大東亜戦争終結の契機について
先の大戦で亡くなられた内外の全ての方々に謹んで哀悼の意を表すとともに、ご遺族ならびに今なお深い傷痕に苦しむ皆さまに心からのお見舞いを申し上げます。
さて、終戦の日を迎えると私は毎年釈然としないことが脳裏を過るのです。それは他でもありません。終戦のトリガーとなったのが広島市と長崎市に投下された原子力爆弾によって過大な被害を被り、天皇陛下と国家首脳がポツダム宣言を受諾し大東亜戦争の終結を決断したというまことしやかな通説についてです。1945年8月15日、確かに昭和天皇による玉音放送において下記のように陳ぜられておられます。
「しかるに交戦すでに四歳(しさい)を閲(けみ)し、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、おのおの最善を尽くせるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず。しかのみならず敵は新たに残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶところ真(しん)にはかるべからざるに至る。」
残虐なる爆弾こそ原子力爆弾であり、核兵器のことを指していることは明らかですから、「収拾せんと欲す」に至る誘因になったことは間違いのないことだと思います。
では、敵国であったアメリカは終戦の契機をどのように考えていたのでしょう。やはり、アメリカも原子力爆弾を攻撃に使用することが戦争を終結すること要因となり本土決戦を回避することに繋がったとしています。原爆を使用しなかった場合の死者を考えるとかえって犠牲者が少なくて済んだという核兵器の使用を正当化する理論を翳しています。ここでいう死者とはもちろん日本人ではなくアメリカ兵のことです。原子力爆弾を使わずに本土決戦をしていたらアメリカ側に100万人にも及ぶ戦死者が出たことが予想されることから、広島と長崎に投下した原子力爆弾で日本人に30万人もの犠牲者が出たことは妥当性から考えて少なくて済んだので正当であったという論です。全くもって整合性のとれない愚にもつかない論のように思いますが、多くのアメリカ人がこのことを信じており、原子力爆弾の使用についてその正義を疑っていない状況にあります。
画像:withnews20150808より
アメリカはサイパン島を奪取後、日本本土の各地の空爆を開始しました。沖縄では地上戦を行っています。硫黄島での戦闘では米軍は侵攻部隊として約10万人を擁し8千人の戦死者を出しています。沖縄戦での米軍の侵攻部隊は約20万人に対して戦死者は1万2千人です。日本本土へ進行するにあたり米英軍が200万人を費やしたとしても本土決戦の犠牲者が100万人に及ぶなどと言うことは到底考えられないことです。
要するにアメリカが肯定する原子力爆弾の2回にも及ぶ投下の理由は後付けの理論であり、その使用に対する数字的こじつけから見ても根拠なき正当化だと言っても過言ではないでしょう。アメリカは2回の原子力爆弾の使用による被害が想定以上に大きなものであったことからこのような詭弁を宣うしかなくなったのだと思います。
私はアメリカが原子力爆弾の使用は正しかったとする見解をいつの日か誤りだったと訂正する日が来ることを切望します。広島と長崎での犠牲者は非武装で非戦闘員です。戦時中とは言えアメリカによる無差別大量殺人であることは紛れもない事実です。勝者が正義という論理では歴史に学ばぬ愚考です。日本は日本の、アメリカはアメリカの過ちを互いに認め、語り継ぎ、未来に繋げなければなりません。原子力爆弾の使用についてはあくまでも日本人は被害者であります。被害者が被害者の子孫に何を語り継げようか。加害者であるアメリカがアメリカの未来に向けて核兵器の使用に関する過ちを語り継ぐことこそが欠くべからざることなのだと私は思っています。
それではいったい日本が敗戦を受け入れる決定的な原因になったことはなにだったのでしょう。それは言わずもがなソ連が日ロ不可侵条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告したことです。
日本はサイパンが陥落した後に東条英機首相は辞任して敗戦の兆しが見えだします。その後に誕生した陸軍の重鎮の小磯内閣は一撃講和に向けて本土決戦の備えに邁進します。つまり、アメリカ軍に少しでも多くの犠牲者を出させた上で、当時、日本とは中立な立場であってソ連を介して和平交渉を行うという目論見でした。
1945年時点においても尚、北京、南京、上海、福建、広州など中国の重要拠点を日本軍が制圧しており、満州国を守る関東軍も健在であり、それら200万人の軍勢をして連合国と応戦可能とする陸軍の主張が日本政府内で盛んに唱えられていました。陸軍の主張に引っ張られる形で抗戦を続けることになりますが、中国派遣軍の本土帰還はアメリカ海軍の海上封鎖により不可能でした。南方(マレー半島やインドネシアなど)で獲得した資源も海上輸送が絶たれたことにより不可能となり、南方に展開する日本軍も孤立を強いられていました。陸軍の主張はまさに空論であり大陸の兵団の転用は不可能でした。結局、本土決戦に備えたのは民兵を組織した国民義勇軍であり、武器などの装備もままならない惨憺たる状況に陥っていました。
一撃講和を目指す足がかりすら見いだせずにいた中でも政府は駐日ソ連大使館と駐ソ日本大使館を通じて和平交渉を提案しています。日本に交渉材料は見つからないことからソ連が仲介役を負うことは難しく、日本はソ連に満州鉄道の使用権や南樺太の漁業権や旅順の租借権など日露戦争の戦利を譲渡する飴を差し出します。しかし、その頃、ソ連スターリンはヤルタ会談で連合国首脳とドイツ降伏後3か月以内に対日宣戦布告をすることで合意していました。日本政府はソ連への甘すぎる期待を捨てきれずにいたいたということです。
画像:引きの丘、語り継ぐ責任、あの戦争より
ソ連は1941年から5年間の日ソ中立条約の更新をしないという意思表示を1945年4月に日本政府に通告しています。この時点で日本政府はソ連の動向に注視するべきだったのですが、不利な要因には目を逸らしてしまいます。ソ連はドイツ降伏後に欧州にあったソ連軍をシベリア鉄道で極東へ送っています。この状況はその都度スパイ等から日本本国へも報告されているはずですが大本営は危機感を抱きながらもその現実に対処しませんでした。ソ連との関係が瓦解すると一撃講和の目論見も瓦解してしまうからです。そうなると陸軍の主張の論拠は失われます。関東軍はソ連軍との戦闘を強いられます。何より、連合国側との交渉のパイプを失います。
ソ連に託した和平交渉の可能性を失った時点で戦争の継続は困難な状況となっていました。東条英機辞職以降の日本政府の望みは「国体の維持(天皇制維持)」であり、戦勝は叶わないという認識があったにせよ、日本政府には受け入れがたい現実であったのです。
1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約の破棄と対日宣戦布告を行い満州、朝鮮、南樺太に一斉に侵攻しました。大本営が恐れていた事態が現実のものになったのです。ソ連の対日宣戦布告によって一撃講和の夢は打ち砕かれました。
1945年8月9日、鈴木貫太郎首相・閣僚等と陸海相、軍令部総長等が合議する最高戦争指導会議が開催され、対ソ戦への対処について熱論が交わされました。会議においても「帝国は大東亜戦争を完遂する」という勇ましい意見も出ていました。丁度、会議の開催中に長崎への原子力爆弾の攻撃の速報が入ります。その3日前には広島に原子力爆弾が投下されたことは周知の事実であり被害が甚大であることも政府は認識していました。広島においても長崎においても原子力爆弾の投下が政府に衝撃を与えたことは事実ですが、少なくともこの時に開催されていた最高戦争指導会議はソ連からの宣戦布告に対する会議であったことは歴史的な事実です。結局、この会議は御前会議に発展しポツダム宣言の受諾を決定することとなります。
あたかも2度目の原子力爆弾の投下がポツダム宣言を受諾する決定的な要因のように思われていますがそれは違うと思います。あくまでも直接的なトリガーはソ連からの宣戦布告であったというのが事実だと考えます。当時の日本政府は原子力の威力や放射能の危険性についての認識は曖昧であったと言われています。もし、アメリカが日本に対して原子力爆弾の投下という核兵器攻撃を行っていなくても日本はソ連の宣戦布告によって降伏を強いられていたに違いありません。帝国陸軍の抗戦根拠は中国派兵200万人にありました。ソ連軍150万人による満州、朝鮮、南樺太への侵攻は関東軍80万人の崩壊であり、日本帝国の崩壊を意味していたのです。それだけに日ロ中立条約を一方的に破棄し、対日宣戦布告をしたソ連スターリンは残虐で無秩序な共産主義の独裁者であったということです。ソ連のスターリン、中国共産党の毛沢東、カンボジア共産党のポルポト、これらの数千万人を虐殺した共産主義者(国)です。況や日本はソ連スターリンから一方的に裏切られた被害者でもあったのです。そして、現在においても共産党や共産党員と名乗る者がこの日本に堂々と存在してしまっているという事実は慚愧に堪えないことだと思っています。
最後までご拝読を賜りありがとうございました。