可哀想なひと
心のどこかで身近なひとのことを
可哀想なひとだと
思っているとき
わたしが、助けなくてはならない。。
助けられなくてごめんなさい
という罪悪感をいつも抱えています。
心のどこかで常に、どうしたら助けられるだろうか、と思っている。
助けなくては、と思っている。
ところで、
そんなあなたの気持ちを受け取る"可哀そう"なお相手は、どんな気持ちで、それを受け入れてくれているのでしょうか。
嬉しそう
お礼を言われる
お返しまでくれる
不愛想
無反応
断る
実は、どれもいったんは
受け取ると言う行為でこちらに与えてくれているのと同じ
つまり、与えられているのは実はこっちでもある。
無反応や、断る場合も?
はい、そうです。無反応、という反応。断る、という答えをくれる。
わたしの行動は、ときにtoo muchになる。
特に両親に関しては、、
もっと何かしてあげないと、、と。
だけど、受け取ってもらって幸せになっているのはいつもわたしの方。
余るほど持ってきてくれても、食べきれないから。。持って帰りなさいと言われて、はっと気づく。必要なものはそう多くはない。
両親はすでに満たされていて、豊かで、幸せなひとたちだった。
昔、二人が苦労していたころの印象が強すぎるのだな。
可哀想でも、助けなければならないひとでもない。ただ、高齢でできなくなってきた必要なことを必要なだけ、手助けすればいい。
魂の親も同じ。
いつも必要なときに必要なだけ、手助けしてくれる。
そのほかは、こちらを信頼して自由にやらせてくれる。大失敗しそうなときは、何気なく示唆を与えてくれ、それでも気づかず、我をとおして痛い目にあった時は、ただそっと寄り添って、立ち上がる勇気をくれる。
わたしたちは、可哀想なひとではない
尊厳をもって、生きている
手助けする側も受ける側も
お互い与え合っている。
上にも下にもならない。
時々、光のサポーターからの
粋なハカライに気づいたら
ありがとう♡って受け取ってください。
それを素直に受け取ることは
光の世界に何かを与えていることと同じだから。
Thank you for reading my blog.
Sofie KT.