バーナード・ショー著『ピグマリオン』
果たしてふたりは
別れたのか結ばれたのか
313時限目◎本
堀間ロクなな
アイルランドの劇作家ジョージ・バーナード・ショーの『ピグマリオン』は、のちの人気ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の原作として知られるが、そこには作品の根幹を揺るがしかねない謎が横たわっている。その解明にトライしてみたい。
はるか昔、キプロス島の王ピグマリオンは自分で彫刻した女性像に恋して、それを見かねた愛の女神が生命を吹き込んでくれたことにより妻に迎えたという、ギリシア神話にもとづくドラマは多くのひとにとって親しいものだろう。ロンドンの下町の花売り娘イライザは、たまたま言語学者のヒギンズ教授と知りあい、その粗野な訛りを改めて正しい言葉遣いを身につければ淑女になれると聞かされ、さっそく押しかけて住み込みでレッスンを受けることに。ヒギンズの情け容赦ない猛特訓に泣かされながらも、半年間の努力の甲斐あって、イライザは淑女となりおおせ晴れて社交界にデビューを飾る。かくて人体実験がみごとに成功したとヒギンズは自画自賛するばかりで、いまだに自分を人間として見ようとしないことにイライザは憤怒を爆発させ、ようやく教え子に対する思慕に気づいたヒギンズをあとに残して、彼女に想いを寄せる青年貴族フレディのもとへと出奔した……。
さて、問題はそのあとだ。ショーが1912年に書き上げたオリジナルの戯曲では、イライザが去ったあと、ヒギンズは「はっ、はっ! フレディ! フレディ! はっ、はっ、はっ、はっ、はっ!」とげらげら笑ううちに幕が下りる。ふつうに考えれば、伝説のピグマリオンとは逆に、ヒギンズのほうは手塩にかけて仕上げた淑女をあえなく若造に奪い取られたという、いかにも気難しい皮肉屋のショーらしい結末だ。ところが、である。初演の舞台でヒギンズを演じたトゥリーはロマンティックな役柄を身上とし、最終場面ではロミオよろしく、イライザに向かって求愛のポーズをしてみせて観客の喝采を博した。そこで、憤懣やるかたないショーは、単行本を刊行する際にわざわざ「後編」の文章を添えて、はっきりとイライザがフレディと結婚し、ヒギンズは相変わらずしがない独身生活を送っているとの後日譚を明らかにした次第。
だが、話はこれで終わらない。1938年、『ピグマリオン』がレスリー・ハワードの監督・主演によって映画化される。このときのラストシーンでは、いったんフレディの車に乗って家出したイライザが舞い戻ってくると、二枚目俳優ハワードが扮したヒギンズは、「一体、ぼくのスリッパはどこにあるんだい?」と甘いセリフを口走り、この作品の翌年に大作『風と共に去りぬ』でヴィヴィアン・リーの初恋の相手役に抜擢されたのも納得のいく伊達男ぶりを発揮する。それはともかく、話をややこしくしているのは、この映画のシナリオを書いたのもショーそのひとだったことだ。つまり、オリジナルと打って変わって、ヒギンズとイライザが和解するという結末は、それを断固拒否していたはずの原作者が節を曲げて妥協したものなのか、あるいは、これはあくまで見かけだけでふたりは平行線のまま交わらないことを示唆したものなのか?
その後、1956年にこの作品が『マイ・フェア・レディ』としてミュージカル化されたときには、映画と同じセリフで華やかなハッピーエンドが描かれ、脚色を担当したラーナーはオリジナルの設定を覆したことについて亡き原作者に対し、「ショー殿よ、お許しください! どうもあなたが正しいとは思えないのです」とのメッセージを送った。さらに、1964年にミュージカルが映画化された際には、レックス・ハリソンとオードリー・ヘップバーンのコンビによるフィナーレが世界じゅうを魅了したため、もはやこのハッピーエンドこそがオーソライズされて定着するに至った。それは、果たしてショーの意に反するものだったろうか? しかし、こうした事態を招いたのは、そもそも原作者自身がオリジナルの戯曲と映画化のシナリオとのあいだで、肝心のラストシーンを改変したせいではないか? ふたつの結末をどう受け止めたらいいのだろう?
わたしはこう考えたい。ショーがオリジナルの戯曲を書いたのは56歳の年だった。そして、映画化にあたってシナリオを書いたのは82歳の年だった。この56歳と82歳の年齢差がカギを握っていると思う。つまり、戯曲は壮年の時期の産物であって、わが身をヒギンズに置き換えたときにイライザはまだ恋愛・結婚の対象として自然に受け止められたろう。ところが、シナリオのほうはすでに老境に入って久しい時期の産物で、若いイライザはとうてい恋愛・結婚の対象にならず、ありていに言うなら、老いたわが身にとっては介護をしてもらうヘルパーの立場だったろう。ふたりが和解して結ばれたかのように見えるのは、恋愛・結婚の関係ではなく、かと言って平行線の関係でもなく、いまや介護される高齢者とヘルパーの垂直軸の関係としてであり、それが「ぼくのスリッパはどこにあるんだい?」という、今後の身のまわりの世話を暗示したセリフになった――。
これはノーベル賞作家のショーに対して礼を失した見解だろうか? そんなことはあるまい。辛辣な文明論者でもあったかれならば、未来世界では人類の高齢化が進行して、長寿を実現した男女にとっては恋愛・結婚よりも老後の介護のほうがずっと重大問題になるだろうことぐらいは見越していたはずなのだから。