に返事をした。
来客の予定はなかったが、聞こえてくる声は事務員のものだ。
彼が来訪を許したのであれば間違いない存在なのだろうと、ウィリアムは怪しむことなく扉へと近付いた。
「失礼します」
「ルイス?どうしたんだい、こんなところで」
「今朝ぶりですね、ウィリアム兄さん」
そうして中に入ってきたのは徹夜覚悟の昨夜のウィリアムに僅かばかりの小言を言い、今朝のぼんやりしていたウィリアムにカフェインたっぷりのダージリンを淹れて眼を醒ましてくれた、最愛の弟だった。
被っていた帽子を胸元に当てる姿は我が弟ながら様になっていて見事だと惚れ惚れするほどである。
ルイスはウィリアムを見てうっすら微笑み、すぐさま表情を戻して隣にいる事務員に案内してくれたことへの礼を言った。
お安い御用です、ごゆっくり、と言い残して去っていった事務員を見送り、ルイスは一人中へと入る。
ふいに周りを見渡せばたくさんの本で埋め尽くされていて、ウィリアムの自室と変わりない状況に何故か気持ちが落ち着いた。
「驚いた。どうしたんだい、ルイス」
「兄さんの忘れ物を届けに参りました。心当たりがおありでしょう?」
「忘れ物…?まさか」
「こちらを」
それこそ屋敷では常に離さずそばに置いている弟が、屋敷の外であるこの大学の中でウィリアムのすぐそばにいる。
なんとも不思議な光景だが、ルイスのいる空間がウィリアムに違和感を与えるはずもない。
屋敷以外で最もウィリアムの気配が根付いているこの数学科研究室という空間に、己の所有物たるルイスがいるのは気分が良かった。
思わず声が弾むのも無理はない。
けれど浮かれそうなウィリアムを律するように、ルイスはきりりと眉を上げて持っていた鞄から一通の封書を取り出した。
この場にいるはずのないルイスの存在とその言葉、何より明確に答えを表しているであろう封書を目にしたウィリアムは、ますます気分が上向いていく。
開けてみれば、先程まで求めに求めていた講義資料の原稿が入っている。
「ありがとうルイス!これがなくて困っていたんだ!」
「…全く。あれほど忘れ物はないか確認したというのに、聞いていなかったんですね」
愛しい弟が今最も求めている物を持って現れたこと、まさしく救いの神である。
ウィリアムが思わず封書ごとその体を抱きしめて感謝を伝えれば、驚いたように息を呑んではおそるおそる背中に腕が回された。
この部屋にはウィリアムしかおらず、扉はきちんと閉めている。
ならば構わないかと、ルイスは珍しい場所での抱擁を快く受け入れることにした。
慣れ親しんだ温もりは知らぬ場所で緊張していたルイスの体を緩ませる。
「兄さんはうっかり屋さんですね」
「気をつけるよ、ルイス」
いつもしっかりしていて頼り甲斐のある背中ばかりを見ているが、ウィリアムはどこでも寝落ちてしまうし、別のことに気を取られて遅刻をすることもあるらしい。
彼の中にある優先順位が確立していると考えれば良いのかもしれないけれど、それにしたって優先度の低い案件に対しての対応があまりにも杜撰なのだ。
ぼんやりしたウィリアムに紅茶を飲ませ、ネクタイを締め、ハットを被せてから鞄を持たせて見送ったは良いものの、掃除のため彼の部屋に入ったときに徹夜で書き上げた書類が堂々と置かれているのを見たとき、ルイスは思わず呆れてしまった。
「明日が締切なんだ」というから徹夜も見逃したというのに、これでは見逃した意味がないではないか。
きっとウィリアムは困っているだろうし、これがないことでまた数日の徹夜が待ち受けているかもしれない。
ルイスはすぐさま外出の用意をして、先日ウィリアムと下見に出かけて以降は訪れることのなかったダラム大学へと向かうことにしたのだ。
田舎とはいえ相応の学力が求められる機関だけあってどの学生も礼儀正しい。
管理棟はどこかを尋ねるルイスに対しても親切に応えてくれる学生ばかりで、さすがウィリアムが教え導いている学生達だと誇らしくなってしまった。
実際ウィリアムが担当する学生はほんのひと握りではあるが、そんなことはルイスにとって些細なことである。
この礼儀正しい学生達はウィリアムの教え子であり、言うなればルイスの後輩なのだ。
「そうだ、ルイス。これから時間はあるかい?今日は午後一番に講義があるけどそれまでは時間があるんだ。良ければ校内を案内しようか」
「良いのですか?兄さんのご迷惑になるのでは?」
「まさか。そんなはずないだろう、ルイス」
「…では、案内していただきたいです」
ウィリアムが教鞭を執るこのダラム大学、その内部まではルイスの関与することではない。
赴任前に下見として訪ねたときはその道のりだけを確認していたし、事前の相談事などはウィリアム一人でこなしていたのだから、ルイスはこのダラム大学についてウィリアムが語る以上のことを知らないのだ。
日頃ウィリアムがどんな場所で過ごしているのか、気にならないといえば嘘になる。
ルイスは兄の迷惑にならないのであれば校内を見学したいと申し出て、快くウィリアムが微笑む様子を見て安堵した。
「じゃあ早速案内しようか」
「その前に兄さん。今日が締切というこの原稿、早く提出してくださいね」
「あぁそうだったね、ルイスに会えてうっかり忘れるところだった」
「兄さん!」
「ごめんね、気をつけるよ」
そうしてまずはウィリアムのうっかりを阻止するべく、ルイスは原稿を手に持ってから兄と共に数学科研究室を出て行った。
「あれ、モリアーティ先生、誰を連れてるんですか?」
ウィリアムが主に講義をする教室から礼拝堂、図書館、資料室などを順に案内していると、ただでさえ若く評判の良い数学教授が誰かを連れ歩いているということで噂になる。
穏やかでありながら時に威圧感あるウィリアムを教員として慕う学生は多い。
けれど誰に対しても入れ込むことのない彼が、明らかに親しいと分かる人間を連れているのだから噂好きな貴族にとっては格好の的だろう。
陰謀渦巻く夜会に比べれば可愛いものだと、ルイスは学生に声をかけられたウィリアムの斜め後ろで静かに佇んでいた。
「やぁおはよう。今日は弟が来てくれてね、校内を案内しているところなんだ」
「弟さんですか?」
「初めまして。ルイス・ジェームズ・モリアーティです」
「は、初めまして。コジモ・ハーシーです」
「フィン・アレクです。数学科でモリアーティ先生に学ばせていただいてます」
「そうですか。兄の授業はどうでしょう?分かりやすいですか?」
「凄く分かりやすいです。俺らとそんなに変わらない年なのに頭の良さが段違いですよね」
「でも時々鬼みたいな難問出してくるから困るんですよ。そうだ、ルイスさんからも何か言ってくれませんか?」
「なるほど…では僕から兄に伝えておきますね」
「ねぇルイス、僕もここにいるんだけど」
ルイスはウィリアムに好意的な人間のことがすきだ。
ゆえにこの学生達がウィリアムを教員として純粋に慕ってくれていることが嬉しいと思う。
兄はこの大学でたくさんの人から慕われて過ごしているのだと思えば気分が良い。
自慢の兄はたくさんの人にその才能を認められるべき人間なのだから、その称賛を近くで聞けるというのはルイスにとってこの上ない至福である。
過激な感情を向けられてしまうのは困るが、この二人はそれに分類しないようなのでルイスも人当たり良く接していた。
何せウィリアムの弟であるルイスの悪評は、そのままウィリアムの悪評に繋がってしまうのだから。
「兄さん、生徒達が困っていますよ。あまり難問を押し付けてはいけませんからね」
「難題というほどでもないんだけど」
「では、彼らの勉強不足ということですか?」
仲の良い兄弟間のやりとりを物珍しく見ていた学生二人は、ルイスの問いかけと冷えた瞳にぎくりと肩を震わせる。
確かにウィリアムが作る設問は驚くほどの難問が紛れ込んでいるが、しっかりと土台さえあれば解けないこともないレベルだ。
半数以上の学生が解ける問題なのだから、勉強不足というのは実に的を得た発言である。
ウィリアムとルイスからの視線に気まずそうな顔を隠さず、二人は後ろ頭を掻いて己の失言を誤魔化した。
「いや〜でもモリアーティ先生の授業はためになりますよ!教本に載っていないところも詳しく教えてくれますし!」
「そうそう、数学への理解が深まりますし!先生の授業を取って良かったと思ってます!」
「ふふ、ありがとう。そう煽てても次の試験で融通は効かないけどね」
「「…はーい」」
生徒と仲の良い教員というウィリアムの姿を、ルイスは今日初めて見た。
生まれたときからずっと一緒にいるのにまだまだ見たことのない兄の姿があると知り、少しばかりの寂しさとそれ以上の好奇心が胸を覆う。
ウィリアムが良い先生だということはルイスが一番よく知っている。
何故なら、ルイスこそがウィリアムにとって正真正銘初めての生徒なのだから。
兄さんの教え方が素晴らしいのは当然でしょう、さすが僕の兄さんです、という誇らしげな気持ちを持ちながら、怠惰な気配が見て取れる学生にルイスは静かに釘を刺す。
「怠けてはいけませんよ。これからも勉強に励んでくださいね」
「あ、はい」
「頑張ります」
「…行こうか、ルイス」
「はい、兄さん」
それでは、と丁寧に頭を下げるルイスに倣って学生達も慌てて頭を下げる。
ルイスが養子であることは知っているだろうが、それでもウィリアムの家族であることは間違いない。
悪印象を与えないよう礼儀正しく接するのは正解だろう。
けれどウィリアムは妙に引っかかるような感覚が過ぎり、ルイスを引き連れてその場を離れる。
二人が去った後も学生達はその場に留まり、初めて見たウィリアムの弟に関する話題に花を咲かせていた。
「あの弟さん、先生とそっくりだったな」
「お前もそう思う?先生も綺麗だしルイスさんも綺麗だし、まさに美形兄弟って感じだよな」
「あの怪我、屋敷の火事で負ったって先生言ってたっけ?そんなの関係ないくらい美人だったけど」
「勿体無いよな〜せっかくあんだけ美人なのに傷物なんて」
「でも俺、あの人ならありだわ」
「マジかよ」
「モリアーティ先生も美人だけどあの人ちょっと怖いところあるじゃん。でもルイスさんなら優しそう、俺のこと応援してくれたし」
「そうか〜?結構冷たそうな顔してたじゃん」
「いやああいう人は何だかんだ優しいんだよ、きっと」
「お前、優しい言葉かけられたらすぐ好きになるよな」
「うるさい」
なるほどなるほど。
学生達から少し離れた場所、豊かな緑に隠れて見えないけれど、ウィリアムとルイスは彼らのすぐ近くにいた。
ウィリアム以外に興味のないルイスは早々に学生から意識を逸らして向こう側にある講堂に興味を示しているけれど、ウィリアムはそうもいかないのだ。
可愛い弟に余計な虫が付くことなど可能性すら絶対に許せない。
ゆえに小さく聞こえてくるその会話に冷めた心を自覚していた。
ルイスが魅力的なのは否定しない。
ウィリアム自慢の弟は他の誰より魅力溢れる尊ぶべき存在で、だからこそ誰もその魅力に気付かないよう屋敷から出さずにいたというのに、自分のうっかりしたミスのせいで学生達の目に触れるとは想定外だった。
大学の案内を申し出たときは、普段ルイスを見ることのない環境に彼がいたからつい浮かれてしまったのだ。
どうせあとでルイスに関する噂は学生達の間であっという間に広まってしまうのだろう。
顔に大きな傷があるけれど美しく優しい、紳士然としたモリアーティ家の末弟。
牽制くらいはしておくかと、ウィリアムは遠くを見ているルイスの腕を引いてその腰を抱いて歩き出した。
「あれ」
「どうかしたかー?」
「あそこにいるの、モリアーティ先生じゃないか?」
「本当だ。いつも研究室にいるのに外出てるなんて珍しいな」
ウィリアムはルイスを連れてさほど人気のない、けれどまばらに学生がいるエリアを選んで連れて歩いていた。
講堂裏の空間は目立たないけれど学生達に人気のスポットだ。
物珍しげに周りを見渡しながら歩くルイスへ寄り添いながら、ウィリアムは穏やかに会話を続けていた。
学生達に見られていることは知っている。
けれど声をかけてくるには少しばかり距離があるからこのまま興味本位に見つめるだけで終えるだろう。
これこそ狙っていた状況だと、ウィリアムは足を止めてルイスの後ろ姿を見る。
「兄さん、どうされましたか?」
「ルイス、少し良いかい?」
「はい?」
足を止めたウィリアムに気付いたルイスも歩みを止め、後ろを振り返って彼を見る。
先程まで大学教授の顔をしていたウィリアムなのに、今はルイスが見慣れた兄としての顔になっていた。
少しだけ残念だなと、ルイスはそう感じたけれど、このウィリアムは他の誰にも見ることの出来ないルイスだけの彼なのだ。
どんなに慕おうと学生達が見ることは叶わないと思えば優越感に満たされる。
甘やかすように優しいウィリアムの顔を見て、習慣のように僅かに首を傾げればしなやかな指が伸ばされた。
そうしてその指はルイスの顎にかかり、くいと上を見るよう持ち上げられる。
距離が近付いたように思う。
珍しい距離ではないが、珍しい場所でこれだけ近いというのもどこか落ち着かないものだ。
ルイスが思わず肩を跳ねさせると、ウィリアムは一層笑みを深めて落ち着かせるように名前を呼んでくれた。
「ルイス」
「は、い」
「髪に葉っぱが付いていたよ。はい、もう取れた」
「あ…それは、ありがとうございます」
「風が出てきたから髪も乱れてしまうね。ルイスの髪は細いから、絡まってしまわなければ良いけど」
「それを言うなら兄さんこそです」
ウィリアムがルイスの髪を混ぜるように整えれば、ルイスも同じように手を伸ばして乱れた髪を整える。
元々跳ねやすいルイスの髪は風に舞ったところでふわりとした髪型になるだけで、ウィリアムの方こそ乱れてしまうと困るのだ。
さらりとした髪が乱れていようと格好良さが半減するはずもないが、どこか惜しい気持ちでもどかしくなってしまう。
午後には授業もあると言っていたのだから、最愛の兄をみっともない姿で居させるわけにもいかない。
ルイスは懸命に手を伸ばして手櫛で髪を整えようとするが、整えた先から風が吹いてくるのだから追いつかなかった。
もう校内に入ってしまった方が早いと、ルイスはのんびり自分の髪を混ぜているウィリアムを見て声を出す。
「兄さん、もう研究室に戻りましょう。僕は執務があるので帰ります」
「あぁ、時間が大丈夫なら研究室で時間を潰していてくれるかい?一緒に帰ろう」
「え?ですが…」
「あそこは僕しか使わないから、ルイスがいても構わないよ。本でも読んで待っていてくれるかな」
「…兄さんがそういうのであれば」
もはや乱れた髪を整えるという名目はなく、今のウィリアムはただルイスの髪に触れて癒されているだけだ。
それにルイスは気付いていないが、気付いたところで髪は乱れたままなのだから結果は大して変わらない。
ルイスは嬉しく思うのだろうけれど、伝えずともルイスを喜ばせるのはウィリアムにとって簡単なことなのだ。
現にもうルイスはウィリアムの研究室で過ごす時間を心待ちにしている。
あまり歩いたことのない道を一緒に歩いて帰ることを喜んでいる。
可愛いなと、ウィリアムはそう思いながらルイスの乱れた前髪を耳にかけてあげた。
そうして、もう乱れないように、と囁きながら額に唇を寄せてみたけれど、あっという間に風が吹いて柔らかい髪が舞ってしまう。
兄さんのおまじないは効果がないですねと笑うルイスに苦笑した様子を見せてから、ウィリアムは周囲で見ている学生達に目をやった。
ルイスもその存在には気付いているだろうが、彼らしく一切気にしていない。
「兄さん、早く戻りましょう」
「そうだね、行こうか」
前を歩くルイスの腰を抱き、ウィリアムはゆっくりと見せつけるように歩いていく。
チラリと横目に映った学生の内一人は先程ルイスに不埒なことを考えていた彼だった。
これは都合が良いと、ウィリアムは彼に向かって声には出さず唇だけを動かした。
すると彼の体が不自然に動いたからおそらくウィリアムの行動には気付いていたはずだし、その意味を理解したのかどうなのかは、この後の授業で確認することが出来るだろう。
教え子の身の上で可愛い弟に懸想するなど、この現世では早すぎるくらいだ。
来世のそのまた先の先までルイスに近付くのは遠慮してもらうとしよう。
ウィリアムは最愛の弟を引き連れて、己の城と化している数学科研究室を目指していった。
(…兄さん、外でこんなに距離が近いのは珍しいですね)
(うん?そうだったかな?)
(あ、決して嫌なわけではないですよ。ただ、まるで家にいるときの近さなので、何となく不思議な感じがしているだけで)
(それなら良かった。ちょっと虫を炙り出そうと思ってね、驚かせたのならごめん)
(虫?そういえば確かにここは緑が多いですね…今度、虫除け効果のあるハーブを調合しましょうか?)
(いや大丈夫。気持ちだけで嬉しいよ、ありがとうルイス)