★『廃市』序 夜明けの停車場
わたしはこの小説の舞台となる横浜の山手という、他の町と比較すればそれなりにユニークで歴史的由緒にあふれる町で、二十世紀もまもなく終わりという時期の数日のあいだに、わずか数人の人間にしか知られず終わった物語に主役として登場する一人の男の、何十年かの人生模様を書き始めるにあたって、凡手の悲しさで少し遠回しに話を始めなければならない。つまり、物語の全体をまず大まかに把握していただくために、いま読者諸氏にお読みいただいているこの部分を、この小説の主人公である明智小太郎という、本人の談によれば、遠いご先祖様はかの三日天下で有名な明智光秀であり、曽祖父が名探偵の明智小五郎であるという、自称は私立探偵を名乗る一人の中年男と、彼を優秀な超能力者と誤認した、末期がんに罹患して死を旦夕に控えて療養中のある老人との奇妙な出会いから書き始めようと思う。それはいまからわたしが書き綴ろうと考えている、これを事件と呼べるかどうかわからないが、序章の先のページに立ち込める濃霧のように視界不明瞭な、様々の人間たちによってこのあと描き出される運命的な、あるいは悲劇的な物語の序章である。わたしが伝えようと思っている本当の事件は、第一章、第二章と積み重ねた、ずっと先の方にあるのだ。そのことを頭の片隅において、この物語を読み始めてほしい。
まず、横浜の山手だが、ここは坂の街である。地図を見ると、もともとは、海に飛びだした岬の突端のような地形の場所だったことがわかるのだが、飛びだしているのは本牧の部分で、山手の街は岬の付け根のような位置にあたり、その付け根の部分からもう尾根の一番高いところで、海に臨む眺望が素晴らしい場所がつづく。江戸時代の末期には寒素な漁村であったというこの場所なのだが、開国が決まって横浜が外国船受け入れの寄港地と定められたあと、ちょうど、長崎の出島と同じように、この山の尾根道にあたる場所に外国人たちの建物が次々と建てられていったのだという。ちょっと高くなっているから、外敵に攻められたとき、自然の城砦としての体をなしやすいという考えがあってここの土地に家が建ち並びはじめたのかもしれない。この街、横浜山手の百五十年くらい前から外人居留地として、明治維新以降に訪れた欧米人たちが暮らした町並みは、いまも洋館がたちならび、日本の街とは思えないエキゾチックで美麗なたたずまいを見せて、古びてしゃれた建物が、森の、樹齢を重ねて見上げるように巨大な古木に取り囲まれてつづいて、散策、観光に訪れる人影がたえない。往古の尾根道はいまやアスファルトで舗装された幅八メートル余の道路になってしまったのだが、道の途中の港が見える丘公園から外人墓地の脇にある深い森を抜けて坂道を降りていくと、やがて元町のはずれに出る道がある。この坂の途中、いまはむかしの名残のような小さな空き地が残っているだけだが、道沿いの一角に、もう十五年ほども昔のことになってしまったが、一九九八年から九十九年にかけて、わずか二年ほどのことに過ぎなかったが、ここに瀟洒を極めた黒屋根の、二階建てのモダンな意匠をこらした和館が建てられていた時期があった。そこは二階の東側の窓からは港のひろがりを一望できる、素晴らしい立地の場所だった。その黒屋根の和館は建って僅か二年で突然取り壊され、土地はふたたび、なにもなかったようにむかしと同じ空き地に戻され、何本もの大ぶりの植木が運び込まれて植えなおされ、あたりの様子もたちまちもとの緑の森に戻ってしまった。そして、冬になると、屋敷の名残に残された何本かのセイヨウシャクナゲの巨木が真紅の、場違いな感じの巨大な華花を咲き乱れさせるのだが、そのほかに建物の痕跡はなにもなく、それはそのときのその黒い建物の有様を知っているものたちにとっては、まるで、ここが一時そういう場所であったことをだれにも思い出させるなと、誰かが強い口調で命じたかのようである。その港を眼下に臨む場所から、遠くにみなと未来21のエリアの一角に銀色の背の高いビルが聳えているが、あの建物は六十一階ある。そこの最上階はペントハウスになっていて、この物語の主人公はとても若いとはいえない、明智小太郎という名前の「オレは私立探偵だ。明智小五郎の親戚だ」と自称する高齢の、実は求職中の男なのだが、もうひとり、女主人公である南條麗子、若かったころは光り輝くように美しかった、かつて二〇〇八年にあの建物の最上階の階数と同じ年齢だった、多分、いまでもきっと美しい女が、多分ひとりで暮らしているはずだ。あれから七年経っているから彼女はいまは六十八歳になっている。彼が彼女の年齢を間違えることはない。どうしてかというと、二人は同い年なのだ。誕生日も十月六日と九日、三日しかちがわない。だから彼が彼女の年齢を間違えることはないのだ。彼がこの街に住んだのは一九九三年から二〇〇二年まで、ちょうどバブルの崩壊期だった、約一〇年間なのだが、その間にセントジョセフカレッジも大規模マンションに作りかえられてしまったし、昔からの住人たちも値下がりしそうになっていた土地を売り払って、新しい安住の地を求めて他所に引っ越していってしまった。明智自身も、いろんな都合もあって、交通の便のいい東京に戻って生活するようになってしまった。その間の事情の説明は後回しにする。それでも、彼がいま棲んでいるところは池袋の西口から歩いて十分ほどのごちゃごちゃした住宅街にある古いマンションの五階なのだが、春先や夏の終わりや、夕暮れや真夜中などの雨の降る日に自分の部屋の窓から雨に濡れる町並みを眺めたりすると、横浜で暮らした四十五歳から五十四歳まで、現実にはもうけして若くはなかったのが、いまからすれば、ずっと若々しく、心も身体も自分が年老いたとは思わずにいることができた、慌ただしかったが、それなりに幸福で充実していたそのころのことをたまらなく懐かしく思い出すのだ。だから、横浜の山手のあのあたりが一番美しい季節(とき)はいつか、と聞かれたら、彼は多分、夏の終わりの雨の日の黄昏時、とこたえるはずだ。ひとつの街に十年暮らせば、冬の日の記憶も春の花咲乱れる季節の思い出もそれなりにあるはずなのだが、横浜山手といって、どういうワケか、鮮明に思い出すのは、あの年の夏の終わりの何日間か、本当に歳月のなかの一瞬のことなのだ。なぜかというと、この数日間だけ、彼はあるひとりの男といっしょにすごし、そして、別れたからだ。十年の歳月のなかで、その数日間だけが特別なのだ。彼はいまでも横浜というと、まず、その男のことを思い出す。それは本当にわずかな日数のなかの記憶なのだが、その男に関わる部分だけ、あのときのことをなんらかの形でキチンと記録として残しておかなければいけないとずっと考えていたのである。人間のよすが、えにし、きずなというのは、例えば男と女であれば、赤い糸やピンクの糸の形をしていて、人生の半ばでつながり、その糸の存在がわかって意識しはじめ、その出会いがそれぞれの人生を変えるというのが普通だ。彼の記憶のなかには、いまでも、若いころ、それから自分がまだ愛という言葉に反応することができた柔らかな心の持ち主だったころに、愛しあった幾人もの美しい女たちの面影とともに、彼女たちとの儚かった絆の思い出がいまも鮮烈に残っている。しかし、そのことに思いが及ぶと、彼はいつも最後にこんな疑問にたどり着くのである。いったい、ひとりの人間に幾つの人間の縁の絆が許されているものなのだろうか、と。そして、許された出会いの絆のうちのいくつをオレは終わらせてしまったのだろうか、と。そしてまた、わたしがどうしても書き残しておかなければならないと考えている、この物語のもうひとりの主人公である高杉貞顕という男はそれまでの明智の人生とはまったく関わりのない世界で生きてきた人だった。そして、高杉は明智と知り合ったあと、そのことがきっかけだったかのように、すぐ死んでしまった。だから、たぶん本当なら出会わずに終わる人間だったはずの人なのである。それを高杉は最後の力をふりしぼって自力で明智を見つけだし、彼を自分の生活のなかに引きずりこんで、高杉と彼とがいっしょに生きる時間を無理やり力づくで作りだしたのである。当時のさまざまの事実を積み重ねて推察すると、そう書いてもいいと思う。書いたように、高杉と明智がいっしょに過ごした時間は僅か数日、全部あわせても何十時間かにすぎないのだ。しかしその時間の濃密さといったら喩えようもなく、高杉は彼といっしょに過ごしたわずかな時間のなかで、明智の人生観を変えて、明智の人生そのものも作り変えて、そして、死んでいった。彼らの縁の絆が何色の糸でつながっていたのか、いまとなっては知りようもない。しかし、そんな人間の出会いと別れもあるのだ。いまにして思えば、高杉は彼を過大評価しすぎていた。高杉が彼を自分の後継者だと考えたことは、本質的には高杉の生涯の最後の失策だった。高杉は彼に出会ったとき、「やっと出会えた。あんたは僕の人生の最後の希望だ、あんたは最高の能力を持つ《選ばれたもの》だ」といったが、それは高杉の錯覚だった。彼は高杉が考えていたような超能力者ではなかったし、ぜんぜん《選ばれたもの》なんかじゃなかった。明智は高杉のように念力を自在に操って瞬間移動したり、指先でパチンコの玉を銃で撃ったような速さで飛ばすこともできなかったし、競馬場で次に行われるレースの優勝馬を予知するような霊力もなかった。それらのこみ入った事情はおいおい説明していくが、明智はときどき高杉貞顕という人間のことを思い出し、けっきょく彼と高杉の共通点というと、歌謡曲が大好き、横浜の街が好き、同じひとりの女を愛した、この三つのことだけだったなと思う。高杉が持っていた多彩な、驚くべきさまざまの霊力のうち、彼にあったのはほんの一部、女に対して情熱的になると潜在的な能力を発揮するということだけだった。そのことを思うと本当に、慚愧の念に絶えず、心苦しいのだが、それこそ、それも人生、これも人生と、深く考えるのをやめにする。彼はいま、六十八歳で、高杉貞顕が死んだ年齢まではまだあと、十五年ほどあるのだが、人生をもう一度、若かったころからやり直すこともできないし(ああ、それができたらどんなによかっただろう)、死に別れた人とも生き別れた人とも、なにもなかったことにしてやり直すことのできない、そんな年齢まで生きてきてしまった自分を厭うばかりだった。彼の母は昭和五十三年に六十四歳で死んだが、本当に彼はさらに、手を汚したまま洗いもせず、もうすでに数年母親よりも長い時間を生きてしまっていた。そして、明智は横浜のあの町のことを思い浮かべるたびに[廃市]という言葉を連想する。それは彼の「おれは廃人みたいなものだよ」という告白でもある。自分で過去を振り返ってみて、そこに縛り付けられたまま身動きできずにいる自分をあらためて自覚して、オレって廃墟で生活している人間のようだな、と思うのだ。それは過去の記憶ばかりに囲繞されて生きていたからだった。しかし、現実の、彼が知っていた横浜も廃墟のような街、「廃市」だった。『廃市』はだれか、昭和の作家にそんな題名の小説があったと記憶しているが、あいにく、その作品を読んでいないので、その作家がどういうつもりで、自分の小説のどういう状況にそのタイトルをつけようとしたのか、分からない。彼が横浜のここ、山手のあたりを廃市と呼び、それをわたしがいまから書こうとしている〝思い出小説〟の題名の第一候補として考えていて、自分の作品を[廃市]と命名しようと考えていることにはそれなりの理由がある。この町が「廃市」…、廃墟の町だという意味はつまり、町が過去の歴史のつくった名所旧跡の集合体のようなもので、昔の思い出と遠い歴史に生きている町という意味だ。とくに、山手のこのあたりはそうである。もちろん、いま現在、この町で生活している人たちもいる。実際、ここで古くから暮らしている人たちはみんな、訪れる観光客の目を避けるようにしてひっそりと生きているのだが、それにはわけがある。このあたりの家は多くが古く、高齢者や若くても定年を迎える世代の人が住んでいて、世間の流行・浮沈に付き合いきれずに煩わしい思いをしていて、金銭的なことをいえば、どの家も大きな家屋敷を構えながら、ほとんどの家の台所は火の車で、親父が出世して、ムスコも同じように勢いがよければ話は別で、家のたたずまいは衰えずにすむのだが、そういうことはまずない。だいたいがムスコは、親父の作った財産を食い潰すと相場は決まっているのだ。かくいう彼も、彼の場合は横浜で育ったわけではなかったのだが、同じようなものでいまは父親の残した財産をチビチビと切り売りしながら、わずかな年金で慎ましく暮らしている。そして、慎ましく侘しい生活はいまの彼だけのことではなく、この横浜山手に住んでいる人たちも同じである。住民税や不動産税、その他もろもろの国民健康保険とか年金の支払いとか、NHKの放送料金とかの支払いに苦しみながら、みんな地味に暮らしているのだ。最新流行の自家用車が駐車場に置いてある家なんて、そんなにない。そのことはちょっと散歩してみれば分かるのである。年金生活の老人たちが圧倒的に多いのだ。みんな、古い家の中に錆び付いたようになって暮らしていて、身動きがとれず、精神的には苦しいのだが、それでもこの町が好きというか、愛しているのである。町が好きというより、町と過ごしてきた過去の生活がなにものにも代えがたい価値を持っているのだろう。高杉貞顕が意気盛んな青春時代を過ごした横浜に戻りたいと考えたのも、むべなるカナである。横浜は至るところに過去の栄光が鏤められた場所なのだ。町の至るところに若々しくて男盛りだった時代の思い出が埋まっているのだ。それに、港が近いと、なにかあった時、すぐにでもどこかに逃げ出せるような気がするのかもしれない。この町には、むかし、勢いよくひとやま当てて、ここに土地を買って引っ越してきた時の財力と勢力をそのままに持ち続けて生活をしている人たちもいないわけではないのだが、そういう人の数は少ない。ほとんどの人が、とっくに経済的な余裕がなくなってしまい、普通の人の収入しかなく、その家計を巨大な家、屋敷の維持費が圧迫している、そういう家庭がすごく多いのだ。そして、家の大黒柱だった主人が死ぬと、相続税が払いきれず、だいたいの人が土地を手放して、現金に換え、この町を出ていく。町はそうして、さらに善良な、古くからの住民を失うのである。そういう住民たちが立ち去った後、正体のしれない、ベンツが大好きそうな富裕層が移り住んできて、お金があるんだったら、チャンとした建築家に設計を依頼して家を建てればいいと思うのだが、そういう人たちは、だいたいどこか、ダイワハウチュとかプレハブ・メーカーの既成住宅を味も素っ気もなく、建てようとするのである。それが、そういうプレハブ住宅もけっこう個性的に見えて、悪くないから始末に負えないのだ。現代は個性までもが大量生産される時代、というわけだ。こうして、町はどんどんダメになっていく。彼はこの町を廃墟の町という意味合いで廃市と考えていたのだが、本当のところ、彼は[滅びゆく町]という意味を込めて、このあたりを[廃市]と呼ぶのだ。彼が高杉貞顕に初めて出会ったのは高杉が死ぬ三ヶ月ほど前、六月の上旬のことだった。そのころの彼には毎朝早くに起きて、自分の家の回りを手始めに横浜の街のなかをかけずり回る習慣があった。要するにジョギングである。これはその日の気分で、西にむかって走っていって石川町の駅の脇から中華街のなかを通って横浜公園の方まで行って戻ってきてみたり、北にむかって真っ直ぐ元町への坂を下っていき、新山下から本牧埠頭の方まで走っていって帰ってきてみたりしていた。横浜は美しい顔のすぐそばに毛の生えた陰部があるような街で、中華街からちょっとのところには黒澤明が映画『天国と地獄』のなかで地獄の役目を受け持たせた日の出町があるのだが、彼はこの街には明け方のこととはいえ、あまり近寄らないようにしていた。ここではこの話はあまり深入りしないが、この街にたむろしている初老の男たちが自分と別の人種の人間とはとても思えなかったからだ。彼の住んでいた山手のあたりにはフェリス、双葉、横浜女子、横浜女子商業と女の子の学校がたくさんあり、そういう学校の回りばかりを駈け回ったり、気の向くまま、好きなように走ってみたり、止まってみたり、歩いてみたり、アスレチックジムにいくかわりに、この、朝のジョギングを自分の一日おきの朝の日課にして暮らしていたのだった。それで、そういう自分でつくったジョギングのコースのひとつにフェリス女学院の脇を走って、代官坂にたどり着き、トンネルをくぐって元町公園、そこから元町通りの裏筋、さらにそこから東に走って、右折し谷戸坂を駆け上がって、港が見える丘公園に出て、そこから千代崎に戻ってくるという道程があるのだが、そのころ、このコースを走っていたのは一週間に一度くらいだったろうか。明智が初めて高杉貞顕に会ったその日の朝は、前の日、眠りについたのが遅かったことがあって、寝坊してしまい、いつもより二時間くらい遅く起きただろうか。空を見あげ、どんよりと曇っていて、雨が降り出しそうだなとは思ったのだが、ジョギングをするはずの日にしないでいると、なんとなく足に浮腫んだ感じがまとわりついてはなれない。一日、身体のなかの水がキチンと抜けてないような感じに付きまとわれて嫌なので、無理して、普段より二時間くらい遅れてだが、七時前に家を出て、走りはじめたのだった。空模様は怪しく、いつ雨が降りだしてもおかしくない、グズグズした天候だったのが、この日は大回りして、元町から中華街、そこから大桟橋まで走っていって、折り返し山下公園を海沿いにぐるっと回って走ってきて、谷戸坂を上りはじめたところで、まことに沛然とという言葉がふさわしいような有様で雨が降り始めたのだった。半袖のTシャツ一枚でいた彼は、たちまち濡れ鼠になりそうになって、走るのをやめて、途中の、前述の黒屋根和風洋館の庇のついた門のところで雨宿りしたのだった。その屋敷は高い塀や背の高い木立に守られ、路傍からはなかの様子までは窺いきれなかったが、この道はいっときは彼と足腰が丈夫だった若いころのラッキーのお気に入りの散歩道だったから様子はよくわかっていた。ラッキーというのは彼が買っている十四歳のシーズーだった。余談だが、犬の十四歳というのは人間でいうと、八十歳過ぎの超後期高齢者である。そして、この場所はそのころはたしかに空き地だったところである。ちょうど1年ほど前になるが、この家が建てられたとき、施工者は北側を竹林で囲い、庭の一方を築山にして巨大な石を運び込んで、さまざまの花木、巨大な背丈のトウツバキやセイヨウシャクナゲを植え込んだのである。これらの花々は今年の真冬から春先にかけて見事な花を咲かせて、フランス山あたりを歩く人たちを驚かせた。彼も春先の散歩の途中、一斉に花を付けた血のように赤いシャクナゲの瞭乱にびっくりしたのだった。そして、大輪な深紅のシャクナゲの花が散ってしまったあと、この一角にはキリシマツツジが咲き始め白い可憐なクチナシが夏に向かって蕾を付けて、ハナミズキが花を咲かせる準備をすませるのである。しかし、それらの花々もたしかに可憐で美しかったが、シャクナゲの花塊の通る人の度肝を抜くような華やかさはなくなってしまっていた。やはり冬の終わりから春の初めにかけての、巨大なシャクナゲの花の盛りがその場所が一年で一番きれいな時節だった。一年前に家が建ったあと、そこにはしばらくは人の住む気配はなく、彼は多分これはどこかの企業が金にまかせて作った茶寮か保養施設かなにかなのだろうと思っていた。事実、この屋敷の門扉には小さく目立たぬ表札で山手寮とだけ書かれていたのである。雨はなかなか止まず、門のすき間から邸内を見るともなく見ると、玄関先に何台かの高級車がとまっていた。朝のにわか雨に閉じこめられて身動きがとれぬまま、どれほどはその門の庇の下にいただろうか。彼がいつまでも止まない雨にしびれを切らして濡れ鼠を覚悟で走り出そうか、と考えはじめたところで、門の脇の勝手口がギッという音を立てて開いた。そして、そこからその館の家人が出てきて「あのう、すみません」と声をかけてきたのだ。現れたのは、若い、朝早かったから、化粧っ気もなかったが、うりざね顔の日本美人といっていい、整ったオカメ顔をした美しい女だった。それが、要領を得ない感じで「突然声をおかけしてすみません。もしよろしければ、家の方にお寄りになりませんかとわたしどもの主人が申しているのですが…」そういって、話かけてきたのである。これまで長い間、朝方の横浜の街をかけずり回ってきたが、途中で、見ず知らずの人から呼び止められてウチに寄っていきませんかと誘われたのは、これが初めての経験だった。声をかけられた彼もびっくりしたのだが、娘の方も、突然変なこといってすみません、という場馴れしない感じを隠さなかった。彼は、最初、「いや、雨が小降りになったらジョギングをつづけようと思ってますから」と言い訳して断ろうかと思ったのだが、この誘いを断ると、雨宿りしているこの場所からいますぐ出ていかなければならなくなるような気もして、曖昧に、しどろもどろでいた。すると、その娘に繰りかえして「あるじがぜひ、あなた様に家にあがっていただくようにと申しております。お立ち寄り下さいませ」と、断れないような口調で懇願された。声を掛けてきた相手が、自分好みの美人だから話を断れなかったということもあるのだが、もともと彼の性格は優柔不断で、あれかこれかといわれると、すぐにあれもこれもと考えはじめる強欲なところもあって、人に強く出られると、嫌でもなんでもイヤといえない、日本の外務省のようなところのある弱気な人間だっだのだ。それで「はい」と返事をしたのである。「どうぞ」と招き入れられて、娘の後をついていった。なんべんもこの屋敷の前は通っていたが、高い塀にかこまれていたので、邸内がどうなっているかを見るのは初めてだった。建物のたたずまいはみごとなもので、門から玄関先までが白い砂利を敷きつめ、円い置き石を置いた、藁葺き屋根のついた渡り廊下のようになっていて、風情のあるものだった。その家は鉄筋コンクリート作りのくせに古風な佇まいの木造建築のような体裁をした、黒い和風瓦を葺いて平屋根にした、白壁の、派手な色使いを嫌って和洋折衷の美しい調和を徹底的に追及した広壮な建造物だった。二階の一角に大きな窓ガラスを何枚もはめ込んだサン・ルームが見え、そこはいつも見る人が見ればスイスのヤコブ・シュレーファーのカーテン地だと分かる重厚なデザインの分厚いカーテンが掛かっていた。雨が降っていて、湿度が高いせいかも知れなかったが、プーンと檜のいい匂いがする江戸時代の武家屋敷の上がり框のように広い応接間のような玄関口からあがって、通されたのは空間の真ん中に大きなテーブルが置かれたリビングルームなのだろうか、それとも食事室といえばいいのだろうか、大きな二十畳ほどもあろうかという板の間だった。その真ん中に置かれた大きなテーブルに二人の男が座って、なにかを話していた。ひとりは脇に携帯用の酸素ボンベをおいて、それにつながっている酸素吸入器の管を鼻の穴に突っ込んだ病気らしい老人、もうひとりは白衣を着た中年の男で、こちらは医者らしかった。二人はお茶を飲みながら、なにかを話していた。若い娘が「お連れしました」といって、彼を部屋に導き入れると、中年の男の方が立ちあがり、「じゃあ、そういうことでお大事になさってください。また、明後日の朝、顔を出しますので」そういいってから、娘にむかって「なにかあったら、すぐ連絡してください」といい、それからもう一度老人に向かって「無理をなさらないでくださいよ」といい残して、彼に向かって丁寧に会釈し、部屋を出ていった。彼は、ちょうどその男(後でこの家の主の主治医と知った)と入れかわりで招かれる形になった。ずうずうしいかとも思ったのだが、なにしろ、相手がどうでも家に入れというのだから、仕方がなかった。あとから思えば本当に、おとなしく彼女のいうことを聞いてよかったのである。あのとき、高杉貞顕と知り合いになったことが高杉にとってよかったかどうかは別にして、少なくとも彼にとっては最高のラッキーで、いろんな意味で幸運だったことは間違いなかった。「まあ、どうぞ、お座りになってください」主人がそういうと、そばについていた、彼を案内してきた若い娘がサッと椅子を引いてくれた。「おどろかれたでしょうね」老主人はそういって、ニコニコ笑っている。「肺炎だというんですよ。いつもはなんでもないんですが、時々、ものすごい咳が出るものですから、咳が出ると痰も出て、それに血が混じっていますから、どっかが悪いんでしょうね。医者からは酸素が足りないという話で、こんな不便なものをハナに付けて暮らしているんです。もう、金儲けや世の中のことからは手を引いた、引退した年寄りですから、他意はありません。雨が止むまでの間、話し相手になっていただいて、マア、お茶でも飲んでください」そういって、なごやかな口調で話し、「わたしは高杉というものです。もう、八十五歳ですよ。ずっと昔に使い物にならなくなって廃業したビジネスマンです。しばらくこの世でウロウロしていましたが、もうじき、あの世行きですな。わたしの知り合いも死人ばかりで、みんな、向こうでわたしを待っています、アハハハハ」アッケラカンとした口調でいった。彼も自分がなにものか名乗らなければと思って、こういった。「あ、すみません。ぼくは明智小太郎、アケチコタローというものです。明治の明に美智子様の智と書きます。家の家紋は**桔梗ですから、多分ご先祖様は明智光秀だと思うのですが、いまの僕自身はまさしく通りがかりのものです」「通りがかりはわかっています。わたしがお招きしたんだから」「ハハハ、そうでしたね。いま五十一歳でひとり暮らしです。いや、正確にいうと、犬とふたり暮らしです」「面白い方ですね。失礼ですがお仕事はなにをなさっているんですか」「いちおうボクは私立探偵なんですが、探偵の仕事があまりなくて、ふだんは中華街にある駐車場の深夜の管理人とかをやってくらしています。それだけじゃやっていけないので、あと、引っ越しの手伝いとか頼まれると白タクの運転手とか、その他いろんなことをやっているんです。この山の向こう側の坂道を降りていったところの北方小学校のそばのキリン公園の前にあるマンションに住んでいるんです」彼はなんとなく萎縮して、阿るような気分になり、軽薄な調子で聞かれていないことまで答えた。明智が私立探偵を自称しているのは、その肩書きが自由にそう名乗ってもなんのお咎めもないくせに職業としては変な説得力を持っていたからだった。実際に探偵のような仕事を頼まれることがあったから、別に嘘をついているわけではないのである。刑事とか弁護士とかいう仕事は、資格が必要だったり、大きな組織に所属していなければそう名乗ることはできなかった。しかし、探偵だったらそんな縛りもなく、それなりの仕事のイメージがあった。また、私立探偵という肩書きがなんとなく胡散臭いのも自分に合っている気がして気に入っていた。このほかに、全然たいしたことないのだが、知り合いの出版社に頼まれて、つまんない原稿とかも書いていたが、だからといって、作家とかライターなどと名乗るのはさすがにおこがましかった。このときの彼には勝手に他人の家の軒先で雨宿りした負い目もあった。自分を飾り立ててもしょうがないと思って、彼は正直に答えたのだ。「ああ、あそこの公園なら知っていますよ。私立探偵なんですか」「まあ、それだけじゃやっていけないんでいろんなことをやっているんです。駐車場の料金係りとか引越しの手伝いもやってます。なんでも屋なんです。失業者のフリーターみたいなものですよ」彼が調子に乗って、聞かれてもいない、説明しなくてもいいことを話すると、高杉はニコニコと笑い、頷いて「そうなんですか。なんにせよ、生きていくのは大変ですからね」と感に堪えたようにいった。実際、そのころの彼の生業をひとことで説明するのはとても難しかった。細かい話はここではしないが、そのころの彼には毎月、四、五十万円の収入があり、人から見ればけっこう稼いでいた。一人暮らしには十分な金額のはずだったのだが、しかし、台所というか実情というか、財布のなかは火の車で、大変だった。老人は、彼の顔をしばらく見つめて「いい人相をしてらっしゃるんですがねえ」といった。他人から、自分の人相について、そんなことをいわれたのは初めてだった。高杉は、彼の顔を見つめたあと、しばらく間をおいて「とても駐車場の料金係りには見えない。才気にあふれた顔をしている。私立探偵だったら名探偵でしょうね」と付け加えた。正確にいえば、彼の仕事は駐車場の深夜の料金係りや白タクの運転手が専門というわけでもなかった。ハードボイルドに探偵仕事で生活していければそれに越したことはなかったが、現実はとてもそういうわけにもいかなかった。「とても名探偵なんかじゃありません。仕事の依頼は滅多にありません」明智がそういうと、高杉と名乗った男はハハハハハと朗らかに笑い「心配することありません。才能に溢れている感じがしますよ。大器晩成ですな。若い頃、一度、一花咲かせてらっしゃるでしょ。しばらくすると、もうひとやま来ますよ。ソロソロですよ。根拠といわれてもこまるんですが、なんとなく感じでわかるんです」と、謎のようなことをいった。部屋にはいつの間にか、音楽が流れはじめていた。古いクラシックのようだった。老人は流れる調べにしばらく耳を傾けた後、「ペールギュント組曲第一番だね」といった。高杉と名乗った老人は、つづけていった。「ぼくはクラシック音楽も嫌いじゃないけれど、日本の歌謡曲が大好きでね。歌が好きでよかったですよ。好きな歌を歌っているときは幸せでいられる。歌が好きな分、歌を聴いているときは幸せだったからね」彼も音楽は嫌いでなく、特に、昔の流行歌、日本の古い歌謡曲が好きだった。「ぼくも歌謡曲は好きなんです」彼がそういうと、老人はこういった。「歌には人生を癒して、人間を勇気づける力があるからね」「ハイ」彼は頷きながら、黙って老人の話を聞いていた。いまはもう歌謡曲もあまり聞かなくなってしまった。横浜にいたころ、彼は家にまで有線放送を引いてもらって、昭和の時代に流行した歌謡曲やポップ・ミュージックばかり聞いて暮らしていた。「歌ももういまはダメだね。いまの時代の流行歌というのは、いくら聞いても好きになれないよ」高杉と名乗った老人は、ほぼ彼がいつも考えていることと同意見の、そんなことをいった。「いまの流行歌を聴いていると、場面設定が亡くなってしまっている。全部、歌手たちの生活にそのまま二重写しできるキャラクターソングになってしまっているよ。そんな歌ばかりが歌われる時代が来るとは思わなかった」これも彼と高杉は同意見だった。「ぼくもいま、流行っている歌はあまり好きじゃありません。昔の歌は思い出せますが、いま、流行っている歌は何度聞いても覚えられません。不思議なものです」彼がそういうと、高杉は有線放送のリモートコントローラを取り上げて、チャンネルを変えた。スピーカーから古い歌謡曲が流れてきた。石橋正次が歌う『夜明けの停車場』だった。
♪夜明けの停車場に ふる雨は冷たい
涙をかみしめて さよなら告げる
きらいでもないのに なぜか
別れたくないのに なぜか
ひとりで旅に出る 俺は悪い奴
だから濡れていないで 早くお帰り
君には罪はない 罪はないんだよ
♪ひと駅過ぎるたび かなしみは深まる
こんなに愛してて さびしいことさ
きらいでもないのに なぜか
別れたくないのに なぜか♪
♪しあわせ捨てていく 俺がわからない
だから遠くなるほど 胸が痛むよ
君に罪はない 罪はないんだよ♪
部屋に石橋のしみじみとした歌声が流れた。石橋正次は俳優のくせに妙に歌のうまい人だった。うーむと目をつぶってしばらく聞き惚れていた高杉は「雨の歌はいい歌が多いね。この歌もいいね。この歌は確か馬淵さんの作品だったね」といった。それから、高杉は笑いながら「でも、この歌の男は、どうして嫌いでもない女と別れて、一人で旅に出るんだろうね。自分の意志で旅に出るんだろ。兵隊にとられるわけじゃないし、まあ、もう一人好きな女ができて、その女のとこに行くんだろうね。ぼくも経験があるよ」といった。明智にも昔、同じような経験があった。高杉はそういえば馬淵さんも先日、亡くなられたね」馬淵玄三、またの名を演歌の龍。五木寛之の小説『艶歌』の主人公、高円寺竜三のモデルになった人物である。馬淵は、自分の部下が作った、いったん吹き込みを終わらせた石橋のこの歌の出来が気に入らず、自分からスタジオに入って、石橋に直接歌唱指導して、再吹き込みして原盤を作り直させたという。よほど、明確な作品イメージがなければ、こういうことはできない。それで歌がヒットしなければ、本人の命取りになりかねないのだ。美空ひばりや小林旭、北島三郎らの歌を手がけてきた、歌はこうなければならないという明確なポリシーを持った人だった。調べてみると、馬淵玄三の死亡年月日は一九九七年五月十五日のことである。彼と高杉が出会う、二年前のことだ。馬淵は一九二三年の生まれだから、享年七十五歳だった。「男はひとりで、何人の女でも好きになれる。これは生物学的な〝種の保存〟という本能の話だからね。変な話だけど、自分の子孫が残せれば、場合によっちゃ女なんて、生殖能力さえあれば誰でもいいんだよ。こんなこというと女たちに怒られちゃうけどね。アハハハハ」高杉は歯のすっかり抜けてしまった口を開けて、無邪気に笑いながらそういった。明智は馬淵玄三には面識はなかったが、この歌をうたっている石橋正次はよく知っていた。それは彼が捨てた過去に関連していた。ずっと昔、もう四十何年も昔のことである。石橋は新国劇出身の俳優だった。大阪の生まれで昭和四十五年に、日活映画の非行少年役でデビューした。彼が有名になったのは日本テレビの学園ドラマ『おれは男だ!』で森田健作と共演し、そのあと『飛び出せ! 青春』で主演してからだった。昭和二十三年生まれだから、明智より一歳年下で今年、六十七歳になっているはずだ。先日、テレビを見ていたら、その石橋が懐メロ番組に出てきて、頭がすっかり禿げあがっているのでおどろいた。石橋は石橋らしく、禿げ頭でも不逞の雰囲気があり、相変わらず風格を感じさせて、かっこ良かった。明智が石橋と知り合ったのは大昔のことだが、彼にもそれなりの秘められた過去があった。彼がまだ人生に希望とか、やる気を溢れさせていた若いころのことである。明智は大学を卒業して、新卒就職で広告代理店のD2に入社したところだった。かけ出しの広告ディレクターで、初めての仕事はグリコのチョコレートのCMを作るという話だった。それで、テレビドラマで活躍している若手の男の俳優を使おうと考えてオーディションを開いた。そのオーディションで一人を選んで使うことになっていた。有名無名の若い俳優たちが二十人近く参集したが、石橋もそれを受けに来たのである。あのころ、森田健作とか松田優作とか、沖雅也とか、志垣太郎とか、内田喜郎とか、テレビのドラマからどっと若い俳優たちがデビューした。石橋もそうやって出てきた若手の俳優のひとりだった。ほかの俳優たちに比べると持ち味は地味だったが、ちょっと不良少年みたいな雰囲気もあり、いいキャラクターだった。しかし、そのときのオーディションに合格したのは志垣太郎だった。決めたのはスポンサーである。石橋は顔の甘さで志垣太郎に負けたのだった。履歴書の特技の欄に《歌》と書かれていたので、アカペラで一曲歌わせた。そのとき、彼は石橋が歌の上手なのに驚いて、もったいないと思って、当時、仕事仲間だったコロンビアの宣伝部の人に紹介したのだった。それがいったんコロンビアからレコードを出しながら、しばらくしてライバル会社のクラウン・レコードから歌手デビューしたのだ。そのとき、コロンビアにつないだのにどうしてクラウンなんだよと思った記憶がある。しかし、歌は大ヒットして、いまでも歌われているのだからクラウンで正解だったということだ。だから、この歌がヒットしたときのこともよく覚えている。歌の内容は確かに、男が女を捨てるときの歌である。心変わりした、でも、未練もある、そういう歌だった。高杉は歌を聴きながら「ぼくは雨降りの横浜が大好きなんだ。雨に煙る港を見ると胸がしめつけられるよ」といった。彼がその理由を聞こうとすると、ああそうだ思いだしたといって、娘を呼んだ。「晴美さん、昨日、樫山不動産の社長がもってきてくれたチーズケーキがあっただろう。アレを僕たちに出してくれないか」そういったあと、「僕はチーズケーキは入れ歯なしで食べられるから大好きなんだ」といった。それから、「チーズケーキ、食べるよね」とに彼に訊いた。娘は晴美という名前らしかった。「チーズケーキとプリンは歯がなくて、歯茎で食べられる美味しい食べ物の代表だね」といったあと、言葉をつづけて「珈琲より日本茶の方がいいかも知れないね」といった。晴美さんと呼ばれた女が、皿に盛ったケーキを持ってきて 「宇治茶を入れましょうね」といって、日本茶を淹れはじめた。高杉の話に出てきた樫山不動産の社長といったら、彼が知っている限りでは、元町の不動産屋の社長の樫山清三だけだった。社長といっても社員は奥さんひとり、あとはアルバイトの若い娘をひとり雇っているだけの個人経営の小さな街の不動産屋だった。彼は「ハイ、チーズケーキと宇治茶、いただきます」と答えた。自分の知っている人間と同一人物かと思って「樫山不動産の社長って樫山清三さんですか」と聞いてみた。突然、自分の知り合いの名前が出てきたのでびっくりしたのだ。そのころの明智には友だちと呼べる人間はほとんどいなかった。彼は世捨て人みたいに暮らしていた。横浜の街で、彼が親しくしている人なんて、数人しかいなかった。千代崎のセブン・イレブンの知里子ちゃんとか、中華街のカラオケスナックの『パイロン』でホステスをやっているヘレン(またの名を楊暁真)とか、同じく中華街の違法滞在の中国女たちの相談役をしている『月町』のママの竹美ちゃん(またの名を李竹美)とか、本牧のフォブ・コープで働いていた元タレントの松本小雪とか、港が見える丘公園の脇にある紅茶のうまい喫茶店『銀猫亭』の柴田美穂とか、知り合いはどういうワケか女が多いのだった。知里子ちゃんとヘレンはときどき連絡を取りあってホテルとかで待ち合わせて、お小遣いをあげてセックスさせてもらっていたのだが、柴田美穂は別れた女房の親友、松本小雪は中華街の土産物屋の若旦那と結婚したばかり、『月町』の竹美ちゃんは名前は若そうだが、七十過ぎたおばあさんで、こういう人たちはセックスフレンドというわけにはいかなかった。そして、唯一の男性の知り合いである樫山清三だけはいわば、元町の顔役、明智の横浜ボスで、年上の特別の大切な知人だった。明智が探偵仕事を始めとしていろんな日働きの仕事をもらっている、大事な仕事先だった。樫山不動産というのは、石川町の元町に抜ける途中の商店街のなかにある街場の不動産屋で、そのほかにも街のなかでいろいろな商売に首を突っ込んでいる人だった。樫山はいわば、横浜の街のよろず揉めごと請負マスみたいな、便利屋の元締めみたいなもので、じつは彼もその[樫山のいろいろな商売]の関係者だった。彼が言葉を重ねて「樫山さんを御存知なんですか」と訊ねると、高杉老人はこう答えた。「ウン、昔の仲間というか、知り合いですよ。何十年も前の。彼がまだ若かったころのね。アレが小学校に上がったときに、アイウエオを教えてあげた。七十年以上昔の話だ。あの人は昔はセーチャンて呼ばれていたんだよ。ボクがこうやって横浜に戻ってきて誰にも連絡せずにないしょで暮らしていたら突然訊ねてきた。誰かに噂でボクが横浜に戻ってきたことを聞いたらしい。それで水くさいじゃないかっていってね、訪ねてきた。ケーキを持って、病気の見舞いに来てくれたんだ。会ったのは五十年ぶりくらいだよ」話のスケールが昨日、今日、一年前、二年前のことではないので、それにも驚いた。「随分、長い付き合いなんですね」と間の抜けたことをいうと「まあ、そうだね。それだけ年を取っちゃったんだけどね。昔のことですよ」高杉はしんみりとそういった。書いたように樫山清三は、明智の大切なクライアントのひとりだった。つまり、金づるである。あのころ、彼に仕事をくれる人たちは、『週刊ポンプ』の柚木とか、日本医学出版の柳生とか、東京の友人も何人かいたのだが、横浜で商売している樫山が彼に頼んでくるのは、東京の人たちのように週刊誌の原稿書きや英文資料の下訳ではなかった。樫山は不動産屋の看板を掲げてあのあたり、石川町から元町、中華街の一部までにかけてを縄張りにして商売していた。こう書くと暴力団みたいだが、別にみかじめ料をとるとかそういうものではなく、実際にどうなのかはわからないが、戦前からこの場所でずっと同じようなことをやってきていた。町内の問題処理係、なんでも相談屋、悩みごと解決係なのだった。それで、古い住人たちは、なんでも問題が起こると、樫山に相談した。樫山は街の百科事典みたいなもので、弁護士でも医者でも会計士でも、暴力団でも政治家でも…、要するに誰とでも知り合いだった。たいていのことは電話一本で処理する能力を持っていた。彼もあることがきっかけで樫山と知り合って時々、仕事を頼まれるようになった。引っ越し手伝いの人足をやらせてもらったり、私立探偵まがいの尾行調査を頼まれたり、白ナンバーのハイヤーみたいなものだが年寄りを樫山の自家用車で家まで迎えに行って、どこかに送っていったりしてなにがしかをいただいていたのである。白タクの運転手はその場の出来高払い、引っ越しの手伝いは一日1万円とか1万5千円くらいにしかならなかったが、これも即日払いだった。私立探偵仕事は尾行調査が多かったが、これはけっこういい金になった。朝から夕方まで張りついているだけで、日銭を5万円くらい、仕事が終わったところで現金でくれたのだから、貴重な大切なクライアントといったのである。明智が高杉に「セーチャンを知っているんですか」と聞かれて、「ぼくも樫山さんとは親しくさせてもらっているんです」というと、高杉は驚いて「そうですか。奇遇ですね。でも、あいつはいまやこのあたりの主みたいなものだからね。顔が広いからね、アレはあそこの建て直す前の家の二階で生まれたんだから。もう、七〇年以上前だからね」といった。それから、ニコニコ笑いながら明智に向かって「アケチさん、朝、時々、この坂道を走っているでしょう。いつもはもうちょっと早い時間ですよね。ぼくはまだ寝てる時間だけど、貴方が走っていくのだけはわかるんですよ。寝てても目が覚める」と驚くべきことをいった。ベッドに横になっていながら、彼が家のそばを走り抜けていくのがわかるというのだ。「監視カメラで見てるワケじゃありません。最も、ウチの門には監視カメラがついてるようだけれども」高杉はそういって、また、歯のない口でアハハハハと笑った。いっていることの意味がわからなかった。正直いって、彼はこのときの高杉貞顕との出会いが、そのあとの自分の人生にこんなにも大きな意味を持つことになるとは思わずにいた。というのは、それは彼にとっては偶然の出会いだったのだが、高杉にとってはそうではなく、必然なのだったからだろうと思う。それは別の言い方をすれば、高杉と明智の出会いは、その時の彼にとっては長くつづく日常のなかで起こった些末な出来事のひとつにしか思えなかったのだが、高杉にとってはずっと待ちつづけていた、非常に重大なこと、運命という言葉を使って説明してもいいかもしれないような意味深い出来事だったのだ。前段で「大きな意味を持っていた」と書いたのは、彼にとってというよりもむしろ、余命少なかった高杉にとってなのだった。彼が高杉とのあの出会いが持っていた重要性を理解したのは、ずっとあと、高杉が死んで何年もしてからのことである。高杉は多分、彼に会うために、いや、彼でなくてもよかったのかもしれないが、彼のような力を持つ(と高杉が信じることのできた)人間存在に出会うために、横浜に戻ってきたのだ。高杉は歯のない口を開けて、アハハハハと嬉しそうに笑い、彼にこういった。「明智さん、人間というのは一人一人がそれぞれ[気]というものを持っていてね。オーラという言葉でもいいんですが、精神のエネルギーですよ。[気]は人によって強弱が違うし、人同士の相性もあるから、強い気を持っている人同士でも反応しないこともあるんだが、ぼくは貴方が走ってくると、本当にすぐわかるんだよ。心が反応してね、溶けた鉄が自分のそばを流れていくような、猛烈な気分になるんだよ。それで、ある朝、貴方が走ってくるのにあわせて、ベッドから抜け出して、その熱の塊が貴方だと確認したんですよ。とにかく、武智さんはオーラが強い」彼はそういわれて、驚きながら「そうですか、自分では全然気が付きませんでした。ずっとご迷惑をおかけしていたんですね。すみませんでした。でも、エネルギーが強いっていうのはぼくじゃないんじゃないですか」と否定しながら、反論した。高杉は、クビを左右に振り「いやいや、やっぱり武智さんなんですよ。それはわかっているんです。でも、それをぼくはちょっともイヤじゃないんですよ」笑顔を絶やさずにそういうふうにいった。この、高杉のいる部屋の壁側に置かれた大きなガラス戸棚には銀の洋食器や骨董の茶碗、その隣には古本がズラリと背丈を揃えて並べられていた。古本は彼も好きだったから、どんな本が並んでいるのか、その書棚を一目見てビックリした。これが大変なコレクションだった。深尾須磨子の『詩情の笛』、竹内てるよの『花と薔薇』、森三千代の『珊瑚礁』、江間章子の『純粋な貝殻』、露木陽子の『地上の苑』、馬淵美意子の『東方の蕋』、日本に二冊しかないといわれていた庄原照子の『マルスの薔薇』があるのにも驚いた。書棚のその段には昭和の初期から敗戦までにかけて活躍した女流詩人たちの詩集がズラリと並んでいた。その下段には安西冬衛の『軍艦茉莉』、丸山薫の『帆・ランプ・鴎』、立原道造の『ゆふすげびとの歌』、伊藤静夫の『わがひとに与ふる哀歌』、野村英夫の手製詩集『司祭館』、小林秀雄が訳した1930年に白水社から出版された『地獄の季節』、高村光太郎の『道程』、萩原朔太郎の『月に吠える』と『氷島』、宮沢賢治…、日本の近代の詩人たちのさまざまの本が何百冊も並んでいた。それを見つけて、「これはすごいコレクションですね」と彼がいうと、高杉はちょっと表情を歪めて「子供のころ、金がなくて本が買えなかったからね。高い金を出して、いまごろ、古本を買い集めているんだ」といった。彼が「高そうな本ばかりですね。これみんな初版でしょ」という。彼は前に、横浜の伊勢佐木町で、宮沢賢治の詩集『春と修羅』の初版を四〇万円で売っているのを見たことがあった。ガラス戸棚に入れて、鍵がかかっていた。本を見せて貰えないかと、店番の若者に頼むと、「鍵を主人が持っていて、主人がいないと開けられないんです」といわれた。こういう本には、相場なんてあってもないようなものなのだろう。彼が立ち上がって、本箱の前にいって動けずにいると、高杉が「読むなら、お貸ししますよ。よく知らないけど、古本屋がいうには、こういう本は国会図書館にもないらしいね。持ってる人から借りて、フィルムに撮影して、保管しているらしいね」といった。伊東静雄の『わがひとに与ふる哀歌』など、いままで見たこともなかった。どっちにしても、自分の家のなかの書庫を探せば、この時代の詩人たちの全集や文庫はどこかにあるはずだから、読書のためということでいうと、彼にはこれらの本を借りる意味もない。隣家の庭先にたわわに実った大きな甘柿みたいなものである。「小説や随筆は二階の部屋に置いているんですよ。本はたくさんあるんだけれど、横浜に引っ越してくるとき、好きな本だけ選んで持ってきた。別に初版にこだわってるわけじゃないんだけど、初版しか出てない本もけっこうあるしね。古本屋も初版に高い値段を付けて持ってくるんですよ。どの本も高くてね、でも、わたしのためにかけずり回っていてくれる古本屋さんが何人かいて、その人たちが必死で集めてくれて、ここまでになったんです。だいぶ、カネはかかったけど。他に道楽もないし、ささやかな贅沢ですよ」と高杉は笑顔でいった。「ベッドで寝ていて、ぼくが走ってくるのがわかるんですか」と彼があらためて訊ねると、高杉は「ぼくもそういうことに敏感なんですよ。性質ですね。でも、貴方のオーラの強さも相当なもんです。ここに引っ越してきてからずっとですが、貴方がそこの道を通るたびにわたしは心臓の動悸が激しくなった。眠っていても、目が覚めるんですから。それで、どうしても一度、あなたに会わなければ死んでも死にきれないと思っていたから、今朝、会えてとても嬉しかった。また、遊びに来てください」高杉は言葉を継いでそういった。「いずれもう一度、お時間をとっていただいて夕食にでもお招きしたいですね。そして、どうしてこんなことをいったか、詳しいお話をしなくちゃならないと思っているんですが、その時にはタケチさんのお仕事の話ももう少し詳しく聞かせてください」高杉はそういった。これがふたりの初めての出会いだった。窓から外を見ると、雨足が衰え、雨は止みそうだった。帰り際に、晴美さんと呼ばれた若い娘が門のところまで見送ってくれて、電話番号を聞かれた。彼はなんだか気持ちの悪いおじいさんだと思い、そのあと、この家の前を通るジョギングコースを走るのをやめた。二人が再会するのは八月の末で、それまのでの六月、七月、八月と三ヶ月間、何度かこの晴美という娘から、「高杉の使いの者ですが…」といって電話がかかってきたあと、半ば強制的な話の流れのなかでのことだった。「遊びに来ませんか」といわれても、彼は実際に仕事がつまっていて忙しかったこともあったし、のんびりと人のお相伴にあづかっている身分でもなかった。自分のことをあれこれ聞かれるのもイヤで、今日はダメなんですとか、いやちょっと忙しくてとか、いろいろいってズルズル延ばしに高杉との再会の約束から逃げつづけていた。彼は高杉の遺志を受け継いで生きる資格のあるような人間ではなかった。無念だが、それが本当のところなのだからやむを得ない。(第一章 愛人 につづく)