金具屋の歴史その4(昭和10年前後1930-40頃)
当地一番の観光旅館を目指す―計画されたのは渋温泉に聳え立つ木造4階建の豪華な客室楼閣、300名が一堂に会せる巨大な宴会場、名物となるような凝った木造浴堂でした。
この工事の棟梁を任せたのが、小布施の宮大工、三田清助(さんたせいすけ)。彼は若いながらも木信地方の名匠と呼ばれ、さまざまな社寺仏閣や作詞家高野辰之の都内の住居を手掛けたことでも有名でした。
計画からおよそ10年余り、昭和9年、上棟式が行われました。この写真に写っている人数を数えると80名。大変な工事であったのがわかります。
(※上の2枚の写真は三田さんの親族の方より提供していただきました)
現在、たまに、玄関部分の建物で斉月楼の向かって右側が隠れてしまっていって残念だと言われたりするのですが、この写真でもわかるように、斉月楼は向かって右側の部分は手前の建物に接続する形で作られているので、そもそも右側が「ない」のです(階段部分で壁に細工はない)。玄関はその手前の建物の部分にありましたので、実は玄関や入り口もない、という建物なのです。
そして昭和11年、いよいよ斉月楼が完成します。
完成当初に撮られた写真を何枚かご紹介
昭和11年の当館のパンフレット(お泊りの志をり)には以下のように書かれています
”殊に本年は幾多先進地の長所のみをとりいれて断然皆様の御氣分にお添ひすべく新館齊月樓の建築落成を見ました事は當館としても誠に心強く感ずると共にこれを機會に一段とサーヴィスに改善を加へ以て皆様の御満足を仰ぎ度いと心掛けて居ります。”
”位置―本店(※注:玄関部分の建物のこと)に連接し大木平の中腹にありて南面し裏は一面杉林に囲まれ通風採光豊かにして本店玄関より數奇をこらしたる石廊下に依って連絡す”
”宿泊様式ー一,二泊の御清遊並にご静養向にして各室共に一軒の独立家屋たらしむるべく苦心せる高級建築にして當館は申す迄もなく當地一帯の最高級向”
この斉月楼にかける並々ならぬ思いが伝わってくる文章です。
昭和11年となりますと二・二六事件の起こった年、さらに翌年には日中戦争の開戦と日本が徐々に戦争に傾いていった頃となりますが、まだ文化娯楽に関しては大変華やかな時代でありました。その風潮とあいまって、完成後数年間は順調な営業を続けておりました。
- - - - -
さて余談ですが、上記の写真を『ディープネットワークによる白黒写真の色付け』という研究サイトのサービスでカラー化をしてみました。実際の色とは異なるはずですが、白黒よりもより現実的な感じになりました。見比べてみてください。面白いですね。
(こちらのプロジェクトサイトの技術を使用しています)