温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第76回】 筒井清忠 編『大正史講義』(ちくま新書,2021年)
浜田省吾氏が1988年に世に放った曲に「RISING SUN -風の勲章」がある。バブルの盛りに出されたものだが、今でも氏の公式チャンネル内で2011年のライブ(ON THE ROAD 2011)映像がアップされている。「焼跡の灰の中から強く高く飛び立った 落ちてゆく夕日めがけ西の空を見上げて」の歌詞ではじまり、「1945年焼跡から遠く飛び立った今」で終わる。そこに寄せられているファンのコメントを読むと、反戦ソングとして受け止められる向きが強いが、私は一ファンとして詩と曲をじっくりと聴き込むほどに、名曲だがそれは単純な反戦ソングだとは思えない。
1945年をひとつの区切りとして捉えるアプローチは便宜上よくある。ただ、それがあまりにも当たり前となり無意識に過ぎることも問題だと思っている。少し前に流し読みをした程度なので細部までは覚えていないが、経済誌「東洋経済」が政府の打ち出した新型コロナウイルスを巡る入院制限についての混乱をウェブでレポートしていた。政府の言い分、与野党の声、国民や現役医師の意見などをいわゆる総花的に拾っていくごく普通の記事なのだが、さっと読み流してしまいそうな声のなかに総理経験者のものとして「コロナ禍の現状は、戦後経験したことのない国家的危機」といったものがあった。総理経験者といっても現与党・野党、市井のなかにもおり、この声の主が誰かはわからないが、なぜあえて「戦後経験したことのない」と区切る必要があったのだろうか。私がこの場に記者として陪席し質問が許されるならば、「それでは戦前の経験も踏まえたとすれば、どの程度の国家的危機として受け止めておられますか?」と聞いたと思う。
すでに俗諺になっているものに「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」といったものがある。ここから敷衍することになるが、なにもかもが自らの生きた記憶と経験の範疇で判断しなければいけないとはならない。そして、1945年を新たな起点として捉えることはできるが、それ以前の歴史がすべて断絶したわけでは当然ないのだ。いつの間にか戦前のことは参考にならない、または参考にしてはいけないといったものが責任ある人たちの意識下に刷り込まれ過ぎているのではないか。明治維新以降、日清・日露戦争など「坂の上の雲」を登りきるくらいまでをフォーカスするが、そのあとの大正時代は吹っ飛ばして、昭和以降敗戦までは暗く悪く重いものとして色眼鏡をかけてみることを求められがちだ。
それでは戦前の歴史に学ぶところがないのかと問われたら、私はまったくそう思わないのだ。最近ちくま書房から新書として出版された本に『大正史講義』(筒井清忠・編)といったものがある。新書にしては500ページ越えと分量が多く、全部で26章(講)にわたり、その書き手は23人を数え、ベテラン学者から若手学者まで様々だ。第一次護憲運動、イメージ選挙、米騒動と経済問題、政党内閣と普通選挙運動、社会運動、女性解放運動、関東大震災、軍縮、第二次護憲運動、ポピュリズム政治、幣原外交、大正天皇論などそれぞれの書き手が得意とするテーマなどで大正時代に切り込んでいくスタイルだ。一人の書き手が担当して通史を書いているわけではないので、その価値観、視座、信条、思想的立ち位置などもかなり振れ幅があり、新書といった特性からかそれぞれが新たな研究成果を織り込むべく努められている。なお、この本で「大正デモクラシー」といった表現があまり登場しないのだが、そうした典型的なレッテルがないことがまた柔軟なアプローチと思考を許容してくれるのだ。
読み進めるほどに、油断すると教科書的な知識と理解だけに流れやすい大正年間にも随分と学ぶことが多いことに気づかされる。政府と国民が分断されること、国論が割れて混乱すること、政党政治への失望とそれを超えるリーダーへの期待、イメージで選挙が左右されること、社会運動とその末路、貧困や差別の問題。現代において直面する問題の類似形態が散在しているのだ。そして、それぞれの立場と言い分と利害が相克するなかで歩んできていることを生々しく知ることになるが、それらの「良かった部分」、「悪かった部分」も含めて歴史を自家薬籠中の物としていくことがいま改めて求められていると思うのだ。少なくともリーダーたちはそうした歴史を体得の上に経験を織り交ぜて判断と決断をしなければならないはずだ。
少しずつ話題に上りはじめた私権制限も国家緊急権(緊急事態条項)も、政局に右往左往して論じては扱えず、大局でもって論じ扱うべき代物のはずだ(この運用にあたっては、政局を超えて扱えるのかとリーダーたちは自らに問いを突き付けられることになる)。
ただ、日本が「焼跡の灰の中から強く高く飛び立った」のは何も1945年だけではなく、ずっと昔から何度も経験してきているのだ。その知恵の深みをどれだけ感じえるか、信じえるかは、学びの姿勢を自らどれだけ拡げていけるか次第となる。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。