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トリニティ

イマのいまを生きる

2021.08.31 14:00


夏の雨


こんなに雨が降り続いたことは

記憶にない。



毎朝雨の音で

目覚めていた。



夏休みに帰省した娘達が

遊びに行けーん、と

叫んでいる。



娘たちの帰省で洗濯物も

いつもの2倍。


コインランドリー通いが

すっかり日課になる。



いつもと違う夏に

違和感を感じながら



もう一年以上も


いつもと違う日々が

続いていることにも

改めて気がつく。



近所のコンビニが

人手不足で閉店して



いつも行くお店が

また一つ減っていく。



夜の田舎街は

以前にもまして

閑散と静かで



いつもと違うも

一年が過ぎると




その前のいつもが

どんないつもだったのかも

曖昧になっていく。




いつものいつもは



どのくらいの期間なんだろう。


それも人によって

違うのだろう。




そうこうするうちに娘たちも

それぞれの住む場所に戻り



家を出て6年目の

長女のいつもは



もうすっかり

自分の

アパートになっている。






よく考えてみれば



両親の子供時代は

戦時中だった。




私の子供の頃に

テレビがようやく

一家に一台の時代で



テレビこそが娯楽だった。


テレビがないことなど

創造もしていなかった。




けれど

息子はテレビを持たない。




20代の頃に

あっという間に

携帯電話が普及して




今ではスマホが

辞書も

計算機も備えて

お財布の代わりまで。


世の中は変化は

どんどん加速していく。





でも



そんな変化を超える

普遍的なもののように

使われる言葉もある。



常識



例えば

お礼状は手書きの葉書

年賀状と暑中見舞い

お中元やお歳暮のご挨拶



婚約といえば


結納品

結納金

お仲人



今ではお礼状は

メールやLINEでに変わり



お中元もお歳暮も

必要ないという方も

増えつつあって




結納は婚約に変わり

結納金もなく


時計や指輪を交換するという。




私たちの頃には

常識だったことは



今はもう古い慣習。




10年ひとむかし




常識やあたりまえは

簡単に翻る。




わたしたちの一生の

軸になるような

ルールは



実際には

どこにもないのではないか。



そんな気がしていた。




思っている以上に

言葉に縛られている。




本来ならば

普通に考えれば

常識的に言えば

あたりまえのことだから




そんな暴頭につく言葉が



見えない鎖のように

人を縛っていく




10年もたたずに

変わっていく

曖昧なものに




強い意味を

持たせないように

しなければと




最近は

そう思う。



コロナ禍で

人と人の距離が離れていくなかで



多勢で集まることも減って


だいぶ長いこと

会えない人もいて



確実に増えているのは

1人の時間で



ネットの情報も動画も

なかなか面白く、

 


読み物としても

鑑賞するものとしても



飽きさせない。



あまりの雨と

あまりの暑さに



今年は草取りのペースが遅めで

昨年だったら

許せないくらいの

草の背丈も

 


なんとなく見ないふりが

できるようになり。




そんな怠け者の時に

桐島かれんさんの

お部屋の植物の動画を見て

刺激を受けた。




植物は古い家の

見映えを良くすることに

気づいてしまった。




そうだ、

家の中の緑化計画をすすめよう!

とばかりに



ナーセリーに出かけ



土と鉢と肥料と

観葉植物を買い揃えた。



10鉢くらいの観葉植物を

新しい鉢に

植え替えたり



花の終わった

紫陽花を

地植えにしたり



庭の観音竹を

掘り上げて鉢に行けたり

いろいろゴソゴソ

作業してきた。





植え替えた鉢を

各部屋に置こうとして

気がついた。



植物には

お日様が必要だということを。



どこにでも置けるわけでなく

お部屋の半分くらいに

日がさすことが

必要だった。



我が家は太陽に向かって

長方形で

半分は北向きで

日がさす部屋が限られていた。



日当たりの良いリビングの床に


日なた難民の

観葉植物の鉢が

いくつも並んでいる。




観葉植物を置くには

本棚やら

テーブルやらがあって



高さの高低があって

見映えも良くなるのだ。



うううむ



でも、まぁいい。



まだ片付いていない

(いつまでそのままなんだ)

座敷があるので



東南向きのその部屋を

そこを今年中に

大断捨離をして



そこに日なた難民の観葉植物たちを

置くことにしよう、



と植物たちのために

一大決心をする。




そんな作業を繰り返しながら



いつも通りも

常識も


どんどん過去になっていくなかで



いまの自分にとって

本当のものとは

なんだろう、

とぼんやり考えていた。




過去も未来も

どんどん変化していくのなら




自分にとっての

本当は目の前の

イマ

でしかないのじゃないか。



イマ


わたしはがどうしたいのか


どう在りたいのか。





コロナによる自粛で



ひとは群れなくなりつつ



憂さ晴らしも

できなくなり



でも

それはそれで


自分に向き合う時間を

増やしてくれる。




そして

小さなことから

大きなことまで



ひとの意見を離れて



自分でものごとを

決めることも

増えていく。



ひとりで決めることに

不安もあるけれど



それでも

自分の中にわいてくるものに

気づけるようになったら




自分で決めることが



だんだんと

心地よくなっていく。




一見窮屈な日々に見えても



いつも何かしらの恩恵が

あることに



毎日を粛々と

繰り返すことで



気づいていける。




先の希望や目標よりも



イマ、目の前の出来事に



心を込めて

日々を過ごしていると



いつのまにか



魂の望む日々を




過ごしている自分に出会っていく。