偉人『金子みすゞ』
小さなものに温かな視線を注ぎ、豊かな感性を発揮し人々の心にダイレクトに吸収されていく作品を心で織り上げた童話詩人である。彼女の作品は『私と小鳥と鈴と』やACジャパンのCM『こだまでしょうか』に途用され注目を集め、今では国語の教科書にも採用されている。
彼女が陽の目を浴びたのは1984年児童文学者の矢崎節夫氏により本が出版されてからではないだろうか。彼女の人生を知ると誰もが胸が締め付けられるような感覚に陥るだろう。切なく悲しい話ではあるが一人の女性が生き方を考えてみる。
1903年山口県長門市の渡海船の仕事をしていた父(後に文英堂の清国支店長となる)と母の長女テルとして誕生する。しかしテル3歳のとき父を亡くし明るく働き者の母ミチに兄、テル、弟は育てられるが、弟は母の妹の嫁ぎ先である下関の文英堂の養子となる。テルは幼くして2人の身内との別れを経験した。その後母の妹が亡くなり、母ミチが後妻に入りテルも母と共にその家に入る。しかし叔父は弟を実子として育てるために養子と言う事実を伏せた。実の母と姉であることを告げないように口止めしテルを使用人とした。母を奥様、弟をお坊ちゃま、叔父をだんな様と呼ぶように強要したのである。
16歳の少女にとっては理不尽極まりないことと感じたに違いない。しかし彼女が救われたのが叔父が書店を手広く経営していたことだ。本に親しんで育った彼女にとってはどこか納得いかないこともこれらの本が慰めてくれたに違いない。
本好きのどこか大人びたところが幼い頃よりあり、学業も優秀で心豊かで礼儀を尽くし友情が厚い一面があるものの内向的で学校の登下校は一人を好んだ。その理由を尋ねられ友と一緒にいることは楽しいこともあるが愚痴や不満を聞かなければならないため登下校ぐらいは一人で物語を考えながら帰りたいと話したと言う。
物静かで自分の時間を楽しんでいる子供は、外向的なことが苦手ということがあるのでなるべく小さな頃から人と接する機会を設けるようにすることも選択肢の中に入れておくべきである。
さてここからは金子みすゞとして文壇でのペンネームを使用し話を進める。
色白のふっくらとしたみすゞは女学校の教師になるよう進められたがそれを断り、叔父の書店を一店任され詩作も意欲的に行っていた。23歳の頃義父のもとで働く番頭格の宮元と結婚話が進み母は心配し弟はこの結婚に猛反対したが、この結婚自体が弟が店を継ぐまでの政略結婚でみすゞは受入れるしかなかったようだ。
残念ながらこの夫の放蕩ぶりは凄まじかった。芸者遊びや遊郭に入り浸り生活があれ、弟との確執も生まれたため離婚させようと母が決めたときにはみすゞが妊娠し断念した。弟と夫の対立でみすゞ夫婦は家を出ることになり、夫は彼女が心の支えにしていた詩作や文人たちとの交流を禁じ、挙句の果て淋病を感染させてしまう。みすゞは心の支えとしていたものを取上げられ体調も崩すことが多く離婚を決意する。
しかし当時親権は父親にしか認められておらず娘を引き渡すよう迫ってきたのである。みすゞは夫が娘を引き取りに来る前日に服毒自殺を図り、その親権を母ミチに託すよう遺書を残し抗議したのである。
遺書は3通。夫には「あなたがふうちゃんにしてあげられるのはお金であって心の糧ではない。どうか私を育ててくれたように母にふうちゃんを預けて欲しい」と、そして母と叔父に『ふうちゃんのことをくれぐれも頼みます。今夜の月のように私の心も静かです」と綴り前日に撮影した写真の預り証と遺書を枕元に置いていたという。
本当に心は静かであったのだろうか?そんな訳は無いだろう。一人で写真館に行き写真を撮り、神社に参り、買ってきた桜餅を母と娘ふうちゃんと三人で食べ、夕食後にふうちゃんをお風呂に入れながらたくさんの童謡を歌ってあげていた。娘と母が床に就き2階の自室に上がる時に娘の寝顔を身ながら「可愛い顔してねとるね」と言って暫く階段の中ほどから動かなかったそうだ。
自らの命を絶たなければ娘の幸せはないと考えていたのだろか、男尊女卑の最たる禍である。しかし残された娘は長年母に捨てられたと思い込んでいたという。自身が母となり母みすゞの気持ちを理解できたような気がしていたが、母の残した作品が世に出て自分が70歳になって初めて母の想いを確信したという。母と娘の心が通じるのになんと長い年月を要したであろう。
上記の写真はみすゞが作品をメモしていた3冊の手帳である。彼女の作品『大漁』を読んだ矢崎節夫氏が感銘を受け、資料を探し当て奇跡のような出会いで入手したこの手帳に彼女の繊細な表現が誰にも分かり易い素朴な言葉で綴られている。わずか10年で512の作品を生み出している。
悲しみの多い人生を歩んだ女性作家としての内向性ばかりが取上げられることが多いが、そこは母の教えが影響しているように思う。
母ミチは明るい人で賢い女性だった。娘には目に見えないものの存在を教え、物の見方や表現の仕方を教えた。目には見えないものの存在とは何を指すのか良く分からないが、男尊女卑に立ち向かえる心の強さを教えていたら彼女の人生は変わっていただろうか。彼女の才能を西条八十が認め若き童謡詩人の巨星と賞賛していたのだから時間を要しても子供を引き取り育てることはできたのではないか・・・しかし内向性を持つ人全てがマイナスの方へ傾区分けではない。彼女の場合病という身体的問題が大きく作用したと考える。人間はどんな人間であろうと健康に障りがあると心のバランスを欠いてしまう。
子供に授けるものはやはり心身ともに健康であることに、自らの命を大切にすること、そして人間の尊厳を教えることではないだろうか。