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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

2019年7月29日記事から、プロデューサーカットお届けします

2021.08.12 22:00

時は1845年の中旬、ショパンは毎年のように訪れるノアンで、サンドとサンドの子供たちと、客人のポーリーヌ・ヴァルド夫人を招いて過ごしていた。

水害で動きがとれなかったせいか、ワルシャワの家族へ5日間かけて書簡をしたためる毎日のショパンであった

「僕はこの秋、オプレスコ夫人がワルシャワを通ると聞いたのですが、あなたに(ルドヴィカ)会えるかはわかりません。オプレスコ夫人は僕にたいへん親切な音楽愛好家です。

ご夫人は、僕の最愛のママをご夫人の馬車に乗せて、僕のワルシャワの家族全員をパリに連れてくることを計画しています。

オプレスコ夫人は僕に最も親切でとても完璧に誠実な人です。

もっと前にオプレスコ夫人のこの計画について、あなたに言っておくべきでしたが、僕は

夫人の計画を楽しんでいたことを認めなければならないです。しかし、あなたは

夫人に会ってください、そして、僕は夫人の並外れた愛を受け取っている。だからあなたはオプレスコ夫人に出来るだけ親切にしてください。」

ショパンは自分がポーランドに帰れないことが何かで決定的にわかったのか、このまま家族もワルシャワにいても制裁を受けるだけだと思ったのであろう、水面下でオプレスコ夫人とワルシャワの家族の亡命計画を立てていたのだ。

「オプレスコ夫人の優しさが僕はとても好きです。夫人はは並外れた愛情の持ち主だが、

夫人の娘のキャサリン・スーザ王女は僕の弟子です。要するに、夫人の娘は王女として立派な女性だが、ちょっと生意気です。」ショパンはオプレスコ夫人についてそうワルシャワの家族に報告した。(キャサリン・スーザ王女には1841年に幻想曲作品49を献呈している)

そして、ノアンに滞在し、水害でノアンから発つのが遅れているポーリーヌのことを話した。「ポーリーヌ・ヴァルド夫人もワルシャワを訪問すると話しています。

彼女は僕にスペインの歌を歌ってくれました。

昨年ウィーン滞在中に書きあげたそうです。彼女はあなたにもその曲を歌うと約束しました。

僕はこの曲が大好きで、このような種類の曲で何か他の曲でよい作品は思い当たりません。この歌はあなたと僕の想いを一緒にします。僕はこの曲を聴くといつも豪華な喜びの中にいるのです。」毎年のようにポーリーヌはノアンに滞在しても歌手だというのに、一度も歌う様子がなかったのだが、この時は、滞在が長引いたせいか、ショパンに歌を歌って聴かせたというのだ。

「僕のソナタ[作品 58]と "子守歌"はすでに出版しました。

"子守歌 *の説明は、ルドヴィカが望んだことを思い起こさせます。

僕は、その他あなたにパリについて何を伝えましょうか。 ホフマン夫人は僕がパリからノアンへ来る前に会った時、ホフマン夫人は病気でした。

ホフマン夫人の病状は恐れられました。僕はアルバートから手紙を貰いました。そこにはホフマン夫人のことは書いてなかったので、ホフマン夫人の容態は良くなったのだと思います。」アルバートとはビクトリア女王の夫なのであった。


ナナ・ホフマン夫人の肖像 木彫画から

ピアノ製造業会社  1838年~1988年までスウェーデン・ストックホルムに存在した。

アウグスト・ホフマンス・ピアノファブリック会社の工場は当初製造業者(父と息子)によって所有されていた。

1859年に工場は1827年にザクセン州に設立された楽器メーカーアウグスト・ホフマンスに引き継がれました。彼はドイツ、オーストリア、ハンガリーで修業をした。ライプチヒにいる間、ホフマンは伝説のハインリッヒ・スタインウェイの友人でした。

アウグスト・フォフマンは、1840年代にカールスハムンでピアノメーカーAFSätherbergと共に短期間働き、ドイツに戻り、ストックホルムに定住しました。ピアノは1870年代初頭、1873年から74年にかけて200台が作られました。スタンディングピアノの需要が伸び1884年から88年に年間40台しか製造できませんでした。

アウグスト・フォフマンは1884年に亡くなり、未亡人ナナ・フォフマンが工場を受け継ぎました。業界で初めて王立の製造会社となり、25人の従業員を雇い、そのうち6人は楽器製造業者および調整技術者、その他は大工でした。ホフマンは独自のデザインを開発し、1890年代初頭にストックホルムを訪れて事業を始めたスタインウェイによって援助されました。購入した半製品を主に組み立てる大量生産の他の多くの工場とは対照的に、ホフマンの事業は多くの手作業を特徴としていました。