フットボールは宗教か、哲学か。
フットボール(サッカー)の根源は「Folk Football(民俗フットボール)」だと言われている。その呼び名は諸説あるが、この「Folk Football」から、現代のフットボールとラグビーが発展をしたことは間違いない。そもそもこれは、イギリスの各地域で行われていたキリスト教の「祭事」であり、催し物の一種である。Folk Footballが行われた経緯や、たどってきた歴史、その他意義などは、行われている地域によって異なる為それについて語ることは大変難しいが、一つ分かることがある。
どうやらフットボールは「宗教」でも「哲学」でもないということだ。
そもそもフットボールは「催し物」であったわけだし、現在はスポーツであり「競技」である。「フットボールは宗教か、哲学か」などという議論は不毛なのだ。
ただ、不毛なことを考えるのが好きな人間もいるということを、分かってもらわなければならない。
「宗教」と「哲学」
では、「宗教」と「哲学」は一体何が違うのか?というところから話を進めていきたいと思う。
が、しかし。それを語るには私が研究レベルでこの問題に取り組んでいなければならず、こんなだれが見ているのかわからない、そもそもフットボールについて考えるウェブサイトには、壮大すぎる観点だ。
そこで、いつだったか、なんだったか、覚えていないがある著書の中で読んだ「宗教」と「哲学」の違いを説明した一文がわかりやすかったので、強引にもそれを「答え」として話を進めていこうと思う。
曰く、ある思考の橋を渡っている最中に、どこからか一つの答えが聞こえてきたとする。
それはこれまでの歩みを肯定する一つの「答え」であり、歩みを進めていた者にとっては大きな発見である。そこで、「これより先はない」と判断して橋の下に飛び込むのが「宗教」であり、先が見えない橋を尚も渡り続けるのが「哲学」である、と。
なんともわかりやすい例えである。
宗教とはある一定の場所まで歩みを進めたのち見えてきた「答え」であり、哲学とは人生を通じて(または人生よりも長く)、何かを考え続けることである、と。
ここで断りを入れておきたいのは、そもそもこの引用は私の曖昧な記憶の中から引っ張ってきたものであり、おそらく一語一句間違えている。に加えて、これの捉え方もあくまで私の捉え方であって、あっているのかどうかもわからない。(なんとも哲学的ではないか)
フットボールは宗教か、哲学か
本題に入ろう。
「フットボールは宗教か、それとも哲学か。」
前述した「答え」から思考すると、フットボールは間違いなく「哲学」である。
なぜならフットボールというものに、「行き着く先」は存在しないからだ。それぞれが「正しい」と思っているフットボールは確かに存在し、その者にとってはそれが「行き着く先」のように見えてしまうことがある。しかし、時が経てば全くもって「橋の途中」であったことに、やがて気がつくことになる。あたかもそれが「宗教」のように「正解」として語られることがあるが、それが長続きしないのが、フットボールというものなのだ。
であれば、フットボールを考えるときには、より「哲学的」に考えるのが得策だ。自分はどういう哲学を持つのか。「愛とはなんなのか?」を考える哲学者ように、「フットボールとは何なのか?」を考えるべきなのである。そう思うと、フットボールを「わかった気」になるのは大変危険だということがわかる。フットボールを考える以上は、橋から飛び降りてはいけないのだ。
「哲学」に知識は必要か
フットボールが「哲学」なら、知識や情報はあまり大きな意味を持たないということになる。それよりも自分(自分たち)がどう感じるか、自分(自分たち)はどのようにプレーしたいのかの方が重要で、それを度外視して知識や情報を取り入れても、無意味なのである。
クラブという「宗教」
そうは言っても、歴史が深い欧米や南米の「フットボールクラブ」は、一種の「宗教」なのかもしれない。それぞれが持つアイデンティティーに誇りを持ち、これが「正解」だと言わんばかりに貫き通すその様は、限りなく宗教に近い。アイデンティティーに反するものはクラブから去り、クラブのアイデンティティー体現するものだけが「クラブ」という宗派に残ることができるのだ。
スタジアムで熱狂するフットボールファンを見ると、もはや宗教を超えた存在なのかもしれないとさえ思ってしまう。
フットボールとは何か?
長くなったが、何を言いたいのかというと、フットボールというものは単なるスポーツの域をはるかに超えており、そのシンプルでいて複雑な「何か」を理解しようと努力をすることが、プレーを分析するよりもはるかに先だということである。我々日本人は、その作業を怠っているのである。
そう思うと、「フットボールは宗教か、哲学か」という一見不毛な議論は、不毛ではないということがわかる。
フットボールは「哲学」なのだから、橋から飛び降りてはいけないのである。
もちろんこれは私の行き着く先ではなく、これからもまるで「哲学」かのように考え続けるだろう。もしかしたら5年後、「フットボールは宗教だ」なんて言い出すかもしれないから、その時はまた拙い文章力と知識で披露したいと思う。