仏王処刑20-第二のフランス革命仏王幽閉
2021.08.19 11:05
革命当時から、パリは各地区代表を決めてコミューンができていた。しかしジャコバン派が主導権を握って急進化し、各地から集まった連盟兵がこの動きに加わる。8月6日にはシャン・ド・マルスで、合同の大集会が行われ気勢をあげた。ブランシュヴァイク宣言に刺激されて、王権の廃止を求める。
8月9日、孤児院ホールで、ほとんどサンキュロットの地区代表総会が開かれ、翌10日早朝、彼らは市庁舎を乗っ取り、市政府を廃止、市長ペチヨンを軟禁して、蜂起コミューンとして無制限の権力を握ると宣言した。そして国王の居るチュイルリー宮に押し寄せた。
ルイ16世は、6月20日とは反対に、パリ県知事レデラーの助言に従って、事態を鎮静させるため議会に避難した。その間侵入した暴徒達によって、警護にあたっていたスイス兵は虐殺された。実際の暴徒は予想より少なく、制圧は可能だったという指摘もある。ルイ16世は安全のためタンブル塔に入れられた。
暴徒達が王権廃止を叫ぶ中、議会はとりあえず国王の「職務停止」を決定した。しかしこれは制定された立憲君主制憲法にはそぐわず、何とまた憲法をつくらねばならない。8月10日事件は第二のフランス革命と言われる。議会は役に立たず、暴力が事態を決め、暴力が広がっていく。