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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

2019年7月20日記事より、プロデューサーカットお届けします

2021.08.10 22:00

「イザベラは夫のバルチンスキさんのことで心配したあとだから、少しはゆっくり休んだほうがいいです。」ショパンの妹イザベラは父ニコラスが亡くなった後、母ユスティナのことはイザベラ夫妻が面倒をみていた。バルチンスキは州立高校で数学の教鞭を執っていた。

ショパンの1歳違いの妹イザベラは、父ニコラスが亡くなる1年前の1843年からワルシャワ慈善協会の孤児院で責任者として孤児院の研究所の学校を国に命ぜられて監督をしていた。

そのイザベラの夫が何か気が滅入るほどのことがあったのか、イザベラが忙しいためニコラスが亡くなったばかりで、母ユスティナを支えることと、それぞれの仕事の重圧など、疲れきっていた二人であった。

「ルドヴィカのご主人のカラサンテにイザベラは愚痴を聞かせればいいよ。

カラサンテは頑丈であり、やらなければならないそれらの仕事に彼は耐えられると思うよ」

カラサンテもイザベラと同じワルシャワ慈善協会で働いていた。そこで、保護委員会と孤児をサーカスへ就職させる審査委員会のメンバーと行政部で物乞いの防止部で働いていたのだ。

カラサンティはルドヴィカと結婚したことで、ショパンが相続するはずだった父ニコラスの遺産を受け継いだことになっているが、実はそれは、ショパンが音楽家になるために費やされた借金が残され、それを受け継いだだけであった。

ショパンは家族のもめ事は、自分が原因ではないかと心が痛むのであったが、どうすることも出来なかった。

「僕は今年はノアンで奇妙に感じることがあるのだよ。

午前中に僕はよく9番の部屋の隣にある部屋を見に行くのだけれどのぞいてみるとそこには誰もいません。

それは時々、数日間ここノアンに来ている訪問者によって占められているのだよ。」

ワルシャワで辛い仕事に従事している家族の借金をなんとかしてあげたいが、自分もノアンに来てまで監視されているのだよ、とそれとなくショパンは自分の異常な状況を伝えた。

「それに、僕は朝はもうチョコレートを飲んでいません。

僕はピアノを壁へ動かさせました。

ソファと小さなテーブルがあったところでルドヴィカが

スリッパを刺繍していた部屋です。

愛人は他の仕事をしていました。

真ん中に私が書いている机があります。

左側に僕の楽譜の一部とティエール地方のコピーがあります。

そして、ザレスキのいくつかの詩

と、右側に、ケルビーニの論文があります。

そして、僕の私の目の前には、ルドヴィカが送ってくれたリピータ・ウオッチが置いてあります。その場合は4時です。」

ショパンはルドヴィカから送ってもらったいわゆるアラーム時計(当時1845年に販売されたばかりのミニット・リピーターと呼ばれる時計で、450スイスフランで凡そ45万円から60万円した)を4時に合わせていた。だから、もう眠気覚ましにチョコレートを飲む必要もないのだ。

そして、愛人とはサンドのことである。

ショパンはカラサンテやルドヴィカから「愛人と一緒に生活して恥だ」と言われたのだ、それで、ショパンは嫌みで言い返して

サンドのことを遭えて愛人と書いた。

そして、

「バラとピンク、ペンと一本のカラサンテが忘れて行った手紙を封印するシーリングワックス、

僕はルドヴィカと過ごした部屋をそのままにしてあります。

その隣の部屋に行くと、愛人が働いている部屋です、

その瞬間、いつも僕は遠くの奇妙な空間の領域に行きます。

もちろん、それらは架空の空間にすぎませんが、僕は恥ずかしいとは思いません。

結局、僕たちは(昔のワルシャワの家族)

家の中ではよく言っていたことわざにしか過ぎません。

“彼は彼の想像力で戴冠式に行きました“

そして僕はそれ以上に面倒なことに本当に生まれつきのマゾビア人だからです。」

ショパンは、ルドヴィカが来てくれた時の部屋の印象をあえて詳しく書いた、そして、今頃は、ワルシャワで姉や妹夫婦が母にフレデリックは愛人と同棲していてふしだらになったから恥ずかしいと話していることがショパンは想像がつくのである。事実、フレデリック・ショパンがわざわざ愛人と書くようなことは今まで一度もなかったところや彼の性格から考えるとショパンは嫌みで言い返しているのだ。

ルドヴィカから「恥だ」と言われたのであろう、それに対しての返事が「僕は恥とは思わない、僕の心はサンドが目の前にいても別の場所へ逃避しているのだ。僕はマゾビア人だから、ポーランドの僕が生まれたマゾフシェ県ジェラゾヴァ・ヴォラのことをいつも想っているのだよ」ショパンはサンドを拒絶していたのだ。

更に、マゾビア人であるショパンはマズルカにこだわっていたのだ。

「僕は苦労なしに3つの新しいマズルカを書いた。

それはベルリンで出版することになった。僕の知り合いのまともな仲間で父親が音楽ビジネスを始めているシュテルンさんという熟練した音楽家です。彼は僕のマズルカを買いたいと言って来ました。

僕はまた、ベートヴェン委員会からの招待を受けました。

ベートヴェンの記念碑が完成したため、僕に除幕式を頼んで来たのですよ。

ルドヴィカは僕が出席するかしないか想像がつくだろう。けれど、ルドヴィカが近くまで来てくれるということならば、僕は自分自身を苦しめることになるであろうと思う。」

この時、(1845年7月)

ベートヴェンの記念碑はドイツのボンに1845年8月12に公開される予定だった。

ベートヴェン委員会のことはショパンはリストとシューマンの遺恨があったのだ。それは、ショパンは忘れもしない1841年のことだった。

ベートーヴェンの記念碑への寄付金がフランスとして425フラン未満だった。しかし、

リストがケルン大聖堂のタワーの増築工事にともなう寄付金を集めたお金から、個人的なお金として寄付金を1万フラン以上流用したのだった。リストはそのれなりにはダグー・マリーの力で儲けてはいたが、基本的に貧乏だったためかなり疑わしいのであった。方やショパンは1841年4月25日にプレイエルホールで演奏会を何人かで開いたが2000フランの収益だった。そのお金をベートーヴェンの記念碑への寄付金に当てた。

その時、更にリストからの追い落としにはショパンはひどい目にあわされたのだ。

風刺評論をシューマンのガセット・ミュージカルに掲載したため、ショパンとの友情が壊れた原因であり、ベートーヴェン委員会にショパンが外された原因でもあったのだ。

恐らくは、ルドヴィカが1844年のノアンの帰りにウィーンへ立ち寄ったときに、ベートーヴェン委員会への働きかけをしたのであろう…。

カラサンテが父ニコラスから借金を受け継いだはずだが、カラサンテも決して金持ちではなかったはずだ、ルドヴィカからの時計といい、ベートーヴェン委員会への働きかけといい、ルドヴィカはどうやって金を工面したかは謎である・・・



1803年5月28日ルブリン-1878年5月9日ポーランド

Birthplace: Lublin, Lubelskie, Poland

Death: 1878年5月09日 (74)

ul. Wspólna nr hip. 1632, Warszawa, Mazowieckie, Poland

1803年5月28日にルブリンで生まれ、6月2日に洗礼を受けました(出身地はポーランドのカリシュ地方)彼はルブリンのVoivodship Schoolを卒業し、その後大学で勉強する前に1年間共同研究者または一時教師として働いていました。 1823年9月17日、彼はワルシャワ大学哲学学部で数学の勉強を始めました。その時彼はショパンの家庭教師になった。

彼は工科大学の準備学校と学校の学校で分析幾何学と代数を教えました。大学を卒業する前に、1826年の初めに彼はショパン家から引っ越した。

同じ年の1826年に彼は哲学の修士号を取得しました。それから彼は予備校で家庭教師としての仕事を受け入れました。産業と貿易に関するさらなる知識を得るために、1827年10月に海外に送られた14人の大学卒業生のグループに彼は選ばれました。

1828年に彼はパリのスクールオブコマースでコースを修了し、ヨーロッパ各地を科学の研究のために旅行しました。それから彼はイギリス、フランス、ドイツ、イタリアそしてスイスに行きました。 1831年に帰国した後、1831年から1841年11月25日までワルシャワの州立高等学校で高等数学の教授として働いていた。 

1838年から1840年にかけては、中等学校教師の教育を行っていた。

1833年から、20年間、彼はZamość条例の事務所で簿記係としても働いていました。政府の歳入と財政の委員会やジーミアの信用協会などのポーランド王国の多くの機関は、記帳の導入に関して彼のアドバイスを使用しました。 

1836年から1837年にかけてメリーモントの農業研究所の簿記(経済計算)の教授でした。

1834年11月8日、アントニはフレデリックの妹であるワルシャワのイザベラ・ショパン(1811-1881)と結婚した。

 (1842-1843)彼はまたGuberniya高等学校の査察官でもあり、1836年から1841年にかけて最高検査委員会のメンバーを訪問した。(義理の父MikołajChopinと共に)。 1843年に彼はすでにロシアの聖騎士団を持っていた。 1843年9月2日に、教官を辞任しました。政府歳入庁の鉱業部門の事務所の長を務めた。 1845 - 1847年に彼はこの事務所の長を務めました。 1848年に彼はヴィスワの蒸気船の管理委員会の取締役、75万ルーブルの銀の首都を持つAndrzej Zamoyskiの会社、そして後にこの理事会の全権委員になった。 1845年 - 1849年の間、Barcińskiはワルシャワの福祉協議会のメンバーであり、そこで彼は財団の 基礎を取り扱っていました。