論語と算盤
言わずと知れた渋沢栄一氏の名著です。今、NHK大河ドラマで渋沢氏が主人公の「青天を衝け」を放映しているせいか、リアル書店にも渋沢栄一関連の本がたくさん本棚に並んでいます。その中でもやはり読むべきものの一つは本書、「論語と算盤」でしょう。本書は「道徳と経済は合一すべきである。」という彼の実業における経営理念を中心に、その経営理念を形作る彼の処世観、信条、学問教育、習慣、実業観、人生観、運命観などが語られます。 ところで、この「道徳と経済の合一」という考えですが、これは、経済活動において、国や公共の利益を尊ぶ「道徳」と経済活動を営む経営の「利益追求」の姿勢は、事業において必要な車の両輪であるとした考え方です。
渋沢栄一氏は、1840年3月16日(天保11年2月13日)、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家の生まれ。家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。尊王攘夷思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取りの計画を立てましたが中止し、京都へ向かいます。郷里を離れた栄一は江戸幕府第15代将軍/徳川 慶喜に仕えることになり、一橋家の家政の改善などに実力を発揮、次第に認められていきます。
彼は27歳の時、慶喜の実弟(後の水戸藩主)徳川 昭武に随行し、パリの万国博覧会を見学、他欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の政治・経済・文明社会の内情を広く学びます。明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後、明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。
彼の青春期である幕末から明治初期の時代は、日本においては国の在り方が封建社会から近代経済国家へ移り変わる過渡期の時代でした。日本は、これまでのコメを中心とした経済から、社会のインフラを整備し殖産興業を起こし、その産業から国見の生活を豊かにし、外国へは輸出を行い、外貨を稼ぎ経済を発展させていく、「実業」が経済基盤となる時代となったのですが、残念なことに、当時の商人たちは、私利私欲のみを追求し、国の成長・公共の利益という考え方が欠落していました。また、商人を監督する立場の役人は、そういった現実を直視せず、(商業を軽視し)封建時代と同様、原理主義的な仁義道徳教育だけで商人たちを指導していたのです。これは、江戸時代には、人を治める武士階層には「仁をなせば富まず、富をなせば仁ならず」という仁義道徳感が徹底していたためで、そのため生産利殖は卑しいことと考えられたため、生産利殖を行う商人、農民は読み書き程度の教育しか受けられず、結果として商業を行う者は、不道徳(欺瞞、浮華、軽佻といった類)で、小才子、小悧口な者たちである、という認識が広く行き渡っていたのです。しかし、渋沢氏は新しい時代の実業においては、武士階級といえども商才が必要であるし、また、私利私欲に走る商人たちにとっては、道徳教育が必要と考えたのです。
1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、彼は一民間経済人として活動しました。そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)です。第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。また、約600の教育機関・社会公共事業の支援並びに民間外交にも尽力し、多くの人々に惜しまれながら1931(昭和6)年11月11日、91歳の生涯を閉じたのです。(以上、渋沢栄一記念財団のHPより抜粋)
では、渋沢氏が考えた、「商人にとって必要な道徳」とはどのようなものだったのでしょうか。それはズバリ、「儒教」です。本書において、彼はキリスト教や仏教についても言及しています。特にキリスト教については、「教旨が命令的で権利思想も強いが、キリスト教の唱える『愛』という考えは論語における『仁』という考えに一致している。」としていますが、渋沢氏が孔子の教えを(キリスト教)より信頼している点は、孔子の教えには奇跡が起きないことです。キリスト教の教えや、釈迦の教えには、例えば、十字架に張り付けられたキリストが三日目に蘇った。。等、奇跡が沢山起きますが、こういった奇跡を安易に信じることは、迷信を信じることになるのでよくない、と考えたのです。(でもやはり、彼にとって「儒教」が自らが子供時代から慣れ親してきんた道徳であったので一番とっつきやすかったのだと思いますが。。。)
本書では「朱子学」「論語」「孟子」、、いろいろ儒教に関する言葉が出てきますが、みなさんそれぞれの関係がわかりますか? 恥ずかしながら私は、その辺の関係が良くわからなくてネットで調べたのですが、(Wikipediaによると)儒教(=儒学)は古代中国の思想家、孔子の道徳思想をまとめた宗教的な教えのことで、「論語」は孔子の生前の教えを弟子たちが本にしたもので、孔子自身の著作物ではありません。孔子の没後約百年後に、孔子の教えを発展させたのが孟子です。孟子の教えは、徳による統治「王道」を主とし、武力による統治「覇道」には否定的でした。この後に儒教を更に発展させた学問が朱子学です。本書において渋沢氏は朱子学系のものではなく、孔子の考えをまとめた「論語」(*)や「孟子」の教えの原文を素直に読んで解釈するべきだ、と主張しました。
彼はまた、当時の教育について「教育は知識教育に偏っており、道徳が疎かになっている。知育と徳育との併行が必要とする。」と考え、心の教育を行うことの大切さ、特に商人は人格を磨くべきである、と語っています。
では、「道徳と経済の合一」という経営理念を提唱し、国立銀行や幾多の株式会社を創設し、明治、大正における日本の経済を牽引した渋沢氏が考える「人生における成功」とはどのようなものだったのでしょうか。。 実は、 本書の最後の方に「人生における成功」について彼が語っているところがあります。 「現代の人の多くは、ただ成功とか失敗とかいうことのみを眼中に置いて、それよりももっと大切な天地間の道理を見ていない、かれらは実質を生命とすることができないで、槽粕に等しい金銭財宝を主としているのである。人はただ人たるの務をまっとうすることを心掛け、自己の責務を果し行いて、もって安んずることに心掛けねばならぬ。(中略)とにかく人は誠実に努力びん勉して、自ら運命を開拓するのがよい。もしそれで失敗したら、自己の智力が及ばぬためと諦め、また成功したら智恵が活用されたとして成敗に関わらず天命に托するがよい。かくて敗れても飽くまで勉強するならば、何時かは再び好運に際会する時が来る。人生の行路は様々で、時に善人が悪人に敗けたごとくに見えることもあるが、長い間の善悪の差別は確然とつくものである。ゆえに成敗に関する是非善悪を論ずるよりも、先ず誠実に努力すれば、公平無私なる天は、必ずその人の福し運命を開拓するように仕向けてくれるのである。」(P249)
つまり、目先の利益や、私利私欲を追求するのではなく、もっと大きな視野を持ちつつ、社会貢献を自己の責務として誠心誠意がんばりなさい。そして、毎日毎日の小さな成功や失敗に動じることなく、長い目で人生の成功を考えなさい。一見、失敗と思われるようなことでも、それが長い目で見ると大きな成功につながることもあるのだから、ということですよね。なんかとても含蓄がある、元気のでる言葉ですね。。。
本書において、渋沢氏は、(あれだけの偉業をなした人なので、傍から見るとちょっと信じられないのですが、)自分の人生は、とても回り道をして辛酸を嘗め尽くしたものだった、と語っています。 そういえば、彼はもともと出自が農民出身で、しかし、日本のためを思い尊王攘夷を唱え家を出て、結果として(尊王攘夷とは逆に)徳川慶喜に仕えた人物です。つまり、国の為に命を投げ出す覚悟で、幕府という体制を破壊することを信条としたテロに身を投じようとしたのですが、結果としては、その体制(徳川政権)に与(くみ)し、しかし、明治維新という革命後、多数派となった反体制派(薩摩藩、長州藩)が牛耳っていた官僚から下野し、そこから日本の経済を牽引する活躍をした、という数奇な人生を歩んだ人物です。それだけに人生の紆余曲折や、自分の努力だけでは如何ともしがたい運命というものを味わいつくした人です。それだけの人でもあるからこのような深い言葉が口から出てくるのでしょう。
最後に本書を読んで思ったのは、渋沢氏はどことなく、稲盛和夫さんと考え方が似てる、ということです。例えば渋沢氏は「蟹は己の甲羅に似せて穴を掘る。」と本書で書いてますが、稲盛さんも自らの著書で同じ言葉を引用しています。また、運命、天命を信じるところも同様ですし、経営には、心、人格、哲学(稲盛さんの場合は特に東洋哲学と言っている。)が必要、と話しているところも共通です。自らの著書では語っていませんが、実は、稲盛さんは、渋沢さんから相当影響をうけているような印象を受けました。
(*)『論語』は、孔子とその高弟の言行を、孔子の死後に弟子が記録した書物である。儒教の経典である経書の一つで、朱子学における「四書」の一つに数えられる。 その内容の簡潔さから儒教入門書として広く普及し、中国の歴史を通じて最もよく読まれた本の一つである。古くからその読者層は知識人に留まらず、一般の市民や農民の教科書としても用いられていた。(Wikipediaより)
(下、「論語と算盤」は、いろいろな出版社から出ています。)