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ZIPANG TOKIO 2020「日本で最も古い 南陽市の民話と伝説『鶴布山珍蔵寺縁起(鶴の恩返し)』宝物は 鶴の羽で織った織物」

2017.02.14 18:20

鶴布山珍蔵寺は、鶴女房の夫だった金蔵が仏門に帰依したのが開基という伝承となっており、鶴の毛織物が寺の宝にされていたという言い伝えが残されています。伊達政宗の時代にはすでに名刹として知られていました。境内は山門と庭園が調和し、禅寺の雰囲気が色濃く、心が洗われるような気がする空間です。また寺の梵鐘にも鶴の恩返しが浮き彫りにされています。


南陽市の民話と伝説

南陽市漆山地区には、古くから鶴の恩返し伝説が伝わっています。その「鶴の恩返し」伝説は江戸時代の古文書に書き記されており、 記述としては日本で最も古いものです。現在でも、漆山には、鶴巻田、羽付、織機川などの鶴の恩返しにちなむ古く からの地名が数多く残されています。また、鶴の羽で織った織物を寺の宝物としたと伝えられる「鶴布山珍蔵寺」という古刹があり、その梵鐘には鶴の恩返し伝説が描かれています。

 夕鶴の里に保存・展示されている機織り 

山形県南陽市の西部、漆山地区を流れる織機(おりはた)川のそばに、古くから民話「鶴の恩返し」を開山縁起として伝承している鶴布山珍蔵寺があります。この地区には、鶴巻田や羽付といった鶴の恩返しを思い起こさせる地名が残り、明治時代には製糸の町として栄えました。 地域に口伝えで残されてきた鶴の恩返しをはじめとする多くの民話を、これからも伝えていくために「夕鶴の里資料館」語り部の館がつくられました。


平成3年、民話が好きな地元の方々が中心となって、「民話会ゆうづる」が結成されました。
現在では、会員15人(男性1人、女性14人)が、それぞれに得意とする民話を「夕鶴の里語り部ホール」で語ったり、福祉施設、学校、地区の催しなどに出掛けて、語りのあたたかさを広めています。 


鶴布山珍蔵寺縁起(鶴の恩返し)


昔々、おりはた川のほとり二井山に、金蔵と申す正直者が住んでいました。宮内の町へ出た帰り道、池黒というところで若者が鶴一羽しばっていじめていました。金蔵はあわれに思い、あり金をはたいてその鶴を買い求め、なわをほどき放してやりました。鶴はよろこんで大空を舞いどこかへ飛んで行ってしまいました。やがてその夜、金蔵の家にすごくきれいな女が現れて、私をあなたの妻にしてください、何か働かせてくださいと、何べんことわってもかえらないので、仕方なく置くことにしました。その女は織物(おりもの)が上手で、織(お)った布はとても高く売れました。

ある日のこと、女が「だんなさま、私はご恩返しに、あるものをあげますから、7日の間、決して私の部屋をのぞかないでください。」といって、その日から離れにこもったきり、夜も昼も、コットンコットンという音が続きました。7日目の夜のこと、金蔵はまちきれずに、いったい何を織っているのかとしのび足で離れに近寄り、窓のすきまから中をのぞきました。とたんに金蔵はあまりの恐ろしさに「あっ」と声を出しました。それもそのはず布を織っているのは女でなくて、やせおとろえた一羽の鶴が、己の羽毛をむしりとっては織り、むしりとっては織り、すでにはだかになっているではありませんか。

金蔵の叫び声に、機(はた)は止まり、その羽毛のない鶴はさびしく言いました。「だんなさま、なぜ見ないでくださいといった私の言葉を、お破りになったのですか。私はごらんのとおり、人間ではありません。実はこのあいだ、あなたに助けられた鶴でございます。私がいま織っているのは、ご恩返しに私の毛でつくった「おまんだら」です。これが私の形見でございます。・・・さようなら」といって消えてなくなりました。その後、金蔵は感ずるところがあって僧となりました。それで金蔵寺であった寺が、その宝物の名をとり、鶴布山珍蔵寺と改め称したと申します。



金毛和尚と三十三観音


置賜(当地方の名称)は何回となく凶作に見まわれ亡くなる人が 絶えず村につくられていた備荒米もすぐに底をつきてしまうのであった。川樋の古刹松林寺住職の金毛和尚は、一念発起して村人の憎しみ 合う心を仏の慈悲で消そうと、辻々で村人に説いたが、効果がなかった。 そんなある日、岩部山のそばをとおると老石工が一心に石を彫って いるのを見た。翌日より寺を小僧に譲り、観音の慈悲を広げるために、 雲水となって国々を歩き、喜捨(きしゃ、募金)をつのり、老石工に頼んで三十三観音を岩部山の岩に彫り上げたという


白竜湖


南陽市の心の故郷 白竜湖(竜が飛び立つように上空へ)


あるとき置賜(おいたま、当地方の名称)が日照りで雨が降らず、あちこちで水争いが起こるようになった。村人は毎晩のように雨乞いをしたが、雨は降りそうもない。そこへ旅の僧がやってきて、惨上を見て気の毒に思い、天に向かって 経文を唱えること三日三晩、一天にわかに曇り、ぽつり ぽつり雨が落ちてきて、やがてざわざわと風がおきたかと 思うと、湖から白竜が巻物をくわえて天に昇っていったと いう。それから村人はこの湖を白竜湖と言うようになったという。

東正寺は烏帽子子山の東側にあって、白竜湖に面している。その寺の若い坊さんは、びもく眉目 に秀でていたので、町の評判となった。湖の向かい側の金沢へ法要に行った折に、金沢の娘はすっかりほ惚れ込んで、何とか若い坊さんの嫁になりたいと願うようになったが、思いを遂げることができず、湖に身を投じてしまったが、やがて白い竜となって天に昇ったという。

屋代村(現高畠町)深沼に竹田作右衛門という人がおった。家の前に種池があり、秋上げも終わって、餅をつ搗いたが、その杵を洗おうと種池に浮かしていたところ、次の朝になって杵が見えなくなっている。不思議に思って探すこと七日ほどして、杵が白竜湖に浮かんでいたという。置賜の池の底はみな白竜湖に通じているのだという。

またこんな話も伝わっている。昔、白竜湖のある場所はたんぼ田圃だったというが、ある日、一夜にして田圃が陥没して湖になったと思ったら、竹の森村(現高畠町)に大きな山が出来上がっていた。その山が竹の森山であるという。

白竜湖を埋めて、少しでも田圃をひろげようと考えたのは宮内の町割を行った代官安部右馬助であった。するとその晩、右馬助の夢枕に女が現れて、「この湖を埋めてしまえば、あなたの命は必ずなくなる」と言ったか思うと、姿を消した。右馬助は夢のこととして一笑に付し、次の朝には家来に命じて石を運び、白竜湖を埋めさせたのだった。次の朝見ると、あれほど積んだ石は一夜して沈んでしまった上に、その夜に右馬助が急死してしまったとも、右馬助が白竜湖を見に行くと、湖の向こう岸に光りものが輝いているのを見て、恐れをなして、埋めるのを取りやめさせたともいう。


宮内の大いちょう


後三年の役で、源氏の勝利を祝った大銀杏!市内宮内の熊野神社境内に立つイチョウの巨木です。根周7.7m、主幹は約10m上部で失われていますが、地上2mばかり上から多数の大枝が直上して、高さ約30mにも達しています。 源義家が後三年の役の戦勝のお礼に家臣鎌倉権五郎景政に命じて植えさせたという伝説が残っています。

後冷泉天皇の康平年中、鎮守府の将軍であった源義家が、蝦夷征伐のため来たが、家臣の鎌倉権五郎景政に命じて、太平を祈願させて、太刀一振を寄進して、いちょうの木を植えさせたものであるという。熊野大社の前に立つこの大いちょうは主幹がすでに途中で折れて失われているが、脇枝が直上し、およそ30メートルに達する巨木となっている。


むじなの御所


南陽市の松沢には、昔の人が住んでいたという 洞窟を「むじなの御所」と呼んで今に残している。  いつのころかその洞窟にはむじなが住み ついて、月のよい晩にはそこでむじなの親子が 踊っていることもあったとも、その数はなんと30~ 40匹にも及び、山中のむじなが集まったのだろう とも言われた。 洞窟は山の峰まで続いていたから、洞窟の入り口 で木をもやせば、山の峰から煙が出るのだとも いった。


鬼面石とおかばみ沢


市内の川樋地区と金山地区を分ける山に鬼面石がある。ここには大蛇が住み、金山からの登り口は、「竜の口」とも呼ばれていた。大蛇は、時に大雨をふらし、土砂を流して村を埋めたともいわれ、おかばみ沢 としておそれられていた。その近くの鬼面石は唐戸石とも呼ばれていたが、鬼面石には隠れ座頭という仙人が住んでいて、旧7月16日の盆には忍びの道具や衣装などを持ち出して、向かいの山まで綱を張って虫干しするのだ ったという。だから村人は7月17日には山へ入ってはいけないと されてきた。ところが、おかばみ沢の大蛇があばれまわる ので、たまりかねた仙人は金縛りの術にかけて閉じこめようとした。おかばみもさるもの、術を逃れようと騒ぎまわり、 天を曇らせて大雨を降らしたので、村の人々は生きた心地もしなかったが、 ついに仙人の術が勝って、おかばみは小さな白蛇に変えられ、諏訪明神の使いにされてしまった。川樋の諏訪明神は、それから雨乞いの神として信仰されるようになったという


義経の名馬

天馬の子「磨 墨(するすみ)」                                     (C)ОKen

南陽市の池黒という土地は、昔は池川村と呼んでいた。 昔、このあたりに黒馬が立っていて、飼う人もなかったので、 ネコゴ屋敷の家人が飼うことにしたが、馬は自在に厩 (うまや、馬小屋のこと)を飛び出し、天空を駆けるほどであったという。それから池川が池黒と呼ばれるようになったという。村人はこの馬のすばらしさに馬頭観音を馬の形をした池のほとりに建てた。ある時、名馬の評判を耳にした源義経は弁慶に命じて、 この馬を手に入れようとして、弁慶と亀井新十郎をつかわした。 この馬こそ名馬「するすみ」で、その後、数々の働きをしたという。
(鎌倉の源頼朝公に献上され、梶原源太景季に下されたという説もある)


蛙石 (びっきいし)


山形市畑谷の大沼に住む主の蛙が、白竜湖の主になろうと夏の日盛りにやってきた。暑さのために途中で一休みして、ようやく川樋にやってきたとき、田の中で草取りをしていた百姓に、白竜湖までの道を聞いた。
百姓は汗を拭き拭き、腰を伸ばし、「ここから白竜湖までは、十年坂という坂と、鳥しか通わないという鳥上坂を越えないと行けない」と答えるのを聞いて、ここまで来るにもひどかったのに、これから難所が二つもあるというのでは、とても行けぬというと、腰がくだけて座り込み、そのまま石になってしまった。
また、日は暮れて、とぼとぼ峠を越えて村山から来た旅の坊さんが、そこで田仕事をしていた百姓に、鳥上坂を指さして、何という坂か聞くと、百姓は、「あの坂は十年坂という」と答えたのを聞いて、十年もかかるのでは越せぬと、そこで蛙石になってしまったという別話もある。


 法師柳


昔、旅僧が托鉢しながらこの村に来て仏法を説いた。貧しい人に出会うと、托鉢でもらい受けたものを惜しげなく分け与えから、村人はこの旅僧を法師様と呼ぶようになった。ある暑い夏に雨は一滴も降らず、稲は枯死寸前となった。村人は雨乞いを旅僧に頼んだ。そこでほこら祠の前で七日七夜の雨乞い祈祷を行った効があって、昼下がりに一天にわかに曇って大粒の雨が降ってきた。いつしか、法師の姿はなく、村人の前に薬師如来の尊像だけが光り輝いて、一本の柳が立っていた。この法師は山寺開山の慈覚法師だったろうと言われて、楊林寺が後に建てられたという。


妹背の松(いもせのまつ)


長谷観音を建てかえた上方の彫師工左衛門の娘お梅は、工左衛門の弟子松蔵と恋仲になったが、それを知らぬ工左衛門は腕のいいもう一人の弟子竹蔵の嫁にしようとしたが、お梅は松蔵と秘かに逢瀬を重ねていた。それを知った父工左衛門は怒って、お梅を切り殺してしまった。

長谷観音の彫物に何を彫ろうかと迷っていた竹蔵は、目の前が暗くなったと思うと、突然光が発し、その中にお梅の姿が現れ、それがたちまち龍となって「このわたしを彫ってくれ」という声を残し、天に登っていった。
竹蔵は目に焼きついたそれを彫って長谷観音に飾って評判をとったが、お梅が父に切られたその晩、松蔵は修行に出る覚悟をし、親方と別れて山道を急ぐと、お梅がおいかけてきた。竹蔵と夫婦にさせたいと思っている親方の意に添うようにとお梅をなだめたが、お梅は聞かなかったので、二人で入水してあの世で二人で池に飛び込んだともいう。池の岸にはお梅のかんざしと松蔵の管笠が残っていた。幽霊に尻なしというのでその池を「尻無池」と言い、村人は二人の遺品のあったところに二本の松を植えて供養したが、いつしか二本の松の枝がつながって相生の松となったという。


南陽市では、まだまだ沢山の民話・伝説が語られているようですが、関心のおありの方は是非南陽市を訪ねてみて下さい。

折角の機会ですから簡単に南陽市の名所・旧跡の紹介をいたします。

現地の方たちに訪ねると南陽市というと「鶴布山珍蔵寺縁起(鶴の恩返し)」と双壁で「熊野大社」と双壁で熊野大社の名前が出てきます。熊野大社は三大熊野大社の一つですが、最近の若者は、熊野三大神社というより縁結びの神様として東北の伊勢神宮の印象の方が強いようです。

彫刻に隠された三羽のうさぎを見つけるとその年一年は幸運に恵まれるそうですよ、

今年は全国的に雪が深く、それでも、もう伊豆半島の河津さくらは咲いていますが、恐らく東北地方の春の知らせは少し遅れるかもしれません。それにしても、見事な彫刻です。

いかにも歴史を感じます。それにしても雪が重そうですねぇ!

参拝の折りには熊野大社のお札を忘れないように、きっと良い出会いが待っていますよ。皆様のご協力感謝します。


烏帽子山八幡宮

烏帽子山八幡宮 鳥居のしめ縄の掛け替えは、桜が満開の毎年4月18日におこなわれる。
「左三つ巴」は我が家の家紋なので何となく親しみを覚えます。

何と重さが300㌔あるしめ縄の掛け替え作業。危険が伴う大変な作業です。鳥居をくぐる時は渕を歩きなさいという意味がよく分りました。(冗談ですよ!)

烏帽子山八幡宮 白木の立派な社殿ですねぇ!周囲の深い緑により映えて見えます。

烏帽子山千本桜と言われるだけあって流石に見事です。桜もきれいですが、空がまた美しい、きっと山形・南陽市の空気がきれいなんでしょうねぇ。雪解けの春が待ち遠しいですねぇ。
その日はきっと山形だけでなく宮城、福島、新潟、秋田からも来られるのでしょうか?
名古屋からも参加したい思いです。

まだまだ、紹介したい所は沢山ありますが、次回にご期待下さい。                    鎹八咫烏記


南陽市に残る伝説・民話に寄せて

平和の象徴「折り鶴」オバマ アメリカ大統領が平和を祈願して自ら折り、広島と長崎に寄贈
                                     (C)共同

南陽市に残る伝説・民話に寄せて

 まさか、南陽市の伝説・民話が、今こんなにオババになった私の山形に棲み着く深い因縁話へと繋がるなんて、夢にも思いませんでした。 振り返れば当時、私は国民小学校1年生から2年生でした。その頃は、まさに戦時下にあって私達家族は広島市近郊に疎開しており、頻繁に行われる避難訓練では先ず警戒警報発令!という声と、サイレンが鳴り響き、同時に駆け足で防空頭巾を被り、蚊の大群に襲われながら、高温多湿の真っ暗な防空壕へ潜り込むのです。 中でも辛かったのは、日が暮れると燈火管制で、夜は僅かでも窓から明かりが漏れると、標的にされるからと、隣組警ら班が厳しく見回ります。裸電球をちゃぶ台直下だけ照らす光源では、暗闇のもと何の作業も出来ず、長い夜を会話も途絶え、本を読む事さえ叶わぬ状態でした。 ご飯といえば、申し訳に麦飯が浮いた汁にサイコロ状に切られた大根か、さつま芋が混ざったもので、おかずといえば沢庵2切れ位のもの。たまに魚のアラで煮付けた白菜の煮物が付いた位で、当然タンパク質不足で、高校生になる迄は脚気の病気に掛かっていました。 物のない時代。質素倹約奉仕忍耐を最大の美徳精神として国民に浸透しており配給制度の生活です。夜具は物凄く重くて硬い毛布が配給されますが、人毛を織り込んだ素材なので、肌に触れるとチカチカ刺され、実に不快な代物でした。 勿論それらは色を極端に抑制した国防色と呼ばれるもので、国中の環境色はつまり、ベトナム戦争で米兵が着ていた迷彩色のユニフォームを思い出す、所謂カーキー、一色に覆われていたのです。 衣料に至っては毎日同じ服装、下着さえも継ぎ接ぎだらけの着替えが1枚だけ。通学には下駄かワラ草履を裸足で履き、冬場は穴だらけの靴下を履いて通う日々でした。男の子達は冬でも垢切れた裸足にワラ草履。 そうした中、ご近所のオジサンが我が家と懇意の仲で、それはそれはオトコ市原悦子クラスの語り部でして、週一位いのペースで我が家へ立寄り、5つ〜6つのお伽噺を聞かせてくれたのです。 その一つに、"鶴の恩返し"の噺しは最も私の全身を打ち震わせたものでした。暗闇で聞く幻想の世界は果てしもなく美しく、色の鮮明な別世界に誘ってくれたのです。この頃から私は多感な夢見る少女になっていたようです。 私は現実を忘れて、このバーチャルな想像の世界に夢中になり、あれ以来、語り部は変われど、"鶴の恩返し"は何度聞いても、まざまざと同じ風景が蘇り、いつの間にか主人公としてその世界に私自身を投影しているのか…今回も記事に接して、気づけば滂沱の涙を流していました。 そして…あの忘れもしない8月6日、8月9日と相つぐひろしま、長崎への原爆投下の日、そして6日後の8月15日、終戦宣言を告げる天皇陛下の玉音放送に家族、親戚が小さな真空管式ラジオの前に集まり正座平伏して聞いたのです。 こうして、間もなく我が家族は父の仕事の関係で爆心地ひろしまへ戻り、見渡す限りの焼け爛れた瓦礫の山々の中で過ごしたのです。こうした積み重ねは、戦時中の殺伐とした国防色の環境をさらに凌ぐ、人間究極の残虐行為が創り出した絶望的風景そのものでした。それが私の心身に猛烈な色への飢餓状態をもたらしたのです。 26年前、私が山形に創設された芸術系の大学に赴任したのも、不思議なご縁でしたが、底流には広島での反動が原始の山野が招く本物の生きている色に浸かりたいという情念。そして、自然が豊かな静寂こそが人の心に描き出す美しい民話であり、ファンタジーだった気がしてなりません。 今回紹介された11話のうち、特に鶴の恩返しを始め、白竜湖、むじなの御所、蛙石 (びっきいし)、法師柳のタイトルは、私にとってどれもこれも、御縁が一杯! 蛙石 (びっきいし)に至っては、26年間通い続けている作谷沢、まんだらの里の話なのです。南陽市の鳥上げ坂の大石が作谷沢畑谷地区にある大沼の主だったビッキが歩き疲れて石になったものらしく、直線距離にして20km離れている南陽市と作谷沢が同じ民話を共有しているのが、面白いと思います。 今こそ立派な国道13号線が走ってはいますが、昔は、白竜湖と大沼を結ぶ道など到底考えつかない程、複雑な地形が立ちはだかっています。それでも何故、畑谷の大沼から南陽市白竜湖を目指したのでしようか? 調べますと、大沼には餌が不足していたからと謂われます。私の推測ですが、昔は皆歩いたのですね?つまり皆健脚に違いなく、山や谷など無視していきなり、直線距離でやみくもに歩いたに違いありません。 斯くして私は山形の土地魂(ダマ)にとり憑かれてしまったのです。 紅山子  


協力(順不同)

南陽市役所 〒999-2292   山形県南陽市三間通436-1 電話:0238-40-3211
夕鶴の里 〒992-0474 山形県南陽市漆山2025-2  電話:0238-47-5800
南陽市観光協会 〒999-2262 南陽市若狭郷屋839-1(南陽市商工会館内) TEL 0238-33-9512
環境省 〒100-8975 東京都千代田区霞が関1-2-2 中央合同庁舎5号館
TEL 03-3581-3351(代表)
日原もとこ氏(紅山子 )
東北芸術工科大学名誉教授、アジア文化造形学会会長、風土・色彩文化研究所主宰