白蓮の花
Facebook・清水 友邦さん投稿記事
白蓮の花はサンスクリット語でプンダリーカ(Pundarika) といいます。
初期大乗仏教経典の「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」は法華経と漢訳され、宮沢賢治は法華経により「悪しき幻想と妄想が尽く去る」と手帳の中に書いています。
蓮の種が泥の中にあると汚れているように見えますが、その内部には美しく咲いて輝く蓮華を秘めています。
蓮の花のように本当の自分が汚れることも傷つくこともない永遠の存在だということを示すたとえ話が法華経に出てきます。
以下は『法華経』の信解品( しんげほん)にある長者の窮子(ちょうじゃのきゅうし)という有名な話です。
『ある長者の一人息子が家を飛び出して、 放浪生活を何十年もして50歳になりました。 飛び出した父の家は商売が繁盛して倉は金銀財宝であふれかえり、大勢の下僕や使用人を雇い莫大な財を築いていました。しかし、その家にはその財産を受け継ぐ子供はいませんでした。父はいつも家を出た一人息子のことを思って心を痛めていました。
ある日、諸国を流浪して乞食同然となった息子が自分の実家とは知らずに屋敷の前を通りかかりました。中をのぞくとあまりにも家の様子が豪勢なので、「場違いなところに来てしまった、こんな処にいたら捕まって何をされるか判ったもんじゃない」と息子は怖れをなして逃げ出してしまいました。
息子に気づいた父親は、さっそく使用人に命じて追っかけさせました。一生懸命逃げる息子を使用人が捕えると、息子は捕まって殺されるかもしれないと思い込み「どうか勘弁してください」と哀れな声を出し、あまりの恐怖の為、とうとう気絶してしまいました。
長年の放浪生活ですっかり心まで卑屈になってしまった我が子に父は落胆します。ひとまず、息子の目を覚まさせて放免しました。そして、こんどは驚かせない様に風采のあがらない下働きの使用人を使わして「糞を除くいい仕事がある、他より倍の手当てが出るからどうだ働いてみないか」 ともちかけたのです。喜んでこの話に飛びついた長者の息子は家に住み込みで下働きをはじめることになりました。
父は息子と同じ貧相な着物を着て話しかけました。「お前は他の使用人と違って、 愚痴を言わず正直でよく働く。わしの子どものように扱おう」と話しましたが、息子は自分は雇われている賤しい者だと思ったままでした。
年月を経て父は真面目に働く息子を次第に重要な仕事をまかせて財産を自由に管理させるようにしていきました。それでも息子は財産は長者のものであり、貧しい自分には関係のないものだと思って働いて暮らしていました。
息子はしだいに新しい境遇に適応して心から卑屈さが消えていきました。ある日、長者は自分の死期が近づいたことを知ります。そこで、親族をはじめ関係者に集まってもらい、ついに初めてこの子が自分の実の息子であることを皆に打ち明けます。そして、 一切の財産をこの息子に譲ると宣言したのでした。』
この話の解釈はいろいろありますが話の本筋は、最初から長者の子供なのに自分は貧しく卑しい人間だと思い込んでいるところにあります。
そして長者の息子という自己の真実に気がつくまでのプロセスをのべているのです。
自己の本性は生まれることも死ぬこともない永遠の存在だということを法華経では「久遠の仏(ダルマカーヤ)」といいます。
タントラの教えで存在には三つの身体(トリ・カーヤ)があってそれぞれ法身(ダルマ・カーヤ)報身(サンボーガ・カーヤ)応身(ニルマーナ・カーヤ)と呼んでいます。
法身(ほっしん)は初めも終わりもない究極の実在である宇宙の真理を表し、仏が衆生の救済に応じて目に見える肉体に変化したのが応身(おうじん)。報身 ( ほうじん ) はその中間領域です。
ウパニシャッドの身体論に対応させると法身は元因身(コーザルボディ)、報身は微細身(サトル・ボディ)、応身は粗大身(グロス・ボディ)となります。
三つの身体すべてを目撃しているのが「空なる観照者」本当の自分です。
魂は自分が誰であるかすっかり忘れてマーヤに飲み込まれて苦しんでいます。
すべての現象に実体がなく、いままで思い込んでいた自分が思考が作り出していた夢だったことに気がついたとき、永遠の光に包まれて静かに安らいでいる本当の自分に出会います。