観心寺(河内国・河内長野市)
<別称> 不明
<住所> 大阪府河内長野市寺元
<比高(標高)> 17m(209m)
<形態> 城郭寺院(陣所)
<時期> 中世
<アクセス>
駐車場もあり、バスも通っている
<歴史>
観心寺は奈良時代創建の寺院で、金剛寺と同じく中世の戦乱の過程で城郭化したと思われる。
正平十四年(1359)十二月に後村上天皇が金剛寺から観心寺に行宮を移している(『金剛寺聖教類奥書集』)。南朝の重要拠点として、金剛寺がそうであったように城郭化された可能性が考えられるが、それを明確に示す史料はない。ただ、『太平記』には観心寺遷幸の経緯として楠木正儀・和田正武が金剛寺より山奥で防御に適していると奏上しており(『太平記』巻三十四)、畠山国清による侵攻に対する軍事拠点としての認識も存在したと思われる。そして翌年三月に南朝方は攻撃を受け、金剛寺が焼き払われ、天皇らは大和国に避難した。
戦国期には寛正元年(1460)十二月に、畠山氏の争いの中で義就が獄山城の周囲に築いた「外城」「枝城」で観心寺が挙げられ、確実な史料からは不明なものの、城郭化がされた(『応仁記』、『応仁別記』、『応仁前記』、『畠山家記』)。
足利義稙の河内征伐で高屋城に対する包囲陣の一つに「くわんせん寺」があり(『蔭涼軒日録』明応二年三月二日条、ちなみに不正確ではあるが獄山や誉田からの距離が記されているので観心寺を指すことはほぼ確実である)、根来衆や紀伊国衆が入った。
『南河内における中世城館の調査』でも、戦国期については触れられていないが城郭化された可能性が想定されている。
<構造・現状>
城郭遺構などは無いが、楠木正成像、楠木正成首塚、後村上天皇檜尾陵など南朝関連の史跡が多く、もちろん寺院としても楽しめる。
<史料・資料>
『金剛寺聖教類奥書集』、『太平記』、『応仁記』、『応仁別記』、『応仁前記』、『畠山家記』、『蔭涼軒日録』、「南河内における楠木氏の諸城砦」(『日本城郭大系』)、「天野合戦と金剛寺々辺の中世城郭」(『河内長野市城館分布調査報告書』)、『南河内における中世城館の調査』