ヴィリー・ブラントの生涯
本書の出版社コメントに「(第二次世界大戦後の)同じ敗戦国でも、ドイツは日本とは大きな違いを見せている。その違いを出すのに大きく貢献したのがヴィリー・ブラントであることは疑いない。」とあり、興味を持って読んで見ました。 ヴィリー・ブラント(Willy Brandt)さんは、日本にも3度も来日している政治家ですが、意外とブラントさんは日本では知られていません。しかし、統一ドイツにおいて彼は国民的英雄で、実際、国内のいろいろなところに彼の銅像が見られ、彼の名前を冠した公共施設があります。本書の新版序言でも「かれの名前はみんなが知っている。死去以来かれの名前は、何百という通りや場所、幼稚園や学校、国の内外の研究機関やセンターにつけられるようになった。ドイツの首都、ベルリンの飛行場、連邦首相たちの居所もかれの名前を持つ。。」(P7)とあります。
ブラントさんは、第二次世界大戦後の西ドイツの社会民主党(SPD)の党首で、1957年、西ベルリンの市長になり、1961年には東ドイツのベルリンの壁の建設を西ベルリン市長として間近で体験しました。(祖国ドイツが同胞によって分断されてくのを目撃する彼の心境は察するに余り有ります。)その後(戦後初めて社会民主党出身の)西ドイツの連邦首相となり、西ベルリン市長時代からの盟友、エゴン・バール氏と共に東方外交(東ドイツ、東欧国、ソ連への関係促進)を推し進めました。それまで西ドイツは、「西ドイツがドイツ唯一の国家であり、東ドイツは認めない」という外交の基本方針を堅持していたのですが、その考えを転換、東ドイツの人々との交流を図ったのです。さらに、ドイツの戦後処理問題に関しても真摯な態度で臨み、緊張が進む東西対立時代において東西諸国の融和に貢献しました。(ちなみに、本書の上の表紙は、ポーランド、ワルシャワのユダヤ人ゲットー記念碑を訪れたブラントさんが、記念碑の前に捧げられた花輪の前で跪き、過去の謝罪をしている写真です。)このように東西融和に貢献したブラントさんは、1971年、ノーベル平和賞を受賞。1989年のベルリンの壁崩壊の翌年、念願のドイツ再統一がかなうと、首都をボンからベルリンに移転することを連邦議会で提議しました。
このように、ヨーロッパの平和に尽力した一方、ブラントさんは自身の出自が複雑だったりとか、自分の青年期(ドイツでナチスが台頭していた時代)にはナチスの迫害を恐れノルウェーへ亡命していたり、という経歴を持っていたため、ドイツの政界における彼の政敵は、例えば選挙戦などにおいて、彼のそういった経歴を露骨に指摘し、追い落としを謀ったのです。また、ブラントさんの輝かしい経歴からは意外なのですが、うつ病になることも多かったようで、その気分の変調にも悩まされ続けていました。また、1973年には、個人秘書であったギュンター・ギヨーム氏が東ドイツのスパイであったことが発覚し、それに加え、当時女性問題やアルコール問題などの噂も追い打ちをかけることになり、自らが辞表を提出する形で1974年、連邦首相を辞任します。(ただし、SPDの党首としては1987年まで活動。)このような「負の経歴」を持つブラントさんは、「どんな人生も内からみると敗北の連鎖にほかならない。」という彼独自の人生観を語っています。
ブラントさんは、若い頃から新聞へ寄稿をしたり、書物を書いたりと、ジャーナリストや物書きとしての資質も持ち合わせていて、いくつかの回想録などの著書も多いのです。ブラントさんの著書や新聞記事の編纂もドイツでは進められていて、本書の著者、グレゴーア・ショレゲン氏もそいうった、ブラントさんの文書資料、演説草稿の編纂に携わる政治学者です。そのせいか、本書は、単純な美辞麗句でブラントさんの偉業を飾ることは避け、彼の出自、女性問題など人間的な点にも言及し、丹念に事実関係を説明するような書き方で全体を統一し、「政治家ヴィリー・ブラント」に迫っている感じの評伝です。ニューヨークなどでは、ブラントさんの生誕百周年に合わせ、2013年に発売されベストセラーになったそうですが、(著者は、すでに読者がドイツの戦後の歴史を知っていることを前提として書いているためか)戦後ドイツの年表や、ブラントさんが活躍する時代の背景がわからないと、本書の理解に関して少し難しい部分もあるかもしれません。(実は私も本書を読んでわからなかった部分もあったので、機会を見つけてブラントさん関係の本を探そうと思います。)