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「宇田川源流」【お盆休みの歴史談義】3 歴史上の人物に焦点を上げる方法

2021.08.18 22:00

「宇田川源流」【お盆休みの歴史談義】3 歴史上の人物に焦点を上げる方法


 昨日はちょっと浮気をして、大河ドラマについて書いてしまったが、今週は「お盆休みの歴史談義」を続けたいと思う。前回、一昨日なのであるが、そこまでは、「歴史」と「地域」の関係をかなり詳しく見てきた感じがする。この「お盆休みの歴史談義」は、なんとなく、地域興しの話のようになっています。実際に都会も当然に歴史はあるのですが、残念ながらとかいは、歴史的な遺構が少なくなっている状況が少なくない。そのために、地域の方が多く遺構がのこっているということになるのである。

 さて、その歴史的な遺構に関しては、前回の話のように「場所」「人」「出来事」の三つに分類されるということになる。その三種類「歴史的な遺構」は、実は三つに分類しておきながら、実は相互に関係がある内容になるのである。人が場所を作り、またその場所で人が出来事を起こすということになる。要するに何を中心に考えて歴史を見るのかということが重要になり、そのことで、どこが中心になるのかということになるのである。

 さて、ここで突然ではあるが、私は今年の4月に「備中松山藩幕末秘話 山田方谷伝」を上梓した縁で、山田方谷の大河ドラマ誘致を行っている。この「大河ドラマ誘致」のことに関しては、オンラインサロンなどで話をしてゆこうと思うので、その内容は、ここに多少は出てくるかもしれないが、しかし、そこがメインではなく、その内容の手前の部分、つまり、歴史に関しての「考え方」と「歴史と地域の関係」と言ことを考えて本日から土曜日まで書いてゆこうと思うのである。

 さて、話を元に戻すことにしよう。「場所」「人」「出来事」、歴史を扱う人はこの三つの中の一つに焦点を当てて、その内容を行う。他の二つはその周辺侍講というようなことになってしまうのである。しかし、例えば「関ケ原の合戦」に焦点を当てる場合、当然に岐阜県の関ヶ原氏はそこに焦点を当てて観光を誘致し、以前までは「関ヶ原ウォーランド」などのテーマパークまで会ったのですから、それは重要になります。当然にこの焦点の当て方は「関ヶ原」という場所と「合戦」という出来事の二つに焦点を当てています。しかし、実際はそれだけでは無く、そこで戦った東西両軍の双方の大将、つまり徳川家康と石田三成の二人がなぜ戦うようになったのか、そして、その中でなぜ徳川家康が勝ち、石田三成が負けたのか、というようなことが最低限必要になります。それだけでは無く、そこに小早川秀秋の裏切りが存在し、また毛利秀元や吉川広家、長宗我部盛親の「裏切り」というか「動かない」という命令違反が存在します。その裏切った小早川秀秋や毛利秀元、吉川広家などにもそれぞれに物語があるのです。

 また、「なぜ関ヶ原で戦ったのか」ということも、重要な所になります。正直に言ってこの近辺であれば、大垣や垂井でもよかったわけですし、また琵琶湖湖畔、例えば現在の米原(当時は地名が異なる)や大津などでも、現在から考えればよかったのですが、しかし、その前の軍の動きなどを考えれば、当然に「関ヶ原」が必然になっているということになるのです。

 まあ、両軍合わせて20万ともいわれる軍が布陣し、そして騎馬や鉄砲で戦う広い場所ということになれば、ある程度場所は限られてくることになりますし、また、大阪と清州(織田信長の元の居城で、徳川家康に味方する豊臣恩顧の大名の集まる場所であった)の間ということになれば、だいたい場所は決まってくる。その内容を双方の台帳が「だいたいこの辺になる」と思っていれば、そこが戦略から見てもっとも戦争に適したことになるということになるのです。

 さて、このように考えれば、「出来事」が起きる内容というのは、当然にその出来事を興している人がいるわけで、また出来事に関してはだいたいの場合、原因があるということになります。出来事そのものに、人為的な原因がないのは、自然災害だけということになりますが、その自然災害をもとにしても、生き残った人の中で、様々なことを考えて行動をするので、その行動が出来事を引き起こすということになります。

 また、その出来事をもとに、次に備えたり、あるいは、その中において、次の事を考えて「場所」を選びます。まさに、そのことで「場所」を決めるのも「人」なのです。

 このように考えれば、三つの要素がある歴史に関して、三つの中で何を中心にするかということになれば、それは「人」ということになります。人が場所を選び、人が出来事を作る。またその人が、「出来事の後の後始末やその影響を受けて次の歴史を作る」というおことになるのです。

 さて、そこで、ここからは人を中心に歴史を見るということを考えてみましょう。

 ここまでの話をいったん全て無くして、人に焦点を当てた歴史の考え方をまず見てみます。

 まずは、その「人」の属性を考えなければなりません。

 日本の場合、古代は「天皇」「公家」の二つ、または大和朝廷外の「豪族」と「僧侶」が出てきます。また平安時代末期から「武士」という階級が出てきます。もちろん、その中にほかの話も出てきますが、しかし、まだこの古代を扱う場合は「庶民」というのは出てこないのです。

 庶民が出てき始めるのは室町時代、徐々に「芸術」というものが一般に下方されてきてからということになります。まさに「市」によって物が取引されるようになってから庶民が出てくることになるのです。

 このように考えると「天皇」「公家」「武士」いずれも「政治」を行う人々であり、僧侶は「宗教」と「文化」ということになります。もちろん公家や天皇も絵を描きますし和歌も詠みますが、しかし、それが中心ではないということになります。

 このように考えると「庶民の歴史」は常に存在しているはずですが、しかし、記録に残っていないということになるのです。しかし、「記録に残っていなくても、必ずそこの歴史がある」ということを忘れてはいけません。彼らは何らかの形で「生きている」ということになります。それが「口承伝承」や「祭り」などというおkとになります。ただ、この口承伝承や祭りの部分は「歴史学」ではなく「民俗学」の範囲になるので、もう少し違う話をした方が良いのかもしれません。

 さて、このように考えると「人」の歴史は「政治」「文化」という二つの流れで作られているということがわかります。まさに歴史学といわれるものは、この二つの流れを書いているのであり、その傍流として経済や宗教(宗教も文化の中に含まれるという考え方もあります)を書いているということになります。庶民は、この歴史学の中では「名前のない人」であり、個性が無くなってしまうのです。このような感じでよいのかどうかは別にして、そのような歴史がそのまま残されているということになるのです。

 私が、「史実」とか「エビデンス主義」をあまり好ましく思っていないのは、「史実」といわれるものは、後世になって歴史学者という「政治」と「文化」を中心にしか物事を考えていないということになるのです。

 つまり、庶民というものがいて、そこに生活がありながら、その生活を完全に無視して、政治の流れだけを考えるということになるのではないでしょうか。しかし、それは「名もなき庶民、から受ける政治の影響なども全く考えていないということになります。文化では、当然に「布教するための説話集」が存在するのに関わらず、政治に関しては「庶民は従うもの」という前提で歴史が語られることになります。よって、「庶民の歴史」があり、その庶民の胎動を感じ取るこということができないということになるのです。

 平安時代であれば「海賊」や「山賊」などがあげられ、また敵に豪族なども入ってきますし、また、鎌倉時代では悪党といわれる人々が出てくることになるのです。

 この流れが「庶民」の方に流れるのが、室町時代ということになります。

 「民話」が体系的になり「御伽草子」などが残ることになり、その内容の民話の中に庶民が出てくることになるのです。

 さて、そのような意味で「人」といっても、「どの階級」の人に焦点を当てるかということになってくるのです。