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日本男声合唱史研究室

2016年度東西四大学の定演を聴いて

2017.02.19 05:34

 昨年6月の東西四大学の演奏会を聴いて,「今年は四大学の定演を聴いてみよう」と思い立った。言うまでもなく,この演奏会は日本の男声合唱界で最高レベルのものだけに,各団とも他団を意識してステージに臨んでいるおり,いってみれば勝負服を着用ているようなものである。定期演奏会ではステージ構成全体の中で自分たちを表現するわけだから,他団を意識しない普段着姿も見られるかもしれない。そういう姿もすべて見た(聴いた)上でないと,「◯◯大学の演奏は」などと分かったような事を言うのは宜しくないと考えた。もちろん全ては個人の極めて勝手な感想だから,本来は公開するようなものではないのだけど,「おぼしき事言わざるは腹ふくるるわざ」なので,匿名ホームページの陰でこっそりつぶやいてみる。

 関西在住なので昔も今も,慶應義塾と早稲田は東西四大学で2年に1ステージ聴くだけ。関西学院と同志社はかなり聴く機会があり,何度か定演にも伺っているのと比べて,アンバランスである。昨今はネットでも過去の演奏を聴けるけど,やはり生演奏を聴いた上で感想をのべるべきだろう。演奏会だけで行くのは少し辛いので,東京での資料集めとまとめることで両団の定演に伺うことにした。


I. 数値での比較

 最初に,主観の入らない数値で何点か比べてみる。まずは,各団のパート人員構成。左から成立年の古い順。パンフレットの数値を記載したため,オンステメンバー数と違う場合がある。

 各団のパート分け方針は分からないが(声だけで判断するのか,パートバランスを考慮するのか等),関学・慶應はテノール系が多め,同志社・早稲田はテノール系とベース系がほぼ等しくなっている。関学と早稲田のテノール系人員はほぼ同数で,ベース系人員数の差が総人員数の差になっている。

 同志社は他団と比べてトップが多く,「トップの同志社」は健在。他団はセカンドの方が多い。慶應は聴感でトップがかなり前面に出るが,意外と人数が少ない。早稲田もトップの比率が小さめ。

 同志社以外はベースがバリトンより多く(早稲田はほぼ同数),音響的に安定させるためか。同志社は全体に対するベースの割合が20%と小さい。


 次に,回生構造を示す(関東的に言うなら,年生構造か)。いらんお世話であるけど,やはり先の人数がどうなりそうかは気になる。

 関学以外は1回生が最多でまずまずの構成。関学は2回生が多く入団して,少し気が抜けたか? 慶應は1・2回生が多く,もう少しで80名のオンステが見えている。同志社は1回生が多めなので,このペースで70名目指して頑張ってもらいたい。早稲田は2回生が少ないが1回生を30名以上入れており,前年の「勧誘失敗」を補おうと努力の跡が伺える。新人勧誘につき,早稲田のノウハウは大したもので,他団と共有できないのか?


 最後に,各団4ステージの内訳を,荒っぽいけど邦人曲・欧米古典曲・欧米現代曲と分類した(関学のコンクール報告ステージは含まず)。曲目の詳細は各団の感想を参照。

 バランス良く配置したのは関学・慶應で,同志社・早稲田は邦人曲偏重だった。これはもちろん,今年のステージはという意味でしかないが,全体に邦人曲ステージが中心になっているのは興味深い。「頼まれでもしない限り日本の曲など歌わない」時代は完全に過去のものである。


II .各団の印象

 各々の定演を聴いた直後に感想を上げたのだけど,改めて全団を聴いた上での各団の印象をまとめてみる。聴き比べたことではっきりしたこともあるので。

 私が聴いてなかった90年台から2000年台にかけて,早稲田以外の団は人数が減って,レベルの維持に苦労されたようで,この頃のワグネルの演奏を聴いて,そのショボさに愕然とした。関学も20名程度で,演奏は精緻ではあるが昔日の迫力はなく,寂しい思いをした。しかし,2016年度の東西四大学と各団の定演を聴いて,みなが見事に復活しているのを知って感動した。更に,私が聴いていた70年代後半のポジションに,具体的にはハーモニーの関学・トップの同志社・発声の慶應に,「帰り咲いている」のは驚きで,これが伝統の力というものかと恐れいった(早稲田については後述)。以下,定演を聴いた順に書いていく。部外者が好き勝手に言いたい放題するのは気がひけるけれど,年寄りのたわ言とお許し下さい。


① 同志社グリークラブ

 同志社は昔から頭声をビンビン響かせたトップが牽引していく,いわば「トップの突進力」が光る合唱団で,トップが自在に旋律を歌い他パートがそれを支えていくという,そのスタイルが今も踏襲されているようだ(*)。上手く回るときはトップの響きに魅惑される気持ちのよい合唱になるが,人数が少なめの現在ではフォルテのところでトップが頑張ろうとすると,力がはいるのか口腔が歪むのか,固い不協和な声が出て興ざめする。

 * 日下部吉彦氏によれば「関学のベースに対抗するため,テノールをベルカント発声にした」とのことで,関学への対抗軸として磨かれたスタイルらしい。


 もうひとつ,他パートが支えに徹しているのか,旋律を歌いなれないのか,ポリフォニーでは立体感のない精細を欠いた演奏になっていた。今年の東西四大学で再演されるようなので,どれぐらい歌い方を研究され,トップ以外のパートが歌うことを身につけるかが楽しみ(演奏会を聴きに行きたくなったなあ)。

 また,定演の4ステージ「月に詠ふ」ではトップを抑え気味にし,まろやかなハーモニーを絶えず鳴らすことに成功していた。トップにとって,自分たちが「突進」しなくても音楽を表現することができると分かり,良い勉強になったのではないか。これらの異なるスタイルでの演奏を身につけた上で,「トップの突進力」を磨いていけば,かなり面白い合唱団になると思う。そのときには,福永氏と何度も名演を行った「月光とピエロ」か,湯山昭氏の「ゆうやけの歌」を聴いてみたい。


② 早稲田大学グリークラブ

 早稲田は,東西四大学で4回しか聴いたことがなく,どれも正直あまり良い印象ではなかった。他団と比べてハーモニーの厚みがなく(ピアノ伴奏しか聴いたことがないということもあって),また声がストレートに飛んでくるところに違和感があった。しかし,定演を聴いてみると早稲田大学グリークラブとはつまるところ,この声の力を前面に出すことが彼らのスタイルであり伝統であることを理解した。頭声に載せた声というより,体全体を使って繰り出す力のある声。切れ味鋭いナイフというより,破壊力のあるナタという感じ。この声がきちんとハモった時の重厚感は,特にフォルテのときは他団にはないもので,柔らかく歌うのが流行りの昨今では得難いものがある。

 この「声の力」について,早稲田大学グリークラブ100年史「輝く太陽」には,1949年(昭和24年)に関西学院グリークラブと交歓会を開いた時のおもしろい話がある。

「私達は,いわゆる関学グリートーンと呼ばれるパイプオルガンのように正確なピッチの倍音で,背筋に寒気が走るぞくぞくするような重厚なハーモニーに包み込まれて,心底から圧倒されました。一方,関学グリーは,早稲田の伸び伸びしてこだわりのない発声の明るいコーラスに羨望の眼を開かれたようで,初対面ながら自分達は持ち合わさない魅力をお互いに求めあって両クラブの親密さが一挙に深まりました。」

つまり,70年近く前からお互いの立ち位置は変わっていないらしい。伝統の力とは恐ろしいものだ。


 定演では日本語の曲しかなかったが,日本語のフレーズを作るのは4つの団の中で一番下手。他団では先生と学生の指揮でかなり大きな差があるが,早稲田は先生が振られても多少良くなる程度。合唱団の本質として,日本語を表現する技術が共有されていないのかもしれない。これを直そうとすると,もしかしたら,発声が根本から変わってしまうかもしれない。もしあの重厚感なくなるようなことがあればもったいない。高嶋先生に振っていただいたギャグ&ポップスで日本語を伝えることの重要さは勉強されたと思うので,細かいフレーズづくりがあまり必要なく声の魅力で聴かせられる選曲をしたほうが良いか。ネットで聞いた限りでは「革命詩人の詩による十の詩曲より『6つの男声合唱曲』」などは合っていると思う(*)。

* この曲がフレーズ不要と思っているわけではないが,旧ソ連の合唱団による凄まじい重量感の「十の詩曲」を聴いて圧倒され,まず声が必要という印象を持っている。


③ 慶應義塾ワグネル・ソサエティー男声合唱団

 復活に最も驚き,嬉しかったのがワグネル。昔と同じように,発声の完成度は四大学で最も高い。ソリストの方々はびっくりするような美声と歌唱で,学生としてこれ以上のレベルは望めないと思う。ボイストレーナーの小貫先生がテノールのためか,合唱の響きが高く気持ちのよい演奏が楽しめた。昔のようなも発声の重心が低くて重量感のあるバリトン四重唱のようなスタイルとは違うけど,この軽やかさが今風なんでしょう。

 ハーモニーの純度は関西学院に一歩劣る。個人の発声を磨いていくことと,全体の力としてハーモニーを磨いていくこと,この二つが常に両立するのか,または,ある程度のところで相容れないものがあるのか,私はこんな高いレベルの合唱をしたことがないので分かりませんが,どうなんでしょう。


 さて,この問題はワグネルに限ったものではないけど,学生指揮者のステージが残念ながら聴き劣りする。これは他ステージが素晴らしいことへの裏返しでもある。ワグネルの昔の演奏会評にもでてくることで,当時の学指揮は木下先生や畑中先生と比較されるのではたまらなかっただろう。

 学指揮は団の音作りから音楽の統率,副指揮者と分担して先生ステージの下練習から宿題への対応など,やることが山とあって,思うように自分のステージを作れないかもしれない。しかし,定演で学指揮のステージがあるからには,音楽作りは学指揮がひとりで背負うべきものだろうか? これほどの先生方からご指導いただいてるのであれば,学んだことを団員が「自主的に」表現していく,つまり全員で音楽を作りをすることがあっても良いと思う(*)。統制が効かないものになる可能性もあるがけれど,年寄りとしては学生の想いが溢れた,そんなステージも聴いてみたい。今のような精彩を欠くステージを持つよりは。もう一度,これはワグネルに限った話ではありません,念押ししておきます。

 ワグネルで聴いてみたいのは,「さすらう若人の歌」と「コンポジションIII」。どちらも素晴らしい演奏を聴いて唸らされたもの(なんかリクエスト集になってきた)。

 * 学生時代,私が所属した団ではこんな議論をあきるほどやっていた。「指揮者の役割とは何か」「歌い手の自主的な音楽の発露とは何か」青臭いかもしれないが,当時は真剣に議論した。


④ 関西学院グリークラブ

 何と言っても,アンサンブルの巧みさと高い純度のハーモニーは,他団より一頭抜きんでいる。117代に渡ってメンタル・ハーモニーの体現を受け継いでいかれてるのは凄いこと。林先生が確立された純正調の関学トーンに対して,「トンネルのなかのハーモニー」とか「壁を塗るような(単調な)ハーモニー」と揶揄する声もあったが,誰にもまねできないハーモニーを毎年作り上げることへの羨望の裏返しである。後に発声を磨きそこに表現を載せてきたワグネルとの比較において,「関学のコーラスは時代遅れ」と言われるようになったけど,関学が発声を疎かにしていたわけではなく,ボイス・トレーナーから発声指導を最初に受けるようになったのは関学である(楠瀬一途先生の著書「ヴォイス・トレーナーの発言」から)。合唱における発声の考え方が違っていたのだろうけど,その後はワグネルと同じく大久保昭男先生を招いて力のある声を出すようになった。北村先生の時代はベースをものすごく太く作って,その上にピラミッド上にハーモニーを作っていたけど(母音もテノール系とベース系で変えていたと思う),今は全パートが同じ音色で歌っているところは,原点回帰を感じさせる。

 実は私は関学ハーモニーのファンで,ハーモニーのオーラに包まれている時の至福感は,大げさに言えば魂を抜かれているようだ。だから,オーラに埋没できなかった今年は残念だった。念のため,ハーモニーの純度が低かったというのではなく,会場が広すぎたのか後方の席までオーラが届かなかったということ。どんな合唱団でも屋外で歌えば,ハーモニーに包まれるのは数十メートルが限度だろう。そういうイメージのことを言っている。


 言い換えると,現在の関学は声の力が弱いことを意味している。昔は広いホールであろうとも客席のどこでもベースが耳元まで鳴ってくるので,それに乗ってハーモニーが届いた。それを意識していたのかベースの作り方のため結果的にそうなっていたのか分からないけれど。逆に同志社は,トップが届いてくるので,それにハーモニーが運ばれてくるイメージ(ベースも十分太かったですが)。

 このあたり,ワグネルの裏返しになっているわけで,個人の声がもう少しあればとも思うのだが,もう一度書くけど「発声を磨いていくことと,全体の力としてハーモニーを磨いていくこと,この二つが両立するのか」は私はわからない。

 しかし,「全体の力でカバーする合唱」に限界があることは,関学自身が過去に突き当たった壁である。「関西学院グリークラブ80年史」によれば昭和30年頃にそういう時代があった。先輩たちは北村先生と一緒に試行錯誤して壁を破り,いわば新生関学グリーとして新しい黄金時代を築かれた。関学が今後どうしていかれるのか,大変興味深い。以前の感想にも書いたけど,日本の男声合唱とはどうあるべきか,手本を示せるのは関学以外には考えられない。


 ところで,前述の学生指揮者の問題は,関学に関してはここ3年のリサイタルではあてはまらない。タレントに恵まれたとか選曲がうまいとかあるのかもしれないが,学生指揮者のステージがレベル以上の完成度を持っている。他団も何回か聴いてみないとはっきりしないのだけど,仮説的には関学の音楽作りは学生指揮者におぶさっていないのではないか,と思う。合唱団の基礎トレーニングが学生指揮者ステージのレベルを押し上げているのか,または,抽象的な言い方だけど,メンタル・ハーモニーとしてお互いの心のつながりを音楽の基礎におくスタイルがハーモニーだけではなく,フレーズ作りなどにも現れているのかもしれない。


 関学で聴きたいのは,やはり「ギルガメッシュ叙事詩 前編・後編」の再演。そして,三木稔のレクイエム(増補版ではなく5曲版が良いです)。前者はただただ呆然と聞き惚れ,後者は深く感動させられたので。