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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

2019年2月10日記事から、ディレクターズカットお届けします

2021.08.18 22:00

フレデリック・フランソワ・ショパン

肖像画から


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「私の最愛のルドヴィカ、あなたが去ってから、私たちは

あなたのことを話すだけでした。フリデリックは、あなたと別れることに苦しみましたことは、あなたもご想像のとおりでしょう。

しかしながら、彼は肉体的には元気になってきていて、

フレデリックは、モーリスの幾つかのいたずらや逃亡のことを言及しています。モーリスはひねくれているのです。」

ルドヴィカ夫妻がポーランドへ帰った後、フレデリックがルドヴィカ夫妻へ宛てた便りの後で、サンドもルドヴィカへお礼を短く書いた。

ルドヴィカ夫妻が帰る頃、フレデリックの馬車をモーリスが勝手に乗り回すようになって、フレデリックは困っていた。それは、ルドヴィカの夫が不満を持っているモーリスをそそのかし企てたとこだとフレデリックは抗議をしているとサンドは言っているのだ。

そして、ルドヴィカの夫が悪いが、そそのかされるように育てたサンドが元凶であることをショパンはサンドに言ったとか言わないとかの話のようだ。数々のいたずらとは、ショパンの馬車を無断で乗り回すなどはいたずらではすまされないのだ。

しかし、この話はひょっとしたら、フレデリックの馬車を勝手に乗ろうとしても、使用人が

ショパンに確認するはずであるから不可解であるのだ。つまり、ショパンとサンドでモーリスを利用して、パリに滞在中もパリにいないふりをして借金の取り立てから逃れていたのかもしれない…。

サンドは、ルドヴィカに何が言いたかったのか真意は不透明であるが、

サンドは、ルドヴィカ夫妻からショパンの世話をしているというお金は貰っているため、得意の奇妙な言い回しや無暗に神を持ち出して、ルドヴィカを煙に巻くよう書いた。

「あなたの善良で祝福された決意は、フレデリックとの再会の実を結びました。それはフレデリックの心から全ての苦味を奪い、彼に勇気と強さを与えました。このような幸福を一ヶ月ものあいだ享受するには、その痕跡を保存すること、多くの傷を癒すこと、そして神への新たな希望と信仰の貯えを得ることがフレデリックは必要でした。

あなたは彼がこれまでに受けた医者の中で一番だと言えるでしょう。

彼の生きる意志を取り戻すためにあなたについて話す必要があるだけです。」

フレデリックのことをさも分かったかのように書いたサンド。そして、いつも聖書の受け売りが得意なサンドは、子供のいるルドヴィカへ 「あなたの腕にあなたの神聖な対象を取りなさい。」と、自分の間違った子育てを棚に上げて、お金をくれたルドヴィカへ牧師のような口ぶりを偉そうにしたのであった。

その2日後のことでした、ルドヴィカはサンドにお金を払ったはすでしたが、そのお金はフレデリックのためでしたが、サンドはそのお金はどこに使ったのか…。

ショパンは原稿、夜想曲作品55とマズルカ作品56を600フランでシュレジンガーと出版の交渉をした手紙をパリのフランショームへ送りつけていた。

そして、そのお金は銀行家のレオのところにあるから、ショパンがフランショームから借りていた500フランは、レオから貰ってくれとショパンはフランショームに伝えたのでした。

ショパンはフランショームに「今週パリで会えると思っていたため手紙をかかなかった。ノアンからパリへの出発が遅れていました。」と書いた。

フランショームから借金の返済期日が遅れていると連絡があったのか、それともパリで会う約束の日をショパンが踏み倒したのかであろうか。

ノアン滞在は9月から3週間経とうとしていた、ルドヴィカを見送りにパリに3日間いただけで、7月から8月もずっとノアンにいたショパンだった。フランショームから見たら、やはり、借金の取り立てから逃れてノアンにいたと思われても仕方がないショパンとサンドであった。

しかし、これは、ショパンの側から見たら、フランショームとのことは、

1831年の12月以前から、「マイエルベーアの≪悪魔のロベール≫を主題にして何か書いてくれないか」と、出版商人のシュレジンガーからショパンは頼まれていたことがあった。

ショパンはこの曲は好きではなかったが、お金に困っていたため、シュレジンガーの依頼を受けたのである。

1832年2月にショパンはパリの社交界で演奏家としてデビューしたものの、収入はほとんどなかった。自分のことを「貧民ショパン」と書いていた。姉ルドヴィカはフレデリックに「お金がないなら、親には内緒で私に知らせなさい」と言っていたこともあった。

そして、1833年の夏にフランショームの田舎へ招かれたショパンだった。このとき既にフランショームは音楽院の教授であった。そこで、ショパンとフランショーム

は何を話し合ったかは不明だが、ショパンは温めていた≪マイエルベーアの悪魔の主題による大二重奏曲≫をフランショームとの共演の演奏に提供したのだ。

その後、≪マイエルベーアの悪魔の主題による大二重奏曲≫は、ショパンとフランショームの共作として出版されたのである。

ショパンはフランショームに出版を便乗されて収入が減ったのであった。それでも、ショパンは立場上、文句を言わなかった。しかし、フランショームはショパンを音楽院の席には引っ張ってくれなかったのだ。

フランショームはお金には困っていなかった。ショパンはお金にずっと困って来たのだ。だから、ショパンとしては、「フランショームは500フランくらいどうということはないであろう、悪魔のロベールの主題の…の、お金を返してほしいのは僕のほうだ」と、言いたいところをグッとこらえたショパンは、「貧乏人からこれ以上、金と才能を巻き上げないでくれ、文句があるならシュレジンガーか銀行家レオにどうぞ。君はお金持ちだから大丈夫であろう。」と、言いたいとことろであった。11年も前の話だが、ショパンは、フランショームに

この書簡の最後に姉ルドヴィカが来たことを書いた。「僕は今でも君とは違い、姉にお金を貰わねばならなかった、君は困っていない。だから、あのときのことを思えば、君は500フランはどうということはない、僕の曲は、今、600フランで交渉しているのだよ。僕の書いた曲はそれだけの価値があるのだよ、あの時の出版のお金はどこへ消えたのかね」ショパンの心の声がそう叫ぶのである。音楽家はとても古いことも、何年何月の出来事として、よく記憶しているものである。ショパンもまた、古いことも昨日の事のように記憶して呼び戻せる音楽脳をしていたに違いないのだった。


【フランショームに関するブログ記事 2019.02.09 20:52 ショパン、パリから出てフランショームと共に】

[ショパン〈チェロソナタ ト短調 作品65〉】

ショパンは〈チェロソナタ ト短調 作品65〉を1846年に完成した、チェロとピアノのための室内楽曲である。

この曲はフランショームに献呈された。ショパンはピアノとチェロのための作品を3曲残した。そのうち2曲は青年期に書かれたもので、この作品は生前に発表・出版された最後の作品である。ショパンの最後の演奏会になった1848年2月16日サル・プレイエルの演奏会でショパンとフランショームのチェロにより第一楽章以外が初演された。

オーギュスト・フランショーム(1808年4月10日リール - 1884年1月21日パリ)

フランスのチェリスト奏者、作曲家。

リールで生まれる。(フランス北部の都市で、ベルギーと国境を接するノール県オー=ド=フランス地域)リール音楽学校でピエール・ボーマンらに学んだ。パリ音楽院でジャン=アンリ・ルヴァスールやルイ=ピエール・ノルブランに学んだ。

1828年にはサント・シャペルのチェリストに就任した。ジャン=デルファン・アラールや、ハレ管弦楽団の創始者となったチャールズ・ハレらとともにアラール四重奏団を結成した。この四重奏団は、団員がみな職業音楽家によって構成され、当時の室内楽アンサンブルとしては稀有の団体であった。

フェリックス・メンデルスゾーンが1831年にパリを訪れた折、親交を結び、フレデリック・ショパンと親しくなった。

チェロとピアノのための《ジャコモ・マイアベーアの歌劇『悪魔のロベール』の主題による協奏的大二重奏曲》はショパンとフランショームと合作として出版された。フランショームはショパンの《華麗なるポロネーズ》作品3のチェロ・パートを自分が演奏できるように改ざんした。ショパンは《チェロ・ソナタ ト短調》作品65をフランショームに献呈した。

1856年にイングランドを訪問。それ以外は、フランショームはパリに住んでいた。1843年には、ジャン=ルイ・デュポールの息子から、総額2万2千フランでストラディヴァリウス「デュポール」を買い取り、また1730年製のストラディヴァリウス「デ・ムンク」も入手しした。

1846年には、恩師ノルブランの後任として、パリ音楽院チェロ科の主任教授に就任した。

フランショームは当時の最も著名なチェリストであり、弓奏法の技術を洗練させるのに寄与した。フランショームの左手は、器用で正確な演奏と、表現力の豊かさが特徴であった。

作曲家としては55曲のチェロ作品を遺しており、《12の奇想曲》作品7、《12の練習曲》作品35、《チェロ協奏曲》作品33などがある。

1846年以降はパリ音楽院チェロ科の主任教授に就任した。

1884年にレジオン・ドヌール勲章を授与された。

その4日後、1884年1月21日に75歳で大規模な心臓発作のために亡くなりました。

フランショームは1849年10月17日,のショパンの葬儀で棺を運んだ。